笑顔の度合いと地方の民度の低さ | 狂った日本の中で生きるチカラ

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日本の社会に翻弄されて得た沢山の記憶と体験をこれから体験するかもしれない人のために在るべき姿。



笑顔が大切って意外に誰もが知ってるけど実行出来ていない人はとても多い。

余裕や金銭に満たされている時は確かに殆どの者が笑顔はできる。
ところが昨今のコロナ禍のようになるとそれらの笑顔や自信は消え去り、誰か他者との比較や蔑みによる自己肯定を前提とした「顔」が増えて正直辟易とするようになり結果的に周囲の笑顔も消していくのである。

こんな世の中。
地方では地元で既に人生の大半を終えて年金ベースで暮らす爺婆が利権や栄誉の中心にいる場合が多い。なので本来ならその彼等が一重に笑顔で余裕を失っている若者や中堅層を支持しても良いはずなのだけど、そうした時に「こそ」追い落としたり、追いやったり、貶したり、遠ざけたりする人がとにかく多いのだ。

その爺婆は普段は地域創生やら地方を盛り上げようと声高々に謳いまくっているわけだが、よくよく見てみると残念なほどにその息子や娘は大体首都圏に住まわせ家を買わせ地元に戻る気の無い。
そのくせ周囲には盛り上げろだと努力しろだのと若手にやたらと押し付け思うようにいかないと直ぐに噂を振り撒き散らし邪険にして地域で孤立化させていく。

それがこのコロナ禍で更に磨きがかかり手をつけられなくなっているけれど、誰もその当事者には意見しないのもまた地方あるあるでもある。
意見したが最後、完全に地域から排除され地域内で生きていけなくなるという筋書きになるからだ。

完全に旧態依然の思考回路から脱却出来ない地方の良くある姿であり、こんな体制が更に続くようであればもう手も付けられないだろう。
糞みたいな爺婆の価値観で自治体が滅びるのが先か、その爺婆が老衰などで天寿を全うするのが先か。
悲しいのは、爺婆の死を密かに願う若手の姿がとにかく多い事。彼等爺婆が牛耳る間は何も出来ないと知ってしまっているからだろう。

まぁ面倒臭い世の中だが、コロナ禍で良い点も出てきた。
生き残れないとレッテルを貼られた会社や事業も、資金的な流動性アップや周辺の同業他社の不振から来る特定へのレッテル貼りが控えられてきているのだ。

やや過激な事を言うが、コロナウイルスが年配層に蔓延して、地方の膠着状態が改善されるのもまた大きな流れでは望むべくだが、至って憎まれる爺婆ほど長生きというのもまた理屈である。。