陽明門は修復が
ようやく終了したようです。
手前では、他の所が
まだ修復の
真っ最中でした。





子供の頃は
怖いと思っていた
随身の方々です。



大人になっても
うん、厳しいな…と
思います。
職務に忠実なのです。
虎の毛皮は、
とても可愛らしいです。ほっこり



こちらの獅子は
前脚が長くて
筋肉隆々で、
もし逃げてもすぐに
追いつかれそうです。



私は怪しいものでは
ありませんから、
どうか凛々しいお姿を
一枚撮らせて下さいと
声をおかけしてから
皆さんを撮影いたしました。



中国の故事にちなんだ
彫刻が無数にあり、
もしも一つ一つ
じっくりと拝見していたら
本当に一日がかりだと
思います。



手前の鳥居の所から、
荘厳さと華麗さに
いつもながら
圧倒されます。


修復が終わったからか、
以前の記憶よりも
ずっときらびやかに
輝いていました。


白を基調としていますが
それが見えなくなるくらい
紅や青や緑の
極彩色の彫刻で
彩られています。


その色彩を見て、
以前夢に見た歓喜天様と
おんなじ色彩だなぁと
思いました。


歓喜天様は秘仏なので
実際拝見した事は
一度もないのですが、
夢の中の歓喜天様は
象のお顔では
ありませんでした。


彫りが深くて
目も鼻も大きくて
ど派手な顔立ちで、
まるでインドとか
アラブの方のようでした。


体は奈良の大仏くらいで
白い肌に極彩色が
彩られていて、
今まで見た事がない
ご様子でした。


その巨大な御仏が
私の頭の中に直接
「歓喜天」と
名乗ったのです。


一体どんな意味が
あるのでしょう❔
もっと細かくメッセージが
聞き取れたらいいのに…。ぐすん


自分に力が足りず、
本当に残念な事ですが
あれからというもの
歓喜天様が大好きになり、
夢に出て
名乗って下さった
持国天様や
昭憲皇后陛下同様を
お見かけすると、
熱心にご挨拶しています。


ご縁が出来て
誠に有り難い事です。
(元々ご縁のあった御仏様は
さらなりです。)



この猫さんは、
曲者にいつでも
飛びかかれるように
身構えています。


だって、
足が浮いていますもの。
けして寝てはいません。



御霊屋は
増上寺同様
こちらにもありません。



世が世なら
私のような下々の者は
ここに近づく事さえ
許されなかったのに、
こうして参拝出来るなんて
本当に有り難い事だと
思います。



ここは静かで
本当に質素です。



東照宮の境内の装飾は
にぎにぎしすぎて、
私にはなんだか
落ち着かない感じがします。


もしも私が
徳川家康公なら
権現様として奉られて
本当に有り難いけれど、
眠る場所はやはり
簡素な所が落ち着くと
思うのです。


だから、
これでいいんだねと
夫と話しました。


起きている時の
場所としては、
ここは少し
さみしい場所ですけれど。



叶杉の幹が
めくれてしまって
かわいそうでした。


触ってお願い事をするなんて
もうやめてほしいです。



豪華な回廊を巡って
本殿を参拝しました。
これでもかというほど
装飾が施されています。
威圧的な程です。
圧倒される眺めです。


私が子供の頃は
この中に入れなかったような
記憶があるのですが、
記憶違いでしょうか❔


この現代では
有り難い事に、
本殿の一番奥まで
入れるのです。


前回参拝した時は、
奥で参拝客全員に
簡単なお祓いを
して頂いた記憶が
あります。


今回はお祓いはなく、
宮司様の説明のみでした。


本殿に殿上出来るような
お武家様であっても
(位階によっては
昇殿さえ出来ません)、
ここでは位階によって
座る場所が厳然と
区別されていたそうです。


一番奥でお参りした時、
家康公だけではなく
源頼朝公と
豊臣秀吉公とが
一緒にお祀りされている事に
初めて気づきました。


強く感銘を受けました。


燈籠を寄進する場所も
位階によってはっきりと
分かれているねと、
夫と一つ一つ
燈籠の刻文を読みながら
ちょうど話していました。


江戸時代初期は
まだ織田恩顧や
豊臣恩顧の家臣もいて
時代の記憶もあり、

徳川何するものぞという
気概を持つお家も
おそらくあった事と
思います。


戦国時代の気風は
誰の心の中にも
残っていた事でしょう。


お武家の方々はみな
ここに至るまでに、
驚愕するような
壮麗な境内を
既に通ってきています。


位階による格の違いも
あちこちで既に
散々わきまえさせられています。


東照宮様に参拝したお武家様は
もう時代は変わったのだ、

将軍とは身分が完全に
隔たってしまったのだということを
嫌と言うほど
見せつけられた筈です。


駄目押しに、
一緒に祀られている
源頼朝公と豊臣秀吉公
だけでなく、
神君家康公にも
ここで額づくのです。


神様になった方々のご威光と
祟りの恐ろしさは、

人の墓前で感じるものとは
全然違います。


あわよくば
将軍の首でも取れるかと
地方から勇み立って
日光にやって来たお武家も、

戦意はここで
完全に挫かれるでしょう。


あわよくばという
儚い気持ちを打ち砕き
徳川家に恭順する事を
余儀なくさせる為の
この次第と、

この席次だと
私は感じました。


参勤交代には
莫大な経費がかかります。
登城すれば細かいしきたりやら
組織にがんじがらめです。
何か不行き届きがあれば
すぐに改易、減封です。


そこでも徳川家の権威と
自分が家臣である悲哀は
身に沁みた事でしょう。


江戸屋敷に人員が
留め置かれているのも
連携を断ち、力を削いで
謀反を防ぐ方策です。


また、
頻繁に国替えさせられたり
国が富んでいると見るや
あっさり取り上げて
直轄領にしたり、
徳川のたくさんの息子や娘を
他家に嫁取らせたり、
他家の養子にしています。


念には念を入れて
謀反への気概を
挫くシステムだと
思いました。



イスラム教のモスクくらい
細密な彫刻と
塗りが丹念に
施されています。




本殿の入り口です。


鎌倉へ行って
不思議な体験をしてから、

源氏の頭領として
源頼朝公が成した業績を
ずっと調べていました。


嫡男頼家公の乳母父である
比企家と、
次男実朝公の後楯である
北条家との確執があった事も
調べているうちに
わかりました。


将軍家も
天皇家も
公家も、
家督争いや
家臣同士の争いは
戦の種です。


それは後の世に禍根を残し
人々に苦難を強いるものです。


家臣をうまくまとめる事、
家督争いを起こさぬ事、
そして謀反を防ぐ事。


どれもすごく
難しい事です。


源頼朝公は人質だったからか
本当に信頼出来る人材や
親兄弟が
周囲に足りなかったか、
後の世までまとめきれなかったと
私は感じました。


そして、
せめて鎌倉幕府が
さらに盤石になるまで
頼家公の次の代まで、
頼朝公がもう少し長く
存命であれば、

比企家と北条家双方に
睨みを効かせて
家臣をまとめる事が
出来ただろうと
思いました。


長寿である事も
治世を長く続ける為の
本当に大切な条件です。


栃木旅行を予約したのは
鎌倉に行く前でしたが
私は頼朝公の事を
調べるうちに、

長く徳川の治世を続けた
家康公の事も
いつしか調べるように
なっていました。


徳川家康公も
源頼朝公と同じく、
長い間人質として
他家に預けられていました。


いつも監視されながら
少ない家臣と共に
生活するというのは
どんなに心もとなく、
どんなに強い精神力が
必要だった事でしょう。


家康公はおそらく
源頼朝公と自分の境遇を重ねて、
ずっと自分を
励ましてきたと
思うのです。


源頼朝公こそ
同じ苦しみから這い上がって
源氏の頭領として
征夷大将軍として、
立派に鎌倉幕府を
開いたのですから。


しかし鎌倉幕府、
室町幕府に至っても
いまだに世は
綿のように乱れて、
戦が続いていました。


民はその度に家を追われ
暮らしや家族を奪われ、
塗炭の苦しみを
舐め続けていました。


家康公の御母堂も
実家が敵となった為
離縁させられ、
生き別れています。


父とも母とも会えず、

いつか故郷に帰り
家督を継ぐ日を
心待ちにしながら
幼少の砌から一人
勉学と武学に励む中で、

家康公は
君主は弱くては駄目なのだ、

強くなくては、
我が身どころか
大切な国や民を守る事は
出来ないのだと
その骨身に刻んだと思います。


そして、
いつか自分は
源頼朝公のように
征夷大将軍になり、

世の乱れを終わらせて
日の本の民が皆
安心して笑って暮らせる世を
築こうと、
人質となったお寺で
神仏に誓った筈です。


前にブログに書きましたが
元は江戸である
東京に住んでいると、

庶民が気軽に楽しめた
公園や行楽地が
そこここにある事に
気づかされます。


お武家に窮屈な
制度を設けたのは、
もう二度と
乱世に戻さない為だと
私は思います。


徳川家を続かせる事に
重きを置いてはいないけれど、

ご威光を重くする事で
世が乱れるのを抑える事は
念頭にあったと思います。


家督争いや
家臣同士の争いを
厳に戒めたのは、

国元の乱れはいつでも
大きな戦を
呼び起こすからです。


「戦のない世の中に
する為に、
国を平らかにする為に
どうすればいいのかと
自分は子供の頃から
ずっと考えてきた。


辛抱に辛抱を
重ねてきた。


家臣と共に長年
血の滲む苦労をしてきた。


国の乱れになると思えばこそ
涙を呑んで
正室も嫡男も殺めた。


今こそ豊臣から
天下を奪い、
新しい世を開いて
戦を終わらせる。


戦をもう二度と
しない為に、
自分は最後の
大戦(おおいくさ)をすると
決めたのだ。


民が家族と笑って
毎日を楽しんで
暮らせる世の中を、
必ず自分は作る。


いつもそのように思って
自分は過ごして来たのだ。


民は今も
笑っているかな❔


上に立つものは、
そのことをいつも
心がけなければならない。」


東照宮様に
参拝したら
徳川家康公の思いが
私にじわじわと
沁みこんで来て、

私は男ではないのに、
感動して男泣きに
泣けましたえーん


豊臣秀吉公の遺児
秀頼様を殺めた事は、

本当は家康公にとっても
痛恨事ではなかったかと
思います。


豊臣秀頼様を家臣として
手を携えて
世をまとめられたら
良かったけれど、

時代はもう変わっているのに
秀頼様というよりも
その周囲は、

それを受け入れて
くれそうには
ありませんでした。


秀頼公を殺めたのは
是非なき事でした。


是非なき事ながら
悔やんでいたからこそ、

家康公は
権現様になるにあたり、

豊臣秀吉公を
源頼朝公と共に
ご祭神として、
お祀りされたのだと
私は感じました。


家康公は
お二方共々と3人で
良き世の中を築き、
ずっとこの国を見守り
民を見守ろうと
決意していたのだと
思います。


国の上に立つ人が
皆東照宮様に参拝して
このメッセージが
受け取れたらいいのにと
思うけれど、

私は受け取ったし、

国家公務員として働く
夫や長男にも
この思いは
きっと伝わっていると
思います。


日光東照宮様に
参拝出来て、
本当に良かったです。