赤ちゃん連れフォトグラファーのAzusaです。 

ご覧いただきありがとうございます。 

 

 

投稿四百七十二回目は 

「【ありがとう、お母さん①】

海外で受け取った、

元気だったはずの母の、突然の訃報」 

について書きたいと思います。 

 

 

 

(初めてお越しの方は 

こちらの自己紹介をご覧いただけたら 

嬉しいです!)

 
 
 
 
 
 
「どうして自分にばかり
こんなことが起こるのだろう」

 
 
 
そう思わずにはいられませんでした。

 
 
 
 
 
 
母が亡くなった
連絡を受けたのは
 
 
 
1週間前のことでした。
 
 
 
 
 
 
 
奇しくもその日の朝
 
 
母がほんの一瞬
夢に出て来て
 
 
 
「そういえば
 
母がタイから日本に戻った
と連絡をもらってから
 
それに
返信をしていないままだった

 
ということを
 
 
朧気に考えながら迎えた朝でした。
 
 
 
 
 

 
その日は
 
タイ滞在ビザを取得するために
 
 
 

早朝から
ラオスを目指していました
 
 

 

 
 
 
 
そのため
 
その夢のことなど
 
 
目覚めと同時に頭の片隅へと
追いやられていき
 
 
 
 
 
またその日
 
何度も何度も来ていた
叔父からの連絡にも
 
 
全く気付くことが
出来なかったのです
 
 
 
 
 
 
 
在ラオスタイ大使館での
ビザ申請を
 
午前中に無事に終え
 
 
 
 
ラオスの首都
ビエンチャンの街の
観光名所を巡ってから

 
ホテルに腰を落ち着けたのは
 
 
 
もう夕方でした。

 
 
 
 
 
早起きと猛暑の中の観光に
疲れが出たのか
 
 
次女と三女は
昼寝をしてしまっていたため
 
 
 
ようやく
インターネットに接続出来る環境に
辿り着けた私は

 
 
 
ここぞとばかりに
 
片付けたいことを済ませることに
夢中でした。

 
 
 
 
 
そしてその後
 
夕食のために再び外出し
 
ナイトマーケットを見て
ホテルに戻って来た時には
 
 
 
日本の時刻では
もう日付を跨いでしまっていました

 
 
 
 
 
 
ふと
 
ホテルのWi-Fiを拾い始めた
私の携帯が
 
 
メッセージを受信したことを
知らせるために
 
鳴りました。

 
 
 
 
気になって
画面を見てみると

 
 
 
 
送信元は
 
 
 
 
もう7年も音信不通だった

妹の夫からでした。
 
 
 
 
 
 

「これはただ事ではない」
 
 
 
そう直観的に感じながら
 
 
 

同時に
 
 

前日に叔父からもらっていた
 
「母と連絡が取れていない」
 
というメッセージのことが
 
 
 
頭を過りました。
 
 
 
 
 

そして

 
脳の中では
 
 
 
全ての事象がリンクし

1つの結論を導き出しているのを
感じていました
 
 
 
 
 

妹の夫のメッセージに促されるまま

 
 
叔父から届いていたメールを開くと

 
 
 
そこには
 
 
 
 
私の脳が導き出した結論が

文字になっていました
 
 
 
 
 
 
 

 
ある程度の覚悟を持って
そのメールを開いたためか

 
まだそれ程
実感が湧いていなかった
ためか
 

長女なのだからしっかりせねば
という気持ちが働いた
からか
 

はたまた
 

母には
常に複雑な思いが
付きまとっていた
ためか
 
 
 
 
涙は出ませんでした
 
 
 
 
 
 
しかしそれでも
 
 
 
 
歩く膝には全く力が入らず
 
 
 
「地に足が付かない」とは
きっとこういうことかと
 
 
妙に納得していました。
 
 
 
 
 
 
「悲しい」
 
 
という一言では表し切れない

 
 
極度に緊張した時に似た
鉛のかたまりのような重みが
 
みぞおちの辺りに広がるような感覚を
感じていました。
 

 
 
 
 
 
 
夫が刺された時には
 
何とか見い出すことが出来た
それが自分に起こった意味も
 
 
見出すことが出来ず
 
 
 
 
 
 
 
「どうして立て続けに
こんなことばかりが」
 
 
という思いを
禁じ得ませんでした。
 
 
 
 
 
 
 
そうした思いを打ち消すべく
 
 
ただ黙々と
 
溜まっていたメッセージに
返信していきました。

 
 
 
 
 
その中には
 
 
7年連絡を取っていなかった
妹も含まれていました
 
 
 
 

 
母子家庭で
年子の姉妹として育った私たちは

 
 
女手1つで私たち姉妹を育てるために
母が家を空けがちだったこともあり
 
 
 
 
多くの時間と出来事を
共有してきました
 
 
 
 
 
時には
 
 
家庭持ちだった育ての父と
私が大喧嘩して
 
 
一人暮らしを始めた途端に
 

そこに妹が転がり込んで来て
2人暮らしになった
 
 
なんていうこともありました。
 
 
 
 
 
 

しかし7年前
 
 
 
私はどうしても
妹の行動が理解出来ず
 
 
私たちは
連絡を取り合わなくなりました
 

 
 
 
 
私は自分の物差しでしか
物事を見ることが出来ず
 
 
 
妹の行動を
 
そうした尺度によって
判断してしまっていた
のかと思います。
 
 
 
 
 
 
人並以上だと思っていた絆は
 
 
あっという間に
崩れてしまいました。
 

 
 
 
 
 
 
しかし生前の母の願い
 
 
 

「2人しかいない姉妹
仲良く助け合ってくれること」
 
 
でした。
 
 
 
 
 

そして
 
それを抜きにしても
 
 
 

今が
仲違いをしている場合ではないことは
 
明らかでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
メッセージのやりとりは
何往復にも渡り
 
 
 
それはまるで
 
7年の空白を
埋めようとするかのようでした。
 
 
 
 
 
 
 
やりとりは朝まで続き
 
 
結局一睡もしないまま
 
 
私はバンコクへと戻る
帰路に就くことになりました。
 
 
 
 
 
 

しかし
どれだけやりとりをしても
 
 
母の身に何が起こったのかは
依然として分からないまま
でした。
 
 
 
 
 
 

この釈然としない思いを解消するためには
 
 
 
日本に行くしかない
 
 
 
 
 
 
 
 
警察でも監察医でも
分からなかったことが
 
 
私に分かるはずは
無かったのかもしれませんが
 
 
 
 
 
それでも
 
 
会えばきっと分かる

 
 
 
そう思っていました。

 
 
 
 
 
 
 
 
しかし日本に行くということは
 
 
すなわち
 
 
子どもたちが
今学期は学校に行くことを
諦めねばならない

 
 
ということを意味していました。

 
 
 
 
 
 
新型コロナウイルス感染の
「ハイリスク国」として
 
 
タイ政府から指定されている日本
 
 
 
 
 
 
 
その日本からタイに行った場合
 
 
 
タイに戻ってから14日間は
 
 
自宅待機が
学校から要請されている
ためです。
 
 
 
 
 

また
 
 
夫が「濃厚接触」の対象と
ならないようにするために
 
 
 
 
私たちがタイに戻ってから2週間は
 
 
夫は私たちと離れて
ホテル暮らし
せねばならなくなります。
 
 
 
 
 
 
それでも
 
 
行かない訳にはいきませんでした。
 
 
 
 
 
 
これを逃せば
 
 
 
二度と母に会うことは
出来ないのです。

 
 
 
 
 
 
 
ラオスから戻った翌日は
金曜日だったため
 
 
 
 
おそらく今学期最後の通学のために
子どもたちを学校へと送り

 
 
 
子どもたちは
友人や先生たちとしばしのお別れ。
 
 
 
 
 
 
 
そしていざ日本へ
 
 
 
 
母と向き合う最後の旅
出掛けることになります。

 
 
 
 
 
 
そこで私を待っていたのは
 
 

私が知らなかった母でした。
 
 
 
 
 
 

 

に続きます。