心の収め方。 | アザノカタリズム

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色んなことを勝手気ままにダラダラ語ります。

人の感情にはそもそも期限も区切りも終わりも存在しない。

それを有限のものとして扱うのは生きる為、だと思う。

 

怒りも悲しみも時間が経てば冷める、薄れるもの等はよく言われるが

一概にこうなる、という規則性を、

価値観や捉え方、感じ方が個々によって違うのに

当てはめるのもおかしい。

 

同じく、事柄の大きさも他者が判断できるものではなく、

すぐ忘れる事なのか、気にしないで済むことなのかも

当事者である個人により違う。

 

自身にとって大きく感情が動いた物事は

簡単に記憶からなくならないし、時間が経つほど感情が深まるものもある。

 

時間が解決してくれる場合ももちろんあるけど、

それは気持ちの流れをそのまま受け入れていけた時じゃないかな。

 

無理矢理に区切りをつけたり、終わりにした感情は

心の奥で尾を引くことがある。

 

自分に言い聞かせる、それは心に嘘をつかせるからだと自分は考える。

 

騙されてそのままいけばいいが、嘘の引っ掛かりを拭えず

逆にそれが気になりいつまでも忘れることができなくなる。

 

ふとしたきっかけが、その引っ掛かりに当たり

蓋をして隠していた怒りや悲しみが飛び出し再熱することもある。

誤魔化した感情もまた、間違いなくぶり返す。

 

 

自分の感情は、人に言われたり、強制で区切れるものでない。

 

気持ちは自分自身のもので、本当の怒りや悲しみの度合いも、

どうすれば折り合いがつけられるのか整理や納得できるか・・・

そんなことは正直、己のみにしかわからないのだから。

 

だから「いつまでもそんなことで・・・」とか言う他人の言葉は無視でいい。

 

感情で周りが呆れる程の行動や状態になっているのならば、

それを本人自身が気づいていないわけがないし、そんな本人が一番どうにかしたい筈。

そこを乗り越えなければ、きっとダメなんだと思う。

 

ただ、他者に何か迷惑をかけていて、その人から注意されたなら

聞く耳は必要だけど。

 

 

抱える感情を収めるには、

自分の中で思う存分に向き合っていれば、いずれ終着点に辿り着くことができる。

そうなれば尾を引かず、その気持ちから卒業していくかもしれない。

 

でも時に、他者が深く関わる感情は

自分の中だけで納得がいくように収めるのが難しい場合が多い。

 

話し合う、伝える等が出来ず、抱える感情の矛先があっても

どうにもできない時、無限ループに陥る。

 

それでも悲しみも怒りも、トコトンその感情に自分が付き合って

自分なりの収めどころを探るしかない。

 

自分はその感情から逃げることができないけど、

ひとりで抱えるのが辛い時は、無理せずもちろん

他者にしんどいって吐露して休憩することも大事。

 

最後まで感情といるのは自分、ということは変わらないけれど、

心を消費する感情との戦いにはエネルギーは必要不可欠だから、

他者からの言葉がそのエネルギーの補充になることだってある。

 

悩み、の相談とは違うから、何かのヒントで解決できるものではないにしても、

感情が自分のキャパを超えそうな時は

誰かの胸を少し借りてみるつもりで感情を打ち明けていいと思う。

 

あと、なんでもやり切ればスッとすることもある。

 

そういうのはとても疲れることなんだけど、

それぐらい自分にある感情のことを考えていれば

飽きてきたりしんどくて考えるのが面倒になったり・・・

 

言い方が悪いけど、どうでもよくなるかもしれない。

でもそれって別に悪いことじゃない。

それだけしたんだったら、きっとそれがその感情の終着点なんだと思う。

 

 

自分なりに感情の収め方を模索中で、整理する為に語ってみた。

 

自分の感情を見ないフリをしたり嘘をつくと後々本当にしんどいから、

自分の為に心を収めるということを、有耶無耶にせず真剣に取り組もうと思う所存。