Yoga sutra 2.29 states,
Yama niyamasana pranayama pratyahara dharana dhyana samadhi astau angani:
ヨガスートラ2.29にあるように
アシュタンガとは
ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラナヤマ、プラティヤハラ、ダーラナ、ディヤナ、サマディです。
ヨガとはアシュタンガ、即ち8支則を学ぶことであり、ヨガの完全な実践のための実践的なガイドラインです。
ヨガの教典に基づいてヨガを学ぶことはアシュタンガを学ぶことです。色々な名称のヨガが普及していますが、インドのトラディショナルなヨガであればアシュタンガを学んでいることになります。目的は同じです。
これらは段階的にではなく、同時に練習するように組み立てられています。同時に成長するヨガの木の手足のように、ヨガの8本の手足は一緒に練習されます。ただし、8つの手足は、実践(アクション)を伴う手足と、結果または反応である手足に分けることができます。
たまに練習生の中で、結果、答えを先に知りたいと言う人がいますが、それらは一緒に成長していくものなので、結果や反応だけの手足についてのみ先に知ることはできません。
Yoga sutra 1.14, sa tu dirghakala nairantarya
これはヨガの練習の重要な側面であり、規律です。
練習は、長い間休みなく大いなる真剣さを持って励まなければなりません。
練習の本当の利点は、私たちが長期的に練習に専念するときに明らかになります。
日本のことわざにもありますが、
『苦労なくして得るものなし』
結果を得るには、1年、2年ではなく、
長く継続的な努力や献身が必要です。
そこには、嬉しさ、楽しさ、解放感もありますが、
苦難や苦痛もたくさん経験しなければ
いくらお金を支払っても
そのような報酬を得ることはできません。
(もう少し深く伝えると、実際にアクションを行い結果を導いているのは自己ではなく身体が行っているだけです。自己とは変わることはなく永遠です。)
それがヨガです。
ヨガを学ぶということは、単純なお金のやり取りで成立するサービスや物の売り買いではありません。
ビジネスではなくヨガを行なっています。
私たちはただ幸せのためにヨガを実践しています。
ヨガは売るものではなく、
みんなが私をハッピーにしてくれて、私もみんなをハッピーにする。誰もがそんなヨガの波長を感じ
ただそうしようと思う人が寄付を置いていくものです。エネルギーやアイデア、お金をプールする。
それが離欲(ヴァイラーギャ)です。
毎回似たり寄ったりでも、
家にいても同じようなことができたとしても
そこに一緒に居るだけで楽しい、幸せである
新しいことへの期待を満たすためというより
ささやかなハッピータイムを過ごすことへの意義。
だから同じことの繰り返しが続いたとしても、古めかしい規律があったとしても損をしているとは誰も思いません。一緒にいて楽しい。ただそれだけのことです。
初心者の方は少し理解しづらいかと思います。
練習を続けていく中で、これだけやっているのに、こんなに頑張っているのにという意識の中で練習していると結果に満足することも理解することもできません。できない事を誰かのせいにしたくなったり
色々つらくなってしまうと思います。
純粋であり完全に期待が無ければ失望することはありません。
もしこのようなヨガの考え方が追いついていないと感じたときは、私はあなたに与えることを行います。
そこに期待はありません。与えることは私の喜びと愛だけです。
他人へ愛を与えることが私の幸せにつながることもヨガを通して学ぶことができます。
パタンジャリのヨーガスートラの解説には私たちの感情をうまく捉えてこのように例えています。
パタンジャリ「マントラを唱えなさい。そうすればあなたは安らかになって、自分の美しいものに気づくでしょう。」
「私は三日間それをやってみましたが、何も起こりませんでした。このマントラは私には合わないんじゃないですか?何か他のを教えて下さい。」
「私はもう十年ほどヨーガをやっていますが、一向に変わりません。」
パタンジャリ「いつもやっていますか?」
「ええ、やったりやらなかったりですが、、、。」
パタンジャリは、ヨガは学ぶ上で第一の条件に長い間と伝えています。しかしそれは期間を指定していません。固い信念、弛まぬ努力と献身の大切さを説いています。
ですから三つ目のアーサナ(姿勢の練習)の段階の前にヤマ、ニヤマが置かれているのです。ヨガを学ぶに当たって清らかな心、ヤマ、ニヤマの心がまえが必要です。
それは始めたときに十分ではなくても熱意や真面目に取り組む気持ちがあればアーサナの練習の中で育むことができます。
それには1つに集中することが大切です。
すぐに途中で飽きてしまったり、諦めてしまう心持ちではヨガの宝物を伝えても、その輝きを見ることなく終わってしまいます。そして大切に守られていた宝物の価値は意味のないものになってしまいます。ですから昔の人はヨガを学びたくてもすぐに教えてもらえるものではありませんでした。とても大切に守られてきたものです。
そのために、ヨガを学ぶ上での第一条件として経典に記されているのでしょう。
初めのうちは好奇心が高いので続けることは簡単に思いますが、長く続けていると次第に窮屈に感じる人も中にはいると思います。ですが、もし練習の本当の利点を知りたい場合は固い信念が必要になります。
なかなか簡単なことではないので、私はやりたい人だけ行えば良いと思っています。
自我や欲求をコントロールする集中力を養ったり、
見たくない弱い自分もしっかり受け止め
本当に変わりたいと思っている人にとっては
ヨガは本当に素晴らしいツールです。
身体も心も変わります。
なぜなら、ヨガの練習は規律の中で自分を躾ながら
自分が暮らす家を基盤、支柱から構築していくようなものだからです。住みやすい家は人生を豊かにしてくれるでしょう。
少し敷居を高く感じている人もいると思いますが
ヨガは誰でも簡単に始めることができます。
しかし、ヨガを学び続けられる人は
先にお伝えしたような理由から
怠惰な人以外だと言われています。
自分で決めたことを途中で投げ出さずに
生活の一部のように自然に続けられる人ほど
強く美しいものはありません。
自分で決めたことは
いつでも自分でやめることもできます。
続けることもできます。
それは強制でもないし、自由です。
ヨガの実践が自然に生活の中にある場合、
何もプレッシャーや犠牲に感じません。
しかし、ヨガを伝えるにはこうしたことに則して説明する必要があります。
毎回、教典に書かれている大切な事ははじめに説明しているのですが、時間の経過によってこうしたベーシックな事を忘れてしまう方が多かっり
誤解がうまれてしまうように感じることもあります。
なので、今日は改めてヨガの基本的な知識について記しておこうと思いました。
ヤマとニヤマは、私たちの周りの世界との自己の行動と、行動のための倫理的ガイドラインであり、
ヨギの日常生活のファンデーションです。
アーサナ、プラナヤマ、プラティヤハラは、物理的な練習であり、よく組み合わされます。アーサナは、適切な呼吸と感覚の制御とともに、体と心を落ち着いた状態にするのに役立ちます。
そして、集中(ダーラナ)と瞑想(ディヤーナ)が起こり、最終的には、瞑想の究極の状態であるサマーディ悟りにつながります。
アーサナ、または西洋で一般的なおなじみの体の姿勢の練習は、この完全なヨガの練習のほんの一節です。完全に統合されると、アシュタンガヨガとラージャヨガとも呼ばれるヨガの8つの手足は、サマディの状態、私たちの苦しみを超越し、私たちの本質を理解する準備となります。

