紫陽花 | 高田絢子な日々

高田絢子な日々

日々の活動を綴ります。日々、精進!

仕事でございます~9:00からですが、
準備のため、いつも6時代の電車です~
眠い。

たまには音楽のことを


團先生の歌曲に、
紫陽花という有名な歌がありますが
これは「わがうた」というツィクルスの
最終曲になってます。

序の歌、孤独とは、ひぐらし、追悼歌、紫陽花

という北山冬一郎という人の詩に曲を書いています。

何年か前にツィクルスで勉強したのですが
どの歌も美しく、どこか物悲しい
だけれど、どん底ではない
というなんともいえない繊細な歌達で

ひぐらし、紫陽花は割りと
コンサートで取り上げられて
有名かもしれません。

単体で聞くよりもツィクルスで聞くと
歌のもつ意味がだいぶ変わってくるのも
ツィクルスの魅力と私は思います。

なんといってもまずは詩

紫陽花

そのひとと めぐりも逢はず
そのひとと 語らふを得ず
あはれ けふも
紫陽花の花は咲くなり
七月の陽もくるめき
そのひとと めぐりも逢はず
紫陽花の花は咲くなり


せ、切ない。
そう切ないんです。

愛する人?と語らうこともめぐり逢うことも
できないけれど、変わらず
紫陽花は咲いているんですね

そしてラスト二行で
その人と巡り逢うこともなく
紫陽花は咲いている

という自分に哀しみが起きたとしても
いつもとなにも変わらない自然

という事実を書いています

そしてまた切なさを煽るのは
團先生の作曲

暗い曲かと思いきや
華やかで力強い前奏、
そして、中間部にある力強い和音の連打から
クライマックスに向かう力強さが
非常に印象的です。

私は前奏では、キラッと力強い日射しの
中に生命力たっぷりにたくさんの花をつける
紫陽花の姿を見ます。

そのあと少しの静寂のあとに始まる
優しい切ない旋律。
このフレーズはこの曲では二度と出てきません。ここではじめて語り部の気持ちが出てくると思って弾いています。その人との日々やその人との思い出を、紫陽花を見て思い出しているところ、という感じ。

その後歌が始まります。
ハーモニーは時にかげりを見せ、不安定な
色を見せかけつつも長調におさまります。

ここにある、あはれの半音は非常に日本的。

そして、力強さを増して曲はクライマックスに向かい
前奏と同じ後奏で終わります。

なんというか、これを弾くとほろ苦い気持ちになるというか、
不思議な気持ちになります。

若い頃の痛い思い出というのか
例えば失恋とか、
今となっては思いででも
そのときは大恋愛だと思っていて、
その別れに涙し、死にそうな気持ちになっていたりして
そんな時の苦い気持ち、みたいなものを
なんとなく思い出します。

紫陽花って不思議な花ですよね。
あんなに葉っぱがしげって
お花も大きな丸い塊がボンボンついていて
だけど、どぎつくは見えないですよね。
色みのせいなのかしら?
けっして淡くはないけど、強くはない

派手な花じゃないけど、地味でもない。
ちょうど今の季節、紫陽花がたくさん
咲いていますけど、
紫陽花を見るたびに、この歌曲を思い出します。

ちなみに紫陽花の前の曲は
追悼歌という戦争の歌なのですが、
それを聞いてから聞く紫陽花は
また全然違うものに聞こえます

勉強不足でして、
このツィクルスが曲の前後が繋がっているのか
バラバラのものをただまとめてツィクルスにしたのかわからないのですが、
追悼歌からの紫陽花は、重みもあり、だけれど救いもあり、だけど、、

というより一層深さを増します。

追悼歌の詩の一部は


草とともに君は臥して
永遠に動かなかった

戦場よ さらば
雲の上 魂は果てなく昇った

陽はそののちも
限りない美しさであった


なんともいえない詩です。
今の私たちには書けない重みのある言葉です。

この曲の構成も本当に素晴らしい。
フレージングが逸脱してます。

こうやって見てみると、一曲一曲が
非常に面白くないですか?
母国の歌も素晴らしいものが
たくさんあります。
いつか、それらを伝えていける機会を
作っていくことが夢だったりもします。

そんなわけで今日もディナーショーです!
たくさんのお客様にお会いできるのを楽しみにしてます





これ、前回のディナーショーで
ワイドポラロイドでとってもらった写真。
すごいー!
ちゃっかりいただきました。
ありがとうございます!