前回のブログで書いたように、自分の手から何らかのエネルギーが出ていると確信してからは、お手軽なのもあって、筋肉の張りのある場所や痛みのある部位に手をあてて夜は眠りにつくようになりました。
先日、以前感じたハートチャクラの辺りにしばらく手を当てていると・・・
身体の痛みの出やすい場所などから順に移動して、マイナスエネルギーが流れ出るのが感じられました
特に首の後ろからは、結構長い時間をかけて、エネルギーが放出されていきました。
ストレートネックと言われているのも、結構マイナスエネルギーが溜め込まれていたせいなのね、などと思っていると・・・
同時に急に思い出したことがありました。
過去相当、身体を虐めてきていたことを・・・
私にとっての肉体
私には、この三次元世界というのは不思議な世界でした。
というのも・・・
私には、人間の本質は魂で、それは肉体を失ってもそのまま続くという、明確な根拠があるわけではないけれど確信がありました
むしろ、肉体を持っているという状態が特殊で、私にとってはエネルギー体であることの方が自然なのにというのが正直な感覚でした。
身体は、食べなくては維持できなかったり、時には痛みを感じたり・・・
痛みまで行かなくても、もっと微細な肉体的な不快感や精神的な不快感は常に感じていました
そもそも心や意識の世界と肉体として存在している現実世界には、大きな解離があるように感じていたのです。
私が見ている現実世界は、他の人も果たして同じように見えているのか
もしかしたら、私が一人だけで見ている幻想なのでは・・・
普通に存在しているだけなのに、私はこの世界にリアリティというか確信が持てず、言いようのない不安を感じて生きていました。
身体が私という存在を閉じ込めている?
思春期になると、そんなどうしようもない私の不安感や苛立ちは、そんな状態に置かれている現状が受け止められないという怒りへと変化し、その矛先は、肉体に向かって行きました
私にとって、肉体は私ではなく、私という魂をこの三次元世界に閉じ込めるものだったのです。
本来の私に戻りたい、その思いが募るにつれて私は死にたいと思うようになりました
この頃になるとわけの分からない苛立ちがますます増大して、イメージの世界で私は何度も何度も自分の背中を刃物で切り付けていました
私にとって、死は終わりではなく、元の自由なエネルギー体に戻るための手段でした
そんな激しい思いを持つ一方で、その感情によって苦しむ自分もいました
生きることを否定するという事に対する罪悪感も湧いてきて・・・
私は何ていう酷く醜い人間なんだという、強い自己否定を生み出していました
私は闇に堕ちたと思いました
全く真逆の感情が自分の中で同時に湧いてくることにも戸惑いを感じ・・・私は混乱していました。
そう言えば、子供の頃は、「自分の置かれている状態の取扱説明書があったらなぁ。」と思っていました
身体にごめんなさい&ありがとう
年齢を重ねるに連れて、何とか現実に適応できるようになり、忘れていた感覚だったのですが・・・
ハートチャクラに手を当てることでそんな思いがふわっと湧いて来たのです。
肉体にエネルギーを送り込むことで、沈み込んでいたネガティブなエネルギーが浮き上がってきたということでしょうか
私は、イメージで肉体を切り付けていたけれど、それを受け止めていた肉体はエネルギー的にずいぶん傷ついていたのだと感じました。
私は、被害者の感覚を持っていたけれど、酷いエネルギーで傷つける加害者でもあったのです
自分の肉体を労り、共に成長して生きる、それが今の私には必要な事で・・・。
よくよく考えてみると・・・
肉体を持つということをしなければ、出来なかった体験や感じ得なかった感情も確かにいっぱいあり、元々はきっとこの世界を知るために私の魂が望んだことだった・・・のかも。
だから、とっても回り道をしたけれど、身体を持たせてもらったことにも、ありがとうなんだなぁ
虐めてごめんね
そう思うと何かふと温かい感じが湧いてくるのでした
肉体を持って、この世界に生きるって不思議で、楽しい
私も随分、人間らしくなれたかな・・・
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