思い出すたび胸が張り裂けそうで
なかなか更新できませんでしたが、
6月6日〜7日にかけて、一泊二日の弾丸沖縄旅をして参りました!

今回は、「ひめゆり」の勉強の為に。
どうしても自分の肌で感じたくて、空気を吸いたくて、沖縄の地を踏みたくて、6日の稽古を少し早めに抜けさせて頂いて、言葉通りダッシュで空港へ💨


タクシーを借りて、7日の早朝から

南風原陸軍病院20号壕
南風原文化センター
アブチラガマ
ひめゆりの塔
ひめゆり平和祈念資料館

というプランで、沖縄戦の跡地を巡りました。


南風原陸軍病院の最初の印象は
とにかく狭い!!!
こんなところに二段ベッドを置いて、
さらに通路にも負傷兵が沢山いたとは
信じられないほど狭い壕でした。
それでも他の壕にいた方からは
広くて羨ましいと言われていたそうで…

壕内は、入り口から奥が見えないように
そして爆弾が入ってきても奥まで届かないように
緩やかにカーブがかかっていたり、
水捌けがいいように中央に向かって
少し高くなっていたりと様々な工夫が
施されていました。

ガイドさんからのお話を聞きながら、
なるべく細部まで目に焼き付けたくて
言葉にならない恐怖や不安と戦いながら
いろんな場所に懐中電灯を向けてみました。
劣化が激しく、「もう落ちてしまってるけど…」
というお言葉とともに見せてくださった壁。
アメリカからの攻撃で、入り口付近の壁は
真っ黒になってしまっていました。
頭では理解しているはずなのに、数歩進めばもう
そういう壁の色なのかなと錯覚してしまいそうで。
奥へ逃げられるような広さでもなく、
ここにぎっしりいた患者さんたちはなす術もなく
犠牲になられたのかと思うと息が詰まりました。


この壕の中で一番衝撃を受け、
それと同時に一番納得したのが
「暗くてよかった」という言葉。
暗かったからこそ悲惨な状態を見ずにすんだと。
10代の何も知らない女の子たちが
想像を絶する状態の患者を前にしても
なんとか治療をすることが出来たのは
全貌が見えなかったからだという理由にも
胸が締め付けられる思いがしました。

戦況が悪化してくると、飯上げなどのお仕事で
壕外にでなければならない生徒はみんな
「綺麗な姿で死にたい」と身だしなみを
整えてから壕の外へ出て行ったそうです。
生きるため、患者さんを助ける為のお仕事に
死ぬ準備をして取り掛かる…
それほどまでに学徒にとって死が身近であり、
当たり前になってしまっていたのだなと
改めて気づかされました。


壕を出て最初に見えた景色は
校庭でサッカーをする学生の姿。
先生からのご指導を受け、友達と笑い合い、
思いっきり青空の下を走り回る男の子たち。
かつてはこれくらいの歳の子達が
女の子は看護婦として、男の子は兵士として
命を落とす危険な任務につかされていたのだと、
彼らが元気に走っている土の下に、どれほど
大手を振って青空の下を歩きたい
と願った学生たちがいたのだろうと思うと
言葉にできないつらさと苦しさを感じました。
と同時に、目の前で走り回る彼らが
とてもとても輝いて美しくも見えました。


私たちをガイドして下さった方が、
「私もガイドをするまで知らなかった。
興味を持ったことがなかったし、
沖縄戦が取り上げられていても無関心だった。
それほどまでに教育は力を持っている。」
と、時折涙声で、とても静かに
悔しさを噛みしめるようにお話して下さいました。


忘れてはいけない。
誰かが伝えなければいけない。
沖縄に居る間に何度も聞いた言葉です。
その中には、戦争を知る世代が少なくなってゆき、
関心を持つ若者も居なくなっていることへの
焦りが込められているように感じました。


「戦争は終わっていない」
土を掘れば誰かの遺骨が発見され
不発弾もみつかり
戦争の跡地を守っていくことも難しい。
沖縄戦は遠い昔に日本であった出来事の
1つなんかでは決してない。
今なお苦しみは続き、お国のためにと散った
沢山の方々の魂は生きているんだと
まだまだ何も終わってなんかいないんだと
理解しているつもりになっていた自分を恥じました。



色んなお話を聞かせていただき
言葉を失うほど衝撃を受け
フリーズするほど色んな感情が湧きましたが
陸軍病院に持った印象は、
ただただ「苦しい」でした。
きっとここにいた患者さんも、学徒たちも
先生や軍医さん、看護婦さんも
みんなそうだったのだろうなと。
希望を感じられるものが何もない
暗闇の世界でとても苦しかっただろうなと。
そんな風に心が感じた場所でした。



思い出すとまた色んな感情が湧き上がって
長くなってしまったので、
アブチラガマとひめゆりの塔については別の記事で…


↑学徒が命からがら歩いた飯上げの道。
晴天だったのに滑り落ちそうでした…