AIOギターピックの販売店の人のブログ

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サバイバルナイフのような多機能ギターピックを売ってます

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シンガポールにギター好きのジョンというおじさんがいました。

ジョンはキリスト教徒なので毎週日曜日に妻と2人の子供を連れて教会に行き、賛美歌の聞こえる中お祈りをするのが習慣でした。そしてある日、ジョンは神父さんからギターが弾けるということで、教会でみんなが歌う賛美歌の伴奏を頼まれたのです。

ジョンは仕事から帰った後や、週末に時間を見つけてはギターを抱き寄せて楽しく練習をしておりました。

しかし、ジョンはもっとリラックスしてギターを弾くことができれば上手くなれるということに気づき始めます。
当時のピックはとても硬くツルツルしていたため、どうしてもしっかり持たなければ落としてしまいかねないのです。

2000年のある日、ジョンは教会でいつものように大勢の人たちが歌う曲の伴奏をしていました。
しかし、その時ジョンが持っていたピックが手から滑り落ち、ギターの音が止まってしまったのです。

そのピックを神父さんが拾って渡してくれた時、ジョンは恥ずかしさで高鳴る心臓から顔に伝って熱くなるのがわかったようです。

この時からジョンは「もっとリラックスして弾けて、滑りにくいギターピックを開発しよう!」ということを決めたのです。

当時の年齢は53歳でした。

ジョンはコールセンターの管理職で働いていましたが、週末にありとあらゆるプラスチック製品を集めては実験を繰り返していました。

マーガリンや、お菓子、薬品のフタをジャキっとはさみで切り取っては様々な形でギターを弾いてみました。

2人の子供と買い物に行った時ですら、商品よりもパッケージのプラスチックばかり見ていて、「もう、お父さん!」と言われる始末です。

そしてジョンは実験を繰り返していく中で、ギターの音色はピックの形と厚さで変えることができるのだということに気づいたのでした。

試しにピックをギザギザにしてみたところ、かなり持ちやすくなったということも発見します。

そして2001年、ジョンは試行錯誤の末にようやく設計したギターピックを販売することに決めます。

その名もAwe-In-One です。

まず最初にジョンがしたことは、特許の申請でした。

貯金をはたいて弁護士に20万円近く払って特許の申請が通ると、次にはどうやってその独特なピックを製造するかを考えました。

ジョンはヨーグルトの容器の底を切り取って、鉛筆で型を描いて切り取って、それをプラスチックを製造している工場へと持って行きました。

工場にプラスチック片を見せると、そこまで薄いプラスチックは製造していないために作ることはできないと言われたのでした。

しかしそこの工場のマネージャーは何かできることがあればと非常に協力的だったので、ジョンはその会社にプラスチックを作るための指導をしてもらうことにしたのでした。


こうしてプラスチックの精製法を教わり試行錯誤の結果、ジョン達はついに最初の2000個のAwe-In-Oneギターピックを製造することに成功したのでした。

2002年5月、ジョンはそのピックをありとあらゆる楽器店に配って、幾つかの店舗で取り扱ってもらいました。

この時期にジョンは500万円以上もの年収を得ている仕事を辞めて、ピック製作に専念するか悩み始めます。
もしも仕事を辞めれば子供達の教育費や家族を養うお金のことが心配だったのです。

しかし、奥さんはジョンに「あなたは夢を追いかけて!もしものことがあれば私の貯金があるから!」
と言ってくれ、ジョンは管理職だった仕事を辞めてピックを販売することに専念したのです。

海外にも出向いて、多くの音楽店やミュージシャンに対してデモンストレーションを行って、早くも注文を受けました。

そして翌年、オーストラリアにいるギター講師がそのピックを使ったところ、Awe-In-Oneならではの音色と持ちやすさに感激して手紙を送ってくれたそうです。


こうしてジョンの「ギターの楽しさを広めたい」という考えはどんどん広まっていき、年間18万個売れて、ドイツ、アメリカ、イギリスを含む17カ国で取引されるような思いの詰まったピックになっていったのでした。

ジョンはその時を振り返ってこう言います。

「発明の道は本当に疑いや障害にあふれている。
その道が正しいかもわからないし、お金も時間も計画通りに進まないこともある。

そんな中私がここまで進んでこれたのは、一緒に前へと進むために勇気付け信じてくれた家族のおかげだよ。」