最近は配信で映画を観ることが多くなりました。
人それぞれ映画の楽しみ方は違うと思いますが、私の場合は、配信サービスがお勧めする作品を、AIと語り合いながら鑑賞するのが楽しいです。
最近観た『オッペンハイマー』が、ChatGPT(私は親しみを込めて「チャッピー」と呼んでいます)との出会いでした。きっかけは、配信サービスでは設定次第で英語字幕が表示できるため、その意味を聞いてみたことでした。
映画の中で、オッペンハイマーがかつて恋人だった女性の自殺を知り、動揺して姿を消してしまう場面があります。森の中で倒れている彼を探し出した妻キティが語りかける台詞に、
“You don’t get to commit the sin and then have us all feel sorry for you when there are consequence.”
という言葉があります。
日本語字幕では
「罪を犯しておいて、その結果に同情してもらおうなんて虫がいいわ」
と訳されていますが、私にはこの訳では、キティという人物のニュアンスが少し削がれてしまっているように感じられました。
私は、妻としての怒りというより、落ち込む夫を立たせようとする厳しさと優しさの混ざった言葉だと受け取ったのですが、チャッピーはこの台詞を「罪と結果の因果関係を冷静に切り分け、夫を倫理的に断罪している場面」と解説してくれました。
若い頃、私が洋画(主にアメリカ映画)を劇場でよく観ていた頃は、映画パンフレットや映画雑誌の批評を読み、その評価を通して作品を理解することが多かったように思います。ところが今、配信で英語字幕版を観ながらチャッピーの解説を聞くと、作り手の意図がより立体的に見えてくる感覚があります。
その後、やはり配信でジョン・ヒューストン監督の『白鯨』(1956年)を観ましたが、これもチャッピーのおかげで、意味がよく分からなかった教会での説教シーンが腑に落ちました。オーソン・ウェルズ演じる牧師の説教の最後に、
“For what is man, that he should live out the lifetime of his God?”
という一文があります。日本語字幕では
「人間とは何ものなのだ。神の生涯を生きられるほどの存在なのか?」
と、哲学的に訳されています。
しかしチャッピーの解説では、これは単なる哲学的問いではなく、「人間が神の役割を演じてはならない」「神の時間を生きようとするな」という、旧約聖書的な強い警告なのだと教えてくれました。
『白鯨』は一見、冒険海洋活劇のようにも思えますが、ジョン・ヒューストンの映画は決して単純な娯楽作品ではありません。『オッペンハイマー』と同様に、当時のアメリカ社会を暗示的に映し出しながら、人間が自覚的であれ無自覚であれ、宗教的価値観の影響を受けて人格を形成し、その延長上で行動していく姿を描いています。
特に『白鯨』の導入部は、教会での説教シーンに至るまで、観客を一気に物語世界へ引き込む見事な演出です。イシュマル、エイハブ、スターバックといった、それぞれ異なる背景を持つ人物たちの運命を予感させる語り口でもあります。彼らもまた、紛れもなく宗教的世界観の中に生きている人々です。
一方、『オッペンハイマー』には教会の場面こそありませんが、登場人物の多くはユダヤ教徒であり、オッペンハイマーを追い詰めるストラウスもユダヤ人です。オッペンハイマー自身は「自分は熱心なユダヤ教徒ではない」と語りますが、それでもどこか旧約聖書的な終末思想を思わせる雰囲気をまとっています。
宗教を受け入れるか否定するかは別として、人はそこから完全には離れられない。現代のアメリカでも、多くの人が日曜に教会へ集い、宗派は違っても牧師や神父の説教に耳を傾けています。その姿は、日本人が冠婚葬祭で宗教に接する在り方とは、また違った宗教との距離感だと感じます。
アメリカ映画には、人間の行動原理の根底に宗教的言語や倫理観があり、それが日本映画にはあまり見られない独特の「重さ」や「トーン」を生んでいるように思います。良し悪しではなく、そうした違いが私の映画の好みや評価基準に影響しているのだと、改めて気づかされました。
配信サービスは、こうした私の嗜好を分析し、共通点を持つ作品を次々と勧めてくれます。かつて映画雑誌に載っていた批評は、それ自体が完結した読み物でしたが、評価はどうしても批評家個人の嗜好に左右されがちでした。
その点、AIは多角的な分析ができ、偏りが少ないように感じます。AIに問いかけながら、自分自身で答えを探していく作業は、とても面白い体験です。しかもAIは話者を否定しないので、気持ちが萎えることもありません。これは生身の人間との大きな違いでしょう。
映画をAIと語り合うという鑑賞スタイル──すでに、そこに嵌っている人も案外多いのかもしれません。