高市政権の信任を問う選挙だそうです。

これから私の述べるのは高市氏ヘの

賛成・反対を煽る話ではなく、価値観

の相性の問題です。

浅学な私ですが、長年培ってきた価値観

を並べてみると、

禁欲・節度(聖トマス·アクィナス)

中庸・よく生きること(アリストテレスの

ニコマコス倫理学)

心配を手放す(デール·カーネギーの著書)

執着を離れる(鈴木大拙)

こういう思想に多々影響されてきました。

共通しているのは、

力を誇示しない

不安を煽らない

内側を整えることで世界に向き合う

という姿勢です。

一方で、高市氏の言動や政策スタイルは

(評価の是非は別として)強い言葉

対外的な緊張感の強調

「守るために強くなる」という論理

国家や制度の“意志”を前に出す語り口

こういう特徴があります。

これは、

外に向かって力を立てる思想です。

だから私が感じている違和感は、

政策が正しいかどうか以前に

語り口と思想の向きが真逆だ

というところから来ています。

私は「不安を減らす方向」に美

を感じる人間です。

高市氏のスタイルは

「不安を前提に結束を作る」タイプ

かもしれません。

これはもう、宗教観や哲学観に近い

尺度の違いです。

私が感じているのは

嫌悪や敵意ではなく、

「自分の身体感覚に合わない」

という違和感です。

怒りもないし、罵倒もしない。

でも、距離は取る。

謂わばストア派+禅の態度です。

私の価値観からすれば、そう感じて

しまいます。

それ以上でも以下でもありません。

静かに違和感を感じ、静かに距離

を取る。

高市氏の言う事が「嫌いだから」

ではなくて、矛盾として引っ掛かっ

てしまいます。

①     言葉は「現実主義・保守・安定」

を語るのですが



②     実際にやろうとしていることは

「不確実性を増やす方向」に見える

このズレです。

たとえば一般論として(個別政策の是非は

置くとして)、

「国民の生活を守る」

「現実を直視する」

「責任ある判断」

という言葉は

秩序・中庸・持続性を連想させます。

ところが実際の打ち手が、

対立を前提にした構図

強いメッセージ先行

実装コストや副作用が見えにくい施策

に見えると、

守ると言いながら、

かえって不安定化させていないか?

という疑問が自然に湧きます。

私の哲学的感覚からすると

ここが決定的に合わないのです。

私の依るところの思想は、

結果よりもその過程の質、

制御できないものを煽らない、

心配を増やさない、

自我の力みを抜くと言う事です。

言葉と行為のあいだに緊張があっても、

最終的に人の心を静める方向に向かうか、

ここを見ています。

だから、

強い言葉で安心を語り

強い施策で不安を前提にする

この構造そのものが、

私の身体感覚として「合わない」。

これは「政治的反対」ではなく、

イデオロギーの是非、

保守かリベラルか、

でもありません。

もっと根っこの、言行一致しているか

現実を受け止めた上で、余計な力みがないか

という倫理の話です。

これは一言で言えば、アリストテレス的でも

あり、禅的でもあります。

結論はこうです。

「間違っている!」という怒りではなく

「整合していない」という静かな違和感

です。

断罪しないが、納得もしない。

どうも「腑に落ちない」という感覚を

そのまま大切にしたいと思います。

感情論ではなく、構造の話です。


私の感じる一番の「矛盾」は、次の

事柄です。

「強い日本」とは何を指すのか?

一般に「強い日本」と言うなら、

普通はこういう状態を指すはずです。

為替が上下しても揺らがない、

外部環境に左右されにくい、

国民生活が急激に不安定にならない、

産業が付加価値で勝負できる、

つまり、

円高でも円安でも耐えられる構造

これが「強さ」。

ところが現実のロジックはこう聞

こえています。

円安は輸出に有利

円安は国益

円安を受け入れるのが現実的

これは短期的には

一部の企業・一部の局面では正しい。

でも、ここに違和感があります。

私の視点は「長期・構造」

円安を容認する=強い日本

とは私は見ていません。

むしろ、

円安に依存しないと成り立たない

=構造的に弱い日本

と感じているのです。

これは

アリストテレス的に言えば

「徳の欠如」

経済的に言えば

中長期のレジリエンス不足です。

本当の意味での「強さ」とは

私が言うならば、

円高でも動じない産業構造を作る

これこそが、

技術

人材

ブランド

知的財産

サービスの質

で勝負する国。

為替を武器にしない。

なぜ私の違和感が生じるのかは

強い言葉で「強い日本」を語りながら

実際には為替という外部要因に依存、

国民生活の負担増を副作用として受け

入れるこのギャップ。

私の価値観からすると、

力を誇示しながら、足場は脆い

これが「嫌な感じ」の正体です。

これは思想の違いというより

「定義の違い」です。

高市氏は、

強さ=対外的競争力

強さ=短期的な国益

私は、

強さ=耐久性

強さ=静かな自立

と見ています。

どちらが正しいか、ではなく

どちらが一貫しているか。

結論として

私の言っていることは、

理想論でも

左右の主張でもなく

「言葉の定義を問い直している」

だけです。

政治的立場以前の思考です。

「強い日本」と言うなら、

何に対して、どれくらい、どう強いのか。

私はそこを見ているのです。

そしてこれも「思想の違い」ではなく、

ばら撒き政策への違和感です。

消費税ゼロ、給付金、補助金 等々

与野党を問わず出てくる案に共通し

ているのは、

即効性はある

分かりやすい

反発が少ない

でも同時に、

一過性

構造を変えない

依存を強める

という特徴。

私が感じている違和感は、

「対症療法が、いつの間にか主治療

になっている」

そういう点です。

「強い日本」を本気で目指すなら

本来は 選択と集中 の話になる筈です。

たとえば、

全員を救う → 不可能

だからこそ、どこを残すか決める

何に国家資源を投じるかを明確にする

これは冷たく見えますが、

実は一番 誠実で残酷な責任の取り方 です。

現実的な話、ばら撒きが増える理由は明確で、

有権者が即効性を求める

痛みを伴う改革は嫌われる

成果が出る前に選挙が来る

この構造の中では、

選択と集中は

→ 誰かが必ず「切られる」

→ 政治的に非常に難しい

だから、

どの党も似た顔になる。

有権者が「皆同じに見える」と感じる

のは、正確な観察です。

私の価値観から見ると、

思想は一貫していて、

中庸

節度

持続性

自立

ばら撒きは、この全部と相性が悪い。

節度がない

自立を育てない

持続しない

だから、

強い日本を標榜するなら違うだろう

という感覚になる。

これは

理念から現実を見ている私からすると

違和感の塊です。

私が言っていることは、

冷たい理想論でも

現実無視でもなく

「国家の体力をどう作るか」という

長期設計の話です。

今の政治は、

体力づくりより

点滴で延命

に見えてしまう。

そう感じる人達がいて当然です。

静かに考えて、

感情的にならず、

「定義がおかしい」と私は言えます。