【Jリーグ】ジュビロ磐田・福西崇史が2002年の史上最強チームを語る「鹿島に負けた屈辱が原動力になった」
【新連載】Jリーグ語り草(3)
福西崇史の2002年
「史上最強チームはいかにして生まれたか」前編

 史上初の完全優勝を成し遂げた2002年のジュビロ磐田は、「Jリーグの歴史で最も強かったチーム」のひとつとして、今でも多くのファンの記憶に残っている。

 なぜ、磐田は勝ち続けられたのか──。

 当時のチームで主力を担った福西崇史が、「最強」へとたどり着いた進化の舞台裏を明かす。そこにはライバルの存在と、悪夢のような2001年の屈辱があった......。

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激しいバトルを繰り広げた福西崇史と小笠原満男 photo by Getty Images

 ジュビロ磐田は1997年に初優勝を飾り、1999年にも2度目の優勝を成し遂げましたが、ヨーロッパ人の監督を迎えた2000年は無冠に終わりました。

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 その年の途中から鈴木政一監督が指揮を執るようになり、2001年はもう一度、自分たちの形を作ろうということで、このシーズンに臨みました。

 2001年は「タイトル奪還」というテーマもありましたが、もうひとつのターゲットが「FIFAクラブ世界選手権」でした。今で言うクラブワールドカップで、レアル・マドリードに勝つことが僕たちの最大の目標でした。

 そのために生まれたのが、のちに「N-BOX」と呼ばれる独自のシステムです。

 このN-BOXは形としては「3-5-2」ですが、中盤がボックス型で、ウイングバックはいません。サッカーではサイドを崩すのが定石ですから、サイドに人を配置しない形はかなり特殊でした。

 うしろの2枚がハット(服部年宏)と僕で、前の左に(藤田)俊哉さん、右に奥大介。そしてその四角形の真ん中に名波(浩)さんを配置するという形です。奥のところに西(紀寛)が入る時もありましたが、西はどちらかというとサイドに開いてしまうので、ボックスではなくなってしまうんですよ。

 N-BOXはやっぱり「サイコロの5の目」のような配置じゃないといけない。そこにはこだわりがありましたね。

 基本的に中盤の動きは即興でした。

 たとえば、名波さんが外に出たら、俊哉さんが真ん中に入る。でも、俊哉さんは前に出たがるから、その場合には僕が中を埋めにいったりして。名波さんが中心であるのは確かですが、ほかの選手が名波さんの動きに合わせるのではなく、あくまでボールが中心なんですよ。ボールがあるところによって、立ち位置がどんどんと変わっていくんです。

 右サイドが空いていれば、ひとりが開くのではなく、みんなで右サイドにポジションをずらしていく。ひとりでサイドを突破して、そこからクロスを上げるような形は、ほとんどありませんでした。5の目の形を保ってボールを回しながら、どうやって崩していくかを常に考えていましたね。

【ショックで誰もしゃべらなかった】
 キャンプの時に「この形でいく」とマサくん(鈴木監督)に言われた時には、正直驚きました。

 実際に形を作っていくなかで、なかなかうまくいかないので「もうやめよう」と話し合ったこともあります。でも、マサくんは頑(かたく)なだったので、ひとまずこのまま開幕を迎え、シーズン中にマイナーチェンジしていけばいいと思っていました。

 おそらく序盤で結果が出なかったら、早々にあきらめていたと思います。でも、開幕戦でジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイッテッド千葉)に4-1と快勝し、そのまま8連勝を達成したんですよ。最初は選手たちも首を傾げながらやっていたんですが、結果を出していくことによって、自信というものが芽生えていったと思います。

 結局、ファーストステージはわずか1敗で優勝して、セカンドステージに入っても初戦でガンバ大阪に負けて以降は、連勝を続けました。

 これまで僕らはJリーグで2回優勝していたので、この年は「世界で勝つ」というモチベーションの下でプレーしていました。Jリーグで勝つことは当たり前で、その先を見ていたんですよ。

 半信半疑でスタートしましたが、こうやって結果を残すことができた。このままの状態であれば、世界でも戦えるという自信もありました。だから、運営会社の倒産によりクラブ世界選手権が中止になったのは、本当にショックでしたね。

 たしかそのニュースを聞いたのは、コンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)戦の前のミーティングの時だったと記憶しています。みんなショックで誰もしゃべらない。ミーティングもやめて、スタジアムに行って、それでも試合には勝ちましたが、喜ぶ選手はほとんどいなかったと思います。

 そのために準備をして、新しいことに取り組んできたのに、今までやってきたことはなんだったのかって。ただ、モチベーションを失ってしまいましたけど、プロである以上はやらなきゃいけない。何とか気持ちを切り替えました。しかし結局、あの年はセカンドステージで2位になり、チャンピオンシップで鹿島アントラーズに負けて、タイトルを獲ることができませんでした。

【「中山雅史vs秋田豊」の構図】
 磐田の歴史を振り返ると、1994年にJリーグに参入して以降、右肩上がりに成長を遂げていきました。中山(雅史)さんという象徴がいて、俊哉さんがいて、ハットがいて、僕は名波さんと一緒に1995年に加入して、その頃からほとんど同じメンバーで戦うなかで、毎年、毎年、積み上げというものができていったと思います。

 監督もハンス・オフトから始まり、戦術的なことを学びながら、ルイス・フェリペ・スコラーリやほかのブラジル人監督からは勝負へのこだわりを教えてもらいました。そういう流れで迎えた2001年は、まさに集大成の年だったと思います。でも、結果的に鹿島には勝てなかった。その現実は重かったですね。

 当時の磐田にとって、鹿島は絶対的なライバルでした。とにかく勝利へのこだわりというものを一番感じるチームでしたね。

 そのチームに屈しないためには、どうすればいいのか──。常にそのことばかりを考えていたので、鹿島戦の前はミーティングなんかしなかったですよ。彼らがどういうチームかわかっているから、言うまでもないと。それくらい意識していた相手です。

 ボランチの僕は、小笠原満男や本山雅志を抑えるために激しくいきましたし、本田(泰人)さんは怖かったけど、負けるわけにはいかないので、バチバチとやり合いました。

 磐田と鹿島と言えば、「中山雅史さん対秋田豊さん」という構図もありました。あのふたりのやり合いはチームの士気にも関わってくるので、どうにか勝ってほしかったですし、勝負どころではあえて、そこを使いましたね。もう気持ちと気持ちのぶつかり合いで、一番象徴的な戦いだったと思います。

 ああいった個人と個人の熱いバトルは、今ではほとんど見られなくなりました。戦術同士の争いになっているので、そこの部分の面白みを感じられなくなったのは、個人的には残念なこと。ベテランの人たちがバチバチとやり合っている姿は僕も好きだったし、やっているほうも楽しかったですから。

【まだ何かが足りていなかった】
 やっぱり鹿島は特別な存在でしたし、やられてしまったイメージも強くあります。ただ2001年に関しては、シーズン中も2回やって両方とも勝っていましたし、年間の勝ち点でも20ポイント近く差をつけていましたから、自分たちが上回っているという自負がありました。

 それでも結局、チャンピオンシップで負けてしまった。どんなに過程がよくても、最後に結果を出さなくては意味がないんですよ。つまり、あの時の僕らは、まだまだ何かが足りていなかったということ。

 じゃあ、どうすればいいのかと言えば、ファーストも、セカンドも、両方獲ればいいだろって。だから2001年に味わった屈辱が、2002年の完全優勝の原動力になったことは間違いありません。

(つづく)

◆福西崇史・中編>>「2002年の高原直泰は覚醒していた」


【profile】
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県新居浜市出身。1995年に新居浜工高からジュビロ磐田に入団。ハンス・オフト監督の勧めでFWからボランチにコンバートする。激しいプレーで磐田の黄金期を支え、Jリーグベストイレブンを4度受賞。2006年限りで磐田を退団し、FC東京→東京ヴェルディを経由して2008年に引退。その後は指導者・解説者として活躍しつつ、2018年には南葛SCで現役復帰し、翌年は監督も務めた。日本代表として2002年・2006年のワールドカップに出場。国際Aマッチ通算64試合出場7得点。ポジション=MF。身長181cm、体重77kg。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Jリーグ】福西崇史が振り返るジュビロ完全優勝「2002年の高原直泰は覚醒していた。すごいペースでゴールを量産」
【新連載】Jリーグ語り草(3)
福西崇史の2002年
「史上最強チームはいかにして生まれたか」中編

◆福西崇史・前編>>「鹿島に負けた屈辱が原動力になった」

 2001年の悔しさをバネに、開幕から勝ち続けた2002年のジュビロ磐田は、目論見どおりにファーストステージを制覇。前人未到の完全優勝に大きく近づくことになった。

 しかし、試合内容を精査すれば「ギリギリの戦いの連続だった」と福西崇史は振り返る。

 なぜ磐田は、苦しみながらも勝負強さを示し、セカンドステージでも結果を出し続けたられたのか。チームを導いたのは不運を味わった若きエースだった。

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2002年、高原直泰はジュビロ磐田のエースに成長した photo by AFLO

 2001年の戦いのベースとなった「N-BOX」は、実はシーズン途中に名波(浩)さんが負傷離脱したことで、封印されたんですよ。2002年には奥大介も移籍したので、理想とする形は事実上解体されました。その意味でN-BOXは短命でしたが、あとにも語り継がれていることを考えれば、伝説のフォーメーションだったのかもしれません。
 だから2002年は、ウイングバックを配置するごくノーマルな3-5-2に戻っていました。N-BOXで理想を追求するサッカーではなく、より結果にこだわったサッカーに変わっていったんです。

 前年の悔しさを晴らすべく、2002年は開幕から連勝街道を突き進みました。ただ、7節の横浜F・マリノス戦に敗れたことで、2位でワールドカップ中断期間に突入することになりました。

 ファーストステージで優勝を争ったのはマリノスでしたが、やっぱり意識していたのは鹿島アントラーズでしたね。マリノスを上回ることは、僕のなかでは想定できた。でも、鹿島にはそのイメージがなかなか湧かないんですよ。その時点で鹿島の順位は下でしたけど、あのチームの底力を考えると、安心することはできなかったです。

 前年の屈辱を晴らしたいという思いがあった一方で、個人的にはワールドカップという目標もありました。メンバーに入れるか、入れないかのぎりぎりの立場だったので、まずはJリーグでいいパフォーマンスをするために準備をしましたし、コンディション面にも相当、気を配りました。

【2001年のほうが相手を圧倒できた】
 メンバーに選ばれたことはうれしかったですよ。ピッチに立てたのは1試合だけでしたけど、ワールドカップに出たことで世界との距離感をリアルに感じられるようになったし、チームに帰ってきてからも意識高く取り組みました。その意味では準備からも含め、あの年にワールドカップがあったことは、自身のパフォーマンスをよりよいものにしてくれたと思います。

 ワールドカップ中断明け後も、僕らは結果を出し続けました。ファーストステージで印象に残っているのは12節のガンバ大阪戦です。常に先手を取られながらも都度追いつき、一時は2-4と引き離されながら、終盤の2ゴールで延長戦に持ち込み、延長前半の西(紀寛)のVゴールで5-4と勝ちきった試合です。

 あの年の僕たちは、延長戦になったら勝てるという自信がありました。ボールを回せる力があったので、相手は時間が経つにつれて体力が削られていくんです。後半に入ると落ちてくるので、そこでとどめを刺せればいいのですが、同点のまま終わってもVゴールで勝てるだろうと。実際にあのシーズンは延長戦で8勝1分と、かなり高い勝率を記録することができました。

 ファーストステージは結局、最後までマリノスと争いましたが、最終節で柏レイソルに勝って優勝できた時は、ホッとした気持ちが強かったですね。「両方獲る」という思いで臨んだなかで、まずは第1段階をクリアできた感覚でした。

 ただし、余裕はなかったです。振り返るとステージの半分近くが1点差の勝利でしたから。最後の柏戦も終了間際に高原(直泰)が決めてくれて、何とか勝つことができました。仮に引き分けていれば、マリノスに逆転を許していたかもしれない。だから、「2002年の磐田は本当に強かったですね」とよく言われるんですけど、個人的にはそういった感覚はないんですよ。

 むしろ2001年のほうが相手を圧倒できた試合が多かったし、やっていても楽しかった。結果重視の現実的なサッカーに傾倒するなかで、内容的によくない試合も少なくありませんでした。ただ、結果を求めて、実際に勝ちきることができた。その意味では勝負強さはあったと思います。

【高原はみんなの前で泣いていた】
 ファーストステージを制しても、僕たちに慢心はありませんでした。完全優勝を目標に掲げるなかで、まだ半分が終わったにすぎない。集中力もモチベーションも高く、新たなステージに入ることができました。

 ただ初戦のヴィッセル神戸戦、2節の鹿島戦をモノにして連勝スタートができたのですが、3節で浦和レッズに負けてしまったんです。そこから4連勝と巻き返しましたが、8節のジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド千葉)戦では崔龍洙(チェ・ヨンス)に2点を決められて、早くも2敗目を喫してしまいました。

 ギリギリの勝負を制してきたファーストステージのような戦いを、うまく表現できない試合もありました。ファーストステージよりも絡(もつ)れる展開が多かったですね。勢いに乗る浦和の後塵を拝し、磐田は2位に留まっていました。

 でも、ジェフに屈したのを最後に、僕たちは負けることはありませんでした。頼りになったのは高原です。

 この年の彼は、覚醒していましたね。ワールドカップメンバーからの落選が、その原動力になったのではないでしょうか。大会直前の離脱は相当ショックだったでしょうし、まだ若かったですからね。みんなの前で泣いていたのを覚えています。

 僕にとってもチームメイトの高原の存在は大きかったので、彼がいなくなるのはつらかったですよ。人一倍、努力してきたことも知っていますから、高原の想いも背負ってやっていこうと決意しました。

 戦列に戻ってきてからの高原のたくましさは、尋常ではなかったですね。ファーストステージの後半に復帰して、すごいペースでゴールを量産し、セカンドステージも勢いは止まりませんでした。1試合で4点取ったこともありましたね。シーズン終盤も勢いは衰えず、大事な場面で取ってくれる頼もしさがありました。

 そんな高原を輝かせた中山(雅史)さんの存在も見逃せません。高原のゴールをかなりアシストしていたと思います。中山さんの献身的な動きがあってこそ、高原とのコンビネーションが築かれたのは間違いありません。ツートップの関係性が「1+1」を「2」ではなく、「3」にも「4」にもしてくれることを、このふたりの連係を見て、初めて感じることができたくらいです。

【キャリア唯一のドリブルシュート】
 このふたりに導かれるように、この年は僕も点を取ることができました。ツートップが裏に抜けて、ディフェンスをうしろに連れていってくれるので、中盤から前に上がりやすくなるんですよ。だから点を取る意識も高まりましたし、かなりやりやすかったですね。

 セカンドステージの優勝を決めた14節の東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)戦でも、僕はVゴールを決めることができました。引き分けでも優勝だったんですけど、勝利へのこだわりは捨てられませんでした。

 延長に入った時点でチームとしては負けなければいいので、無理にVゴールを取りにいく必要はなかったんです。だけど、僕はどうしても勝って決めたかったので、怒られながらも前に残って点を狙ったんです。

 残り1分くらいだったので引き分けも覚悟しましたが、左サイドで金沢浄が相手のクリアボールをがんばってブロックしてくれて、そのこぼれ球が前に上がっていた僕の目の前に落ちたんですよ。それを拾ってそのままドリブルで切れ込んで、右足を振り抜きました。

 おそらくドリブルシュートを決めたのは、これがキャリアのなかで唯一だったと思います。それがあの大事な場面で出たのは、運命的だったかもしれません。

 やっぱりあの年は、ファーストもセカンドも両方獲ると決めていましたから、とにかく結果がほしかった。優勝に対する想いの強さがもたらしてくれたゴールだったと思います。

(つづく)

◆福西崇史・後編>>「N-BOXで戦った2001年が一番強かった」


【profile】
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県新居浜市出身。1995年に新居浜工高からジュビロ磐田に入団。ハンス・オフト監督の勧めでFWからボランチにコンバートする。激しいプレーで磐田の黄金期を支え、Jリーグベストイレブンを4度受賞。2006年限りで磐田を退団し、FC東京→東京ヴェルディを経由して2008年に引退。その後は指導者・解説者として活躍しつつ、2018年には南葛SCで現役復帰し、翌年は監督も務めた。日本代表として2002年・2006年のワールドカップに出場。国際Aマッチ通算64試合出場7得点。ポジション=MF。身長181cm、体重77kg。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【Jリーグ】福西崇史「N-BOXで戦った2001年」が一番強かった 現在J2「ジュビロ磐田の復権に力を貸したい」
【新連載】Jリーグ語り草(3)
福西崇史の2002年
「史上最強チームはいかにして生まれたか」後編

◆福西崇史・前編>>「鹿島に負けた屈辱が原動力になった」

◆福西崇史・中編>>「2002年の高原直泰は覚醒していた」

「当時のジュビロ磐田は、意識の高い選手の集まりだった」

 福西崇史は感慨深げに2002年を回顧する。

 誰もが忌憚(きたん)ない意見をぶつけ合い、だからこそチーム一丸となって、大きな目標を達成できたのだ。

 もっとも「最強」を誇った2002年を最後に、磐田はリーグ優勝から遠ざかっている。J2に降格するなど低迷する古巣に対して、福西は今、何を思うのか──。

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 史上初の完全優勝を成し遂げた時は、うれしかったというよりも「悔しさを晴らした」という思いのほうが強かったですね。やはり2001年の悔しさは、たとえようもないくらいに大きかったですから。

 新しいものを作り上げていくことに苦労しましたし、ようやく形になってきたかと思えば、目標としていたFIFAクラブ世界選手権がなくなってしまった。計り知れないショックのなかで、何とか気持ちを切り替え、リーグ優勝を目指しましたが、最後の最後にそれさえも逃してしまった。僕らにとって2001年は、まさに悲劇の年でした。

 だから2002年は、その悲劇を打ち払うためのシーズンだったんです。

 想いだけじゃなく、いろんなものがここにつながっていると思うんです。2001年にN-BOXを作って、あの形でサッカーをしたからこそ、ノーマルな形に戻してからも、ベースにあった攻撃性が揺らぐことはありませんでした。

 僕らとしても2001年のサッカーはかなり特殊でしたけど、やっていて楽しかったし、相手を圧倒することもできました。今、映像を見返しても、洗練されているんですよね。戦術的に現代サッカーにも引けを取らないんじゃないかと思うくらいです。

 一般的には完全優勝をした2002年の磐田が最強だったと思われているかもしれませんが、個人的には2001年が一番強いチームだったと感じています。内容にこだわり、結果も出すことができた。だけど、タイトルだけが足りなかった。

【僕らは「ドゥンガ」を経験】
 逆に2002年は、紙一重の戦いも多かったですし、何とか勝っていったというイメージが強いですね。だけど、結果にこだわり、ギリギリの戦いをモノにしていった。

 その意味では「最強」とは言えないかもしれませんが、勝負強いチームだったことは間違いありません。2001年からつながるストーリーが「完全優勝」という形で結実したんだと思います。

 今、振り返っても、当時の磐田は意識の高い選手の集まりだったと思います。ふだんはめちゃくちゃ仲がよかったんですが、ピッチに立てば激しく言い合うことは珍しくはありませんでした。

 たとえば、ジヴコヴィッチはボールを持つのが好きなので、球離れが遅いんですよ。そうなるとリズムが崩れるので、「お前、ひとりでサッカーしてんじゃねえぞ!」って激しく問い詰めたり。彼なりの主張もあるんでしょうけど、それだと磐田のサッカーは成り立たない。初めは戸惑う部分もあったかもしれませんが、そういう日常を過ごすなかで、彼もうまく馴染んでいきました。

 僕らは「ドゥンガ」を経験していますからね。当初はめちゃくちゃ怖かったし、彼が言うことは絶対的な世界基準なので、聞かざるを得ない部分はありました。だけど、その要求に応えられるようになれば、こちらも言い返せるようになっていくんです。あの闘将に意見をぶつけていたわけですから、もはや怖いものはないですよ。

 だから当時の磐田にとって、主張も要求も言い合いも、特別なことじゃなかったんです。それはピッチを離れてからも同じこと。よく、うまくいっていない時や大事な試合の前に、決起集会のようなものが開かれるじゃないですか。でも僕らの場合は、わざわざ集まるようなことはありませんでした。普通にご飯を食べに行っても、至るところで意見交換しているんですよ。

 名波さんが「今日、飯、行ける人いる?」って誘うと、ほとんどの選手が集まりましたからね。日頃から決起集会をしていたようなものなので、チーム全体が高い意識を保てましたし、同じ目線を持つことができていた。本当に一体感があったし、当時のメンバーとは今でも仲がいいですね。深い絆で結ばれていたチームだったと思います。

【2002年の栄光は過去のもの】
 結局、あの完全優勝を最後に、磐田はリーグ優勝を成し遂げられていません。優勝どころから、今では何度目かのJ2での戦いを強いられています。

 あれだけ強かった磐田が、なぜ勝てなくなったのか──。その要因のひとつは、やはりクラブの体制にあると思っています。

 荒田忠典社長が強いクラブを作り上げてきましたが、そこから社長が代わり、体制が変わっていくなかで、やっぱりいろんなものが変わっていってしまったのかなと。もちろん、30年以上の歴史を歩むなかで、時代に合わせた変化をしていく必要があります。一方で、守っていかなければいけない伝統もあるわけです。

 熱は変わらずあると思いますよ。ただ、熱があってもすぐに結果につながるとは限らない。どういうビジョンを持っているのか。目先の結果を求めるのか。どういう立ち位置を目指しているのか。たとえば、黎明期のJリーグを支えたヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)も大きく変わりましたよね。育成型クラブとして選手を育てながら、トップチームもJ1に返り咲きました。

 ヴィッセル神戸やFC町田ゼルビアのように資金力のあるクラブであれば解決できる部分もあるでしょうけど、お金がなければ、ないなりのやり方があるはずです。

 ユースで育てて、トップで活躍させて、その選手が海外に行って、移籍金を得る──。そういうビジョンでもいいわけですよ。人を獲るのか、環境を整えるか。お金のかけ方をどこにするか。磐田がこれからどういうふうにしていくのかに興味はありますし、そこが大事になってくるのではないでしょうか。それが何年後かに、成果となって表れるはずです。

 昔のように強いチームを取り戻してほしいと思う一方で、それが容易ではないことも理解しています。

 2002年の栄光は、もはや過去のもの。でも、僕たちは勝つことで、磐田の街が盛り上がる姿を見てきました。磐田はサッカーの街ですからね。グラウンドもできましたし、スタジアムの近くに駅もできました。今の市長はもともとサポーターですし、「スポーツのまち」1位の座も取り戻しました。

【磐田のために力を注ぐ覚悟】
 環境は整ってきているし、市のサポートもある。やっぱりジュビロは強くあり続けないといけないチームなんだと思います。当時の街の盛り上がりを知る者としてはそうであってほしいし、たとえ困難であったとしても、強くあり続ける努力を続けてほしいですね。

 僕自身も、磐田の復権に力を貸したいと思っています。プロの道を切り開いてくれたチームですし、12年も在籍し、たくさんいい思いをさせてくれたチームですから。常に気にはしていますし、自分がどうやって力になれるかも考えています。

 ただ、こればかりは「僕がやりたい」と言って、どうにかなるものでもないですからね。クラブに求められないといけないわけですし、タイミングが合わない限りは、進まない話ですから。

 それが監督になるか、フロントに入るかわからないですけど、お互いのタイミングがあった時に、僕は磐田のために力を注ぐ覚悟でいます。今は離れていますけど、いつかはまた必ずつながるだろうと思っていますから。

<了>


【profile】
福西崇史(ふくにし・たかし)
1976年9月1日生まれ、愛媛県新居浜市出身。1995年に新居浜工高からジュビロ磐田に入団。ハンス・オフト監督の勧めでFWからボランチにコンバートする。激しいプレーで磐田の黄金期を支え、Jリーグベストイレブンを4度受賞。2006年限りで磐田を退団し、FC東京→東京ヴェルディを経由して2008年に引退。その後は指導者・解説者として活躍しつつ、2018年には南葛SCで現役復帰し、翌年は監督も務めた。日本代表として2002年・2006年のワールドカップに出場。国際Aマッチ通算64試合出場7得点。ポジション=MF。身長181cm、体重77kg。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【DeNA】ドラフト3位の東洋大・宮下朝陽の目標は日本代表入り「将来的には侍ジャパンに選ばれたい」
DeNAから3位で指名を受けた東洋大の宮下は「デスターシャ ポーズ」

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 プロ野球ドラフト会議(23日)で、DeNAから3位指名された北海高出身の東洋大・宮下朝陽内野手(21)が、日本代表入りを目標に見据えてプロの道へ歩む。同日の会見では「即戦力を求められる。1年目から1軍で、将来的には侍ジャパンに選ばれたいと思っている。一年一年頑張っていきたい」と力を込めた。

 23年のドラフト4位でDeNAに入団した石上泰輝内野手(24)は、東洋大の2学年先輩。その縁もあり、試合中継はよく見てきた球団の一つだ。宮下は「ガッツがあって雰囲気が良く、気合のあるチーム」と球団の印象を語る。「自分自身、プレーに対して感情を表に出すタイプではないんですけど、そういう気持ちもプロになったら出していけたらと思います」と意識改革を進めていく意欲を見せた。

 石上は2年目の今年、1軍で遊撃手を中心に73試合に出場。今後はポジションを争うことになるが、宮下は「追いつくのではなく、抜かせる実力をつけたい」と侍ジャパン入りへまい進する構えだ。石上の愛称は「ハマのカミカミ」。宮下は「ハマの―」何と呼ばれるようになるか。「ニックネームはないのでファンの方々に付けてほしいです」。道産子球児がハマの人気者を目指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヌートバーのWBC出場は絶望的か 両かかと手術の影響で 球団幹部「開幕出場の可能性、確約しない」
2025/10/27

 カージナルスのラーズ・ヌートバー
 カージナルスのラーズ・ヌートバー外野手が、両かかと手術の影響で来季の開幕に間に合わない可能性があることが26日(日本時間27日)、明らかになった。

 カージナルスのハイム・ブルーム編成本部長が地元局の番組に出演し、17日(同18日)に手術したヌートバーについて「開幕出場の可能性は排除しないが、確約はない」と語ったという。地元局KMOXスポーツのマット・ポーリー記者が自身のXで伝えた。今季は135試合の出場で打率・234、4年連続2桁となる13本塁打、48打点だった。

 母親が日本人のヌートバーは23年のWBCで侍ジャパンの一員として参加。1番打者として打線をけん引し、世界一に貢献した。

 闘志あふれるプレー、明るいキャラクターで日本のファンも注目。来年3月のWBC出場も期待されていたが、絶望的な見通しとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

B2ベルテックス静岡が7連敗…最終Qに逆転され森高大HC「自分たちから勝利を手放してしまった」
Bリーグ

◇りそなB2リーグ 第5節 岩手77ー71ベルテックス静岡(26日・盛岡タカヤアリーナ)

 西地区最下位のベルテックス静岡が敵地で、岩手との第2戦を71―77で落とし、7連敗。最大10点リードを奪い、第3クオーター(Q)終了時でも3点差でリードしていたが、最終Qで簡単にひっくり返され、逆転負けを喫した。

 接戦に持ち込んでも、勝利まではほど遠い。外国籍選手1人が欠場し、ベンチ登録12人のところ10人しかいない岩手に、まさかの連敗。森高大ヘッドコーチ(36)は「悔しい敗戦。ターンオーバーから簡単に失点を許すなど、自分たちから勝利を手放してしまった」と、唇をかんだ。

 トンネルの出口がまったく見えてこない。「全員が一人ずつ、レベルを上げていくしかない」と、指揮官。次節は11月1、2日と沼津で鹿児島と対戦。ホームで悪い流れを断ち切れるのか。打開策を探らないと、このまま坂道を転がるばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヌートバー、来春WBCは絶望的か 開幕出遅れの可能性…編成トップ「保証できない」
2025/10/27

カージナルスのラーズ・ヌートバー【写真:ロイター】
「開幕戦出場の可能性は完全に消えてないが、保証もできない」
カージナルスのラーズ・ヌートバー外野手は来年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)出場は極めて難しくなった。10月7日(日本時間8日)に両足かかとを手術。チャイム・ブルーム編成本部長が地元ラジオ局のインタビューに応じ、「開幕戦出場の可能性は完全に消えてないが、保証もできない」とコメントした。

ヌートバーは今季135試合に出場して打率.234、13本塁打、48打点にとどまった。10月7日に両かかとを手術した際は全治などは明らかになっていなかったが、シーズン開幕戦の出場が難しいとなれば、開幕前に真剣勝負が求められるWBCはさらに厳しくなる。ブルーム編成本部長は、無理にリハビリを急がせるつもりはないが、仮にシーズン開幕に間に合わなかったとしても離脱は短期間にとどまる見通しを示した。

2023年WBCでは日系メジャーリーガーとして初の侍ジャパン入り。全7試合に「1番・中堅手」として出場して打率.269、出塁率.424、4打点、2盗塁。守備でも好守を見せ、チームの世界一に貢献した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大谷翔平の「142・9M場外弾」記念プレート、ドジャースタジアムに設置されていた…“伝説の瞬間”にも仲間入り
ドジャースタジアムに新たに設置された大谷翔平の場外弾記念プレート(カメラ・安藤 宏太)

 ドジャース・大谷翔平投手が17日(日本時間18日)のリーグ優勝決定シリーズ第4戦(対ブルワーズ)で放った飛距離469フィート(約142・9メートル)の“場外弾”を記念するプレートなどが26日(同27日)までに設置されていた。記念プレートのほかにも、打球が直撃したコンコース屋根の各支柱に設置されている「伝説のドジャーの瞬間」という展示に「大谷の3発&6回0封10K」が新たに追加された。

 ワールドシリーズは27日(同28日)から、場所をカナダのトロントから米ロサンゼルスに移し、第3戦を行う。日本時間27日は移動日で、両軍がドジャースタジアムで調整を行った。

 リーグ優勝決定シリーズ第4戦(対ブルワーズ)で先発登板した大谷は、3本塁打10奪三振の歴史的な活躍を見せた。3本のうち2本目の本塁打が、右翼席コンコースの屋根を直撃して球場外に飛び出す破格の一発。推定飛距離約142・9メートルだった。

 大谷の「伝説の瞬間」の展示には「リーグ王者決定シリーズMVPの大谷翔平が3本塁打(うち1つは場外)し、6回無失点10奪三振を挙げた。対ブルワーズ第4戦」との解説文とともに、打球を見届ける大谷の姿がプリントされている。

 今ポストシーズンでは8日に同球場で行われた地区シリーズ第3戦でシュワバー(フィリーズ)が山本由伸投手から放った屋根直撃弾も場外弾と認定され、記念プレートが設置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【巨人】育成2位指名の立正大・林燦に指名あいさつ「ストレートの強いピッチャーに」 最速152キロ右腕
指名あいさつを受け、スカウトから贈られたドラフト会場入場パスを手にガッツポーズの立正大・林燦

 巨人から育成ドラフト2位で指名された立正大の林燦(はやし・きら)投手が27日、同大学の熊谷キャンパスで、巨人の榑松スカウトディレクターと担当の大場スカウトから指名あいさつを受けた。「やっとプロのスタートラインに立てた実感が湧いた。指導者をはじめ、周りの方々に支えてもらえた4年間でしたし、自分一人ではここまで来られなかった」と語った。

 林は183センチ、85キロの右腕で、最速152キロの力強い直球が武器。食事とトレーニングを重ね、大学入学時から10キロ以上の増加に成功し、球速アップにつなげた。変化球も多彩で、カーブ、カットボール、スライダー、チェンジアップ、フォークを操る。「松山(中日)選手のようなストレートの強いピッチャーになりたい。後ろ(救援)が基本になると思うので、そこで抑えていかないといけない」と意気込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西武 元山飛優ら3選手に戦力外通告 野村大樹はソフトバンクから移籍1年半、腰のけがにも泣く
2025/10/27

 西武から戦力外通告を受けた元山飛優
 西武は27日、田村伊知郎投手、元山飛優選手、野村大樹選手に来季の契約を行わないことを通達したと発表した。

 元山は20年度ドラフト4位でヤクルト入り。21年は97試合に出場したが、その後は出場機会が減少。トレードで西武に移籍し、24年から2シーズンプレーした。今季は49試合の出場で打率・153だった。

 田村は16年度ドラフト6位で西武入り。今季は20試合に登板して防御率3.58。通算150試合に登板した。

 野村は18年ドラフト3位でソフトバンク入り。24年途中に西武へ移籍し、同年は57試合に出場して5本塁打をマークしたが、今季は13試合の出場にとどまっていた。

 各選手のコメントは以下。

【田村伊知郎投手】

 ライオンズでの9年間がここで一区切りついたかな、という気持ちです。ライオンズに入団したときは、たくさんの先輩がいて、プロの厳しさを教えてもらいましたし、プロフェッショナルな姿をたくさん見て、プロ野球選手になるうえで、たくさんのことを学びました。今年は苦しい1年でしたが、タオルを掲げてくれる方や、結果が出ないときでも応援してくださるファンの皆さまには本当に支えてもらいました。感謝の気持ちでいっぱいです。

【元山飛優選手】

 プレーで貢献することができず、ベンチを温める日が多いなかで、チームのためにできたことは元気に声出しをすることでした。移籍してきた自分を温かく迎え入れてくれたチームメートのみんなとは、楽しい思い出しかありません。初のお立ち台も、初のサヨナラもライオンズだったので、打率は悪かったけどもインパクトは残せたかなと思います。試合に負けていても勝っていても、最後まで応援してくださるライオンズファンの皆さんは12球団イチだと思います。ありがとうございました。

【野村大樹選手】

 今年は腰のけがで手術をして、一軍の戦力になれなかったので、チームに申し訳なく思っています。移籍して1年半、ライオンズのユニフォームを着てプレーできたことは幸せでした。移籍後すぐ、古巣ホークスとの試合で、先制のホームランを打ったことは今でも忘れません。ライオンズファンの皆さんは、とても熱くすばらしいと思います。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富士通フロンティアーズ40周年。ハーフタイムを彩ったチアリーダー部“歴代70人”のラインダンス
2025/10/27

2025年9月14日、富士通アメリカンフットボール部「フロンティアーズ」創部40周年の記念試合。ハーフタイムに登場したのは、創部47年の歴史を持つ富士通チアリーダー部「フロンティアレッツ」だった。現役とOGを合わせた総勢70人が集結し、小気味よいリズムに合わせた息の合うパフォーマンスでスタンドを沸かせた。節目の一日に込められた思いや準備の舞台裏を、富士通の企業スポーツ推進室の常盤真也さん、チアリーダー部チームアドバイザーの田上由美子さん、チアリーダー部スタッフの山岸亜未さんに語ってもらった。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=富士通フロンティアレッツ)

なぜ歴代メンバーが集結したのか? 企画の出発点
――今回の40周年記念試合で「歴代メンバーが集結してハーフタイムショーを実施することになった経緯について教えてください。

山岸:30周年・20周年にも同様の企画があり、先輩方が実施したパフォーマンスが毎回とても好評だったと聞いていました。私は30周年が入社直前で出演できなかったのですが、入社後もOGの先輩方から40周年に向けた期待の声をよく聞いていました。過去の動画を見ながら私自身もずっと願っていた企画で、40周年という節目で関われたことを本当にうれしく思います。

――過去の20周年・30周年企画と比べて、40周年で特に力を入れたことはありますか?

田上:20周年は東京ドームで、当時はOGも含めた約40人でパフォーマンスをしました。最初は手探りで、4~5分の演技の最後にポンポンで「20周年」と文字を作るなどしていました。30周年は富士通スタジアム川崎で約50人と増え、年を重ねるごとにラインダンスや構成のレベルも上げ、今回の40周年は総勢70人で臨みました。1990年代に活動していたメンバーは久々の厳しい練習を乗り越え、現役メンバーやスタッフに教わりながら本番を迎えました。

常盤:本当にすごい練習量でした。準備段階からすごく力を入れていて、熱量が伝わってきました。

――50人以上のOGの皆さんをどのように集めたのですか?

田上:私がOGの連絡先を取りまとめ、定期的に試合の案内などをメールで配信していました。ライスボウル(アメリカンフットボール日本一を決める社会人Xリーグの優勝決定戦)進出時には「みんなで応援に行きませんか?」とお声がけすることもありました。その延長で、約1年前から「来年は40周年で、みんなで踊りましょう」と段階的に呼びかけ、同年代の誘い合いも広がって、現役と合わせて70人が集まりました。

――仕事や家事の合間を縫って練習を重ねていたのですね。

田上:遠いところだとアメリカからこのイベントのために来た人もいます。みんなチアリーダーが大好きで、こんな機会は滅多にないので、久々の仲間や憧れの先輩と再び踊れる喜びが原動力になりました。

再び舞台へ。節目に込めた思い
――節目の舞台に再び立つことになった心境と、当日のパフォーマンスに込めた思いを改めて教えてください。

田上:お客さまの歓声を浴び、現役時代がよみがえりました。同世代には膝や腰の不安を抱える人もいましたが、チームが続いてきたことへの感謝や機会を得た喜びを口にする声が多かったです。山岸さんたちはどうでしたか?

山岸:私たちは出演したメンバーの中では中堅世代でしたが、引退してから体を動かす機会が減っていたので、体力面の不安はありました。ただ、体育館に集まるとみんなすごく嬉しそうに「久しぶり!」と声をかけ合って、すぐに当時の空気感に戻れました。改めてチアの良さやつながりの深さを感じました。

――小気味良いリズムに合わせて70人の息の合った動きは圧巻でした。限られた時間の中で、どのように練習を進めたのですか?

山岸:現役メンバーは試合応援がメインなので、OGの練習はOG中心に時間や内容を考え、わかりやすいスロー版の振付動画を配信したり、期日を設けて各自で習得してもらいました。全体での通し練習は現役メンバーと合同で行い、オフィシャル練習に加えて自主練も提案しながら、週3~5回ほど集まっていました。

展示でたどる47年。写真とユニフォームが語るチームの歩み
――写真展示や歴代ユニフォーム紹介なども行ったそうですね。

田上:A1のパネルに、1987年、90年、というように、数年おきの歴代メンバーの集合写真を展示しました。また、「フロンティアレッツ」の沿革もコンパクトにまとめて紹介しました。

常盤:どれだけ関心を持っていただけるか未知数でしたが、足を止めて写真に収める方が多く、展示を通して歴史を共有できたと思います。

――久々にお客さんの前でパフォーマンスをしてみて、どのような思いでしたか?

山岸:久しぶりに会う仲間や、当時は一緒に踊れなかった憧れの先輩方と練習やパフォーマンスを披露できたことがすごくうれしかったです。「10年後もまたやりたい」という声も多く聞かれました。

パフォーマンスが始まる前からメンバー全体のモチベーションがとても高く、MCの盛り上げや曲が流れた瞬間から、メンバー同士の一体感を強く感じました。実際に始まると、見せ場となるポイントで会場が盛り上がり、感謝の思いや再びこのフィールドに立てる喜びが伝わっているのを感じました。「本当にやってよかった」と心から思いました。

田上:ハーフタイムショーが終わった後は涙が出るほど、みんなで喜び合いました。私のように何十年もブランクがあると、若い世代には遠く及ばず恥ずかしさもありましたが、かつてのメンバーが一生懸命踊る姿を見せられたこと自体に価値があったと思います。特に全員が横一列に並ぶラインダンスは、脚が上がる、上がらないに関係なく、全員の気持ちが一つになっていたと思います。その瞬間、客席が一番沸き、私たちも鳥肌が立つほど感動しました。OGの皆さんからも「努力してよかった」「あの景色は忘れられない」という声が聞こえてきました。

1989年当時のチア部## 節目を超えて、次の世代へ

――「富士通フロンティアーズ40周年」を経て、フロンティアレッツが今後の節目やその先に向けて大切にしていきたいことを教えてください。

常盤:チアリーダーの活動を正しく伝えることが大事だと思っています。チアリーダーは時に脇役のように見られがちですが、強い思いを持って活動している組織です。その姿を社内外に発信することで、組織を守り、継続する力になると感じています。11月9日に富士通スタジアム川崎で行われるX1 Super 第6節(11月9日)で、フロンティアレッツのパフォーマンスが見られます。また、女子バスケ(レッドウェーブ)の大樹生命Wリーグ2025-26 レギュラーシーズン 第7戦(11月8日)でも歴代メンバーによる40周年記念ハーフタイムショーを実施予定です。ぜひ会場に足を運んで見にきていただけたらうれしいです!

山岸:この歴史あるチアリーダー部に関わり、支えてきてくださった方々にとって、かけがえのないチームであり続けたいと思います。その一方で、現状に満足せず、社業にもチア活動にもストイックであることを大切にしたいです。常に成長し、最高の状態を保ち続けることで、いつでも誰もが誇れるチームを目指したいと思います。

田上:私は初期から関わってきましたので、初期メンバーから現役メンバーまでをつなぐことが自分の使命だと思っています。やめていった人や疎遠になった人も、また帰ってこられる場所でありたいですし、もう一度青春を取り戻し、再び輝ける場所をつくっていきたいです。会社や私生活でも皆さんが輝けるよう願っています。また、「企業スポーツ推進」という組織があるのは会社の強みだと思うので、社内で協力しながら企業スポーツを広めていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ソフトバンク】板東湧梧が戦力外「このままでは終われない」現役続行、トライアウトも参加へ
ソフトバンク・板東湧梧

×
 ソフトバンクは27日、板東湧梧投手に来季の契約を結ばないことを伝えた。福岡市内の球団事務所で通告された板東は「やっぱり野球がしたいという思いは強い。このままでは終われない」と現役続行を宣言。トライアウトの参加に意欲を示し「どこか声をかけていただけるところがあれば。NPBがうれしいけど、広い視野で考えたい」と海外や独立リーグなども選択肢に入れた。

 18年ドラフト4位で入団。21年に中継ぎで自己最多44試合に登板した。22年は先発でも活躍し、優勝のかかったシーズン最終戦でも登板。「一生忘れない。優勝が決まる試合に先発させてもらったことは一生の財産。しびれましたね」と回想した。最近2年は1軍での出番がなかったが、今季はウエスタン・リーグで9勝2敗、最優秀防御率となる2・48の好成績。それでも1軍から呼ばれることはなかった。「(戦力外は)覚悟していた」と動揺はなく「最後は自分との戦いだったけど、気持ちを切らさずにやれた。終わりでもあるし、新たなスタートでもある。前を向いて進みたい」と力強く語った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ソフトバンク】板東湧梧が戦力外「このままでは終われない」現役続行、トライアウトも参加へ
ソフトバンク・板東湧梧

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 ソフトバンクは27日、板東湧梧投手に来季の契約を結ばないことを伝えた。福岡市内の球団事務所で通告された板東は「やっぱり野球がしたいという思いは強い。このままでは終われない」と現役続行を宣言。トライアウトの参加に意欲を示し「どこか声をかけていただけるところがあれば。NPBがうれしいけど、広い視野で考えたい」と海外や独立リーグなども選択肢に入れた。

 18年ドラフト4位で入団。21年に中継ぎで自己最多44試合に登板した。22年は先発でも活躍し、優勝のかかったシーズン最終戦でも登板。「一生忘れない。優勝が決まる試合に先発させてもらったことは一生の財産。しびれましたね」と回想した。最近2年は1軍での出番がなかったが、今季はウエスタン・リーグで9勝2敗、最優秀防御率となる2・48の好成績。それでも1軍から呼ばれることはなかった。「(戦力外は)覚悟していた」と動揺はなく「最後は自分との戦いだったけど、気持ちを切らさずにやれた。終わりでもあるし、新たなスタートでもある。前を向いて進みたい」と力強く語った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「残り29試合もある」大一番で完敗、首位と8P差もセルティック指揮官は泰然自若。前田大然の復帰時期にも言及。29日の出場可否は?
2025/10/27

10月26日に開催されたスコットランドリーグ第9節で前田大然、旗手怜央、山田新、稲村隼翔を擁する2位のセルティックは、勝点5差で首位のハーツの敵地で対戦。旗手が先発、山田が途中出場、怪我から復帰明けの前田と新戦力の稲村がメンバー外となったなか、1-3で大事な首位攻防戦を落とした。

リーグ5連覇を目ざすセルティックは、8分にオウンゴールで先制点を献上するも、直後の12分に主将カラム・マグレガーの得点で同点に。しかし、勝ち越し点は奪えずにいると、後半に入って52分と55分に失点し、手痛い黒星を喫した。

地元紙『Daily Record』によれば、ブレンダン・ロジャーズ監督は試合後、「セルティックの監督である以上、何が起ころうと結果に対する責任は私にある」と伝えた上で、巻き返しを誓った。

「私の決意は揺るぎない。ここでのキャリアでこれほど懸命に働いたことはない。だから現状を打破しようとするモチベーションは十分にある。全く気にする必要はない。まだシーズン序盤だ。ハーツは素晴らしいスタートを切り、勝点を積み上げたが、まだ多くの試合が残っている。

今は踏ん張り、良いプレーと結果を見つけ出す必要がある。シーズンが進むにつれ、我々のレベルが向上するよう願っている。今日の試合内容と結果は明らかに失望すべきものだ。だが、残り29試合もある」

昨季に公式戦33発をマークしたエース、前田の復帰はいつになるのか。「ダイゼンは明日練習に合流する」と明言した指揮官は、「29日に行なわれる次節のフォルカーク戦に出場するか」という問いに対しては、こう答えた。

「分からない。状況を見極める必要がある。適切なタイミングで起用できるよう調整しなければならない。ただ幸い、彼は練習に復帰する」

勝点差は8に広がった。逆境を跳ね除け、前田と旗手の加入した1年目から続く連覇を達成できるか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【西武】田村伊知郎・元山飛優・野村大樹の3選手と来季の契約を結ばず 球団やファンへ感謝のコメント記す
2025/10/27

【画像】ドラフト指名を終え挨拶を行った西口監督と小島大河選手

プロ野球・西武は27日、3選手と来季の契約を行わないと通知した旨を発表しました。

今季限りで契約終了となるのは、田村伊知郎投手、元山飛優選手、野村大樹選手の3選手です。

田村投手は、報徳学園高から立教大を経て、2016年にドラフト6位で西武に入団。2023年には24試合で防御率1.52、昨季は28試合で防御率1.82をマーク。今季は20試合に出場し、防御率3.58の成績でした。9月で31歳となった田村投手は、「ライオンズでの9年間がここで一区切りついたかな、という気持ちです。プロの厳しさを教えてもらいましたし、たくさんのことを学びました。今年は苦しい1年でしたが、タオルを掲げてくれる方や、結果が出ないときでも応援してくださるファンの皆さまには本当に支えてもらいました。感謝の気持ちでいっぱいです」と、球団を通じて思いをつづっています。

元山選手は、佐久長聖高、東北福祉大学を経て、2020年にドラフト4位でヤクルトに入団。2023年オフにトレードで西武に加入しました。移籍後1年目の昨季は33試合で打率.143、2年目の今季は49試合で打率.153の成績。5年目の26歳は、「自分を温かく迎え入れてくれたチームメートのみんなとは、楽しい思い出しかありません。初のお立ち台も、初のサヨナラもライオンズだったので、打率は悪かったけどもインパクトは残せたかなと思います。試合に負けていても勝っていても、最後まで応援してくださるライオンズファンの皆さんは12球団イチだと思います。ありがとうございました」と、コメントしています。

野村選手は、早稲田実業高を経て、2018年にドラフト3位でソフトバンクに入団。2024年途中にトレードで西武に加入しました。今季の出場は13試合にとどまり、打率.171。腰のけがで手術したこともあり、結果を残せず契約終了となりました。野村選手は「一軍の戦力になれなかったので、チームに申し訳なく思っています。移籍して1年半、ライオンズのユニフォームを着てプレーできたことは幸せでした。移籍後すぐ、古巣ホークスとの試合で先制ホームランを打ったことは今でも忘れません。ライオンズファンの皆さんは、とても熱く素晴らしいと思います。ありがとうございました」と悔しさと感謝の思いを残しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西武 元山飛優ら3選手に戦力外通告 野村大樹はソフトバンクから移籍1年半、腰のけがにも泣く
2025/10/27

 西武から戦力外通告を受けた元山飛優
 西武は27日、田村伊知郎投手、元山飛優選手、野村大樹選手に来季の契約を行わないことを通達したと発表した。

 元山は20年度ドラフト4位でヤクルト入り。21年は97試合に出場したが、その後は出場機会が減少。トレードで西武に移籍し、24年から2シーズンプレーした。今季は49試合の出場で打率・153だった。

 田村は16年度ドラフト6位で西武入り。今季は20試合に登板して防御率3.58。通算150試合に登板した。

 野村は18年ドラフト3位でソフトバンク入り。24年途中に西武へ移籍し、同年は57試合に出場して5本塁打をマークしたが、今季は13試合の出場にとどまっていた。

 各選手のコメントは以下。

【田村伊知郎投手】

 ライオンズでの9年間がここで一区切りついたかな、という気持ちです。ライオンズに入団したときは、たくさんの先輩がいて、プロの厳しさを教えてもらいましたし、プロフェッショナルな姿をたくさん見て、プロ野球選手になるうえで、たくさんのことを学びました。今年は苦しい1年でしたが、タオルを掲げてくれる方や、結果が出ないときでも応援してくださるファンの皆さまには本当に支えてもらいました。感謝の気持ちでいっぱいです。

【元山飛優選手】

 プレーで貢献することができず、ベンチを温める日が多いなかで、チームのためにできたことは元気に声出しをすることでした。移籍してきた自分を温かく迎え入れてくれたチームメートのみんなとは、楽しい思い出しかありません。初のお立ち台も、初のサヨナラもライオンズだったので、打率は悪かったけどもインパクトは残せたかなと思います。試合に負けていても勝っていても、最後まで応援してくださるライオンズファンの皆さんは12球団イチだと思います。ありがとうございました。

【野村大樹選手】

 今年は腰のけがで手術をして、一軍の戦力になれなかったので、チームに申し訳なく思っています。移籍して1年半、ライオンズのユニフォームを着てプレーできたことは幸せでした。移籍後すぐ、古巣ホークスとの試合で、先制のホームランを打ったことは今でも忘れません。ライオンズファンの皆さんは、とても熱くすばらしいと思います。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富士通フロンティアーズ40周年。ハーフタイムを彩ったチアリーダー部“歴代70人”のラインダンス
2025/10/27

2025年9月14日、富士通アメリカンフットボール部「フロンティアーズ」創部40周年の記念試合。ハーフタイムに登場したのは、創部47年の歴史を持つ富士通チアリーダー部「フロンティアレッツ」だった。現役とOGを合わせた総勢70人が集結し、小気味よいリズムに合わせた息の合うパフォーマンスでスタンドを沸かせた。節目の一日に込められた思いや準備の舞台裏を、富士通の企業スポーツ推進室の常盤真也さん、チアリーダー部チームアドバイザーの田上由美子さん、チアリーダー部スタッフの山岸亜未さんに語ってもらった。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=富士通フロンティアレッツ)

なぜ歴代メンバーが集結したのか? 企画の出発点
――今回の40周年記念試合で「歴代メンバーが集結してハーフタイムショーを実施することになった経緯について教えてください。

山岸:30周年・20周年にも同様の企画があり、先輩方が実施したパフォーマンスが毎回とても好評だったと聞いていました。私は30周年が入社直前で出演できなかったのですが、入社後もOGの先輩方から40周年に向けた期待の声をよく聞いていました。過去の動画を見ながら私自身もずっと願っていた企画で、40周年という節目で関われたことを本当にうれしく思います。

――過去の20周年・30周年企画と比べて、40周年で特に力を入れたことはありますか?

田上:20周年は東京ドームで、当時はOGも含めた約40人でパフォーマンスをしました。最初は手探りで、4~5分の演技の最後にポンポンで「20周年」と文字を作るなどしていました。30周年は富士通スタジアム川崎で約50人と増え、年を重ねるごとにラインダンスや構成のレベルも上げ、今回の40周年は総勢70人で臨みました。1990年代に活動していたメンバーは久々の厳しい練習を乗り越え、現役メンバーやスタッフに教わりながら本番を迎えました。

常盤:本当にすごい練習量でした。準備段階からすごく力を入れていて、熱量が伝わってきました。

――50人以上のOGの皆さんをどのように集めたのですか?

田上:私がOGの連絡先を取りまとめ、定期的に試合の案内などをメールで配信していました。ライスボウル(アメリカンフットボール日本一を決める社会人Xリーグの優勝決定戦)進出時には「みんなで応援に行きませんか?」とお声がけすることもありました。その延長で、約1年前から「来年は40周年で、みんなで踊りましょう」と段階的に呼びかけ、同年代の誘い合いも広がって、現役と合わせて70人が集まりました。

――仕事や家事の合間を縫って練習を重ねていたのですね。

田上:遠いところだとアメリカからこのイベントのために来た人もいます。みんなチアリーダーが大好きで、こんな機会は滅多にないので、久々の仲間や憧れの先輩と再び踊れる喜びが原動力になりました。

再び舞台へ。節目に込めた思い
――節目の舞台に再び立つことになった心境と、当日のパフォーマンスに込めた思いを改めて教えてください。

田上:お客さまの歓声を浴び、現役時代がよみがえりました。同世代には膝や腰の不安を抱える人もいましたが、チームが続いてきたことへの感謝や機会を得た喜びを口にする声が多かったです。山岸さんたちはどうでしたか?

山岸:私たちは出演したメンバーの中では中堅世代でしたが、引退してから体を動かす機会が減っていたので、体力面の不安はありました。ただ、体育館に集まるとみんなすごく嬉しそうに「久しぶり!」と声をかけ合って、すぐに当時の空気感に戻れました。改めてチアの良さやつながりの深さを感じました。

――小気味良いリズムに合わせて70人の息の合った動きは圧巻でした。限られた時間の中で、どのように練習を進めたのですか?

山岸:現役メンバーは試合応援がメインなので、OGの練習はOG中心に時間や内容を考え、わかりやすいスロー版の振付動画を配信したり、期日を設けて各自で習得してもらいました。全体での通し練習は現役メンバーと合同で行い、オフィシャル練習に加えて自主練も提案しながら、週3~5回ほど集まっていました。

展示でたどる47年。写真とユニフォームが語るチームの歩み
――写真展示や歴代ユニフォーム紹介なども行ったそうですね。

田上:A1のパネルに、1987年、90年、というように、数年おきの歴代メンバーの集合写真を展示しました。また、「フロンティアレッツ」の沿革もコンパクトにまとめて紹介しました。

常盤:どれだけ関心を持っていただけるか未知数でしたが、足を止めて写真に収める方が多く、展示を通して歴史を共有できたと思います。

――久々にお客さんの前でパフォーマンスをしてみて、どのような思いでしたか?

山岸:久しぶりに会う仲間や、当時は一緒に踊れなかった憧れの先輩方と練習やパフォーマンスを披露できたことがすごくうれしかったです。「10年後もまたやりたい」という声も多く聞かれました。

パフォーマンスが始まる前からメンバー全体のモチベーションがとても高く、MCの盛り上げや曲が流れた瞬間から、メンバー同士の一体感を強く感じました。実際に始まると、見せ場となるポイントで会場が盛り上がり、感謝の思いや再びこのフィールドに立てる喜びが伝わっているのを感じました。「本当にやってよかった」と心から思いました。

田上:ハーフタイムショーが終わった後は涙が出るほど、みんなで喜び合いました。私のように何十年もブランクがあると、若い世代には遠く及ばず恥ずかしさもありましたが、かつてのメンバーが一生懸命踊る姿を見せられたこと自体に価値があったと思います。特に全員が横一列に並ぶラインダンスは、脚が上がる、上がらないに関係なく、全員の気持ちが一つになっていたと思います。その瞬間、客席が一番沸き、私たちも鳥肌が立つほど感動しました。OGの皆さんからも「努力してよかった」「あの景色は忘れられない」という声が聞こえてきました。

1989年当時のチア部## 節目を超えて、次の世代へ

――「富士通フロンティアーズ40周年」を経て、フロンティアレッツが今後の節目やその先に向けて大切にしていきたいことを教えてください。

常盤:チアリーダーの活動を正しく伝えることが大事だと思っています。チアリーダーは時に脇役のように見られがちですが、強い思いを持って活動している組織です。その姿を社内外に発信することで、組織を守り、継続する力になると感じています。11月9日に富士通スタジアム川崎で行われるX1 Super 第6節(11月9日)で、フロンティアレッツのパフォーマンスが見られます。また、女子バスケ(レッドウェーブ)の大樹生命Wリーグ2025-26 レギュラーシーズン 第7戦(11月8日)でも歴代メンバーによる40周年記念ハーフタイムショーを実施予定です。ぜひ会場に足を運んで見にきていただけたらうれしいです!

山岸:この歴史あるチアリーダー部に関わり、支えてきてくださった方々にとって、かけがえのないチームであり続けたいと思います。その一方で、現状に満足せず、社業にもチア活動にもストイックであることを大切にしたいです。常に成長し、最高の状態を保ち続けることで、いつでも誰もが誇れるチームを目指したいと思います。

田上:私は初期から関わってきましたので、初期メンバーから現役メンバーまでをつなぐことが自分の使命だと思っています。やめていった人や疎遠になった人も、また帰ってこられる場所でありたいですし、もう一度青春を取り戻し、再び輝ける場所をつくっていきたいです。会社や私生活でも皆さんが輝けるよう願っています。また、「企業スポーツ推進」という組織があるのは会社の強みだと思うので、社内で協力しながら企業スポーツを広めていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「残り29試合もある」大一番で完敗、首位と8P差もセルティック指揮官は泰然自若。前田大然の復帰時期にも言及。29日の出場可否は?
2025/10/27

10月26日に開催されたスコットランドリーグ第9節で前田大然、旗手怜央、山田新、稲村隼翔を擁する2位のセルティックは、勝点5差で首位のハーツの敵地で対戦。旗手が先発、山田が途中出場、怪我から復帰明けの前田と新戦力の稲村がメンバー外となったなか、1-3で大事な首位攻防戦を落とした。

リーグ5連覇を目ざすセルティックは、8分にオウンゴールで先制点を献上するも、直後の12分に主将カラム・マグレガーの得点で同点に。しかし、勝ち越し点は奪えずにいると、後半に入って52分と55分に失点し、手痛い黒星を喫した。

地元紙『Daily Record』によれば、ブレンダン・ロジャーズ監督は試合後、「セルティックの監督である以上、何が起ころうと結果に対する責任は私にある」と伝えた上で、巻き返しを誓った。

「私の決意は揺るぎない。ここでのキャリアでこれほど懸命に働いたことはない。だから現状を打破しようとするモチベーションは十分にある。全く気にする必要はない。まだシーズン序盤だ。ハーツは素晴らしいスタートを切り、勝点を積み上げたが、まだ多くの試合が残っている。

今は踏ん張り、良いプレーと結果を見つけ出す必要がある。シーズンが進むにつれ、我々のレベルが向上するよう願っている。今日の試合内容と結果は明らかに失望すべきものだ。だが、残り29試合もある」

昨季に公式戦33発をマークしたエース、前田の復帰はいつになるのか。「ダイゼンは明日練習に合流する」と明言した指揮官は、「29日に行なわれる次節のフォルカーク戦に出場するか」という問いに対しては、こう答えた。

「分からない。状況を見極める必要がある。適切なタイミングで起用できるよう調整しなければならない。ただ幸い、彼は練習に復帰する」

勝点差は8に広がった。逆境を跳ね除け、前田と旗手の加入した1年目から続く連覇を達成できるか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東大8年ぶり勝ち点へサブマリン・渡辺向輝が先発、卒業後は野球引退明言 ヤクルトのドラ1・松下擁する法大と対戦
2025/10/27

 東大・渡辺向輝
 「東京六大学野球、法大-東大」(27日、神宮球場)

 25日の1回戦で今季2勝目を挙げた東大が、2017年秋以来8年ぶりとなる悲願の勝ち点をかけて、法大との2回戦に挑む。先発は下手投げエース・渡辺向輝投手(4年・海城)。23日のドラフト会議で指名漏れとなったことを受け、卒業後は一般就職することを明言しているだけに、勝てばラスト登板となる。

 対する法大はヤクルトからドラフト1位指名を受けた松下歩叶内野手(4年・桐蔭学園)が主将を務める。4年生が次のステージへ悔いなく進むためにも、簡単に白星を献上するわけにはいかない。

 試合開始は11時の予定。スタメンは以下の通り。

 【東大】

 1番・右翼 伊藤

 2番・捕手 明石

 3番・一塁 中山

 4番・左翼 荒井慶

 5番・二塁 秋元

 6番・遊撃 樋口

 7番・中堅 酒井

 8番・投手 渡辺

 9番・三塁 青貝

 【法大】

 1番・右翼 境

 2番・遊撃 熊谷

 3番・中堅 藤森康

 4番・三塁 松下

 5番・左翼 片山

 6番・一塁 今泉秀

 7番・捕手 井上和

 8番・二塁 中村騎

 9番・投手 野崎