朝のバス停で、またあの人に会った。青いスカーフを首に巻いたおばさん。眉間にしわを寄せて、いつも誰かに何か言っている。
「若い人はね、ちゃんと姿勢を正して立たなきゃだめよ。腰を悪くするわよ」
そう言われたのは、最初に会った日のことだった。別に猫背になっていたわけでもない。ただ、スマホを見ていた。ぼくは軽く会釈して、その場をやり過ごした。
その日から、やけに頻繁に顔を合わせるようになった。信号待ちの交差点で。駅前のベンチで。スーパーの入り口で。そのたびにおばさんは、何かと口を出してくる。
「そんなに薄着じゃ風邪をひくわよ」
「夜道を歩くときはイヤホンなんか外しなさい」
「お弁当ばかり食べてたら栄養が偏るわよ」
最初は、ただの小言好きなおばさんだと思っていた。正直、うっとうしかった。知らない人に生活を覗かれているようで、少し怖くもあった。
けれど、ある夜のことだ。終電間際、雨の中を傘もささずに歩いていたとき、後ろから声を掛けられた。
「濡れるわよ、これ使いなさい」
振り向くと、いつものおばさんがいた。差し出されたのは、使い古された折り畳み傘。持ち手の部分が少し欠けていた。
「大丈夫です、自分のがあるので」
そう言って断ろうとしたが、おばさんは黙ってぼくの手に傘を押しつけた。
「いいから。若い人は風邪ひいたら治りにくいんだから」
その顔を見たとき、初めて、怒っているわけじゃないんだと気づいた。どこか、心配そうな、寂しそうな目をしていた。
翌朝、その傘を返そうと、いつものバス停に行ったが、おばさんはいなかった。その日も、その次の日も。もう二度と、会うことはなかった。
代わりに、別の人がそこにいた。今度は、学生服の少女。スマホを見ながらふらふらと歩いていて、赤信号にも気づかずに横断歩道へ足を踏み出そうとしていた。
思わず、声が出た。
「危ないよ!」
少女は驚いたように立ち止まり、振り向いた。ぼくは自分でも驚くほど強い声を出していた。まるで、あのおばさんがぼくの中で喋っているようだった。
少女は会釈して、イヤホンを外した。その仕草が、なんだか懐かしかった。
帰り道、ポケットの中で、あの古びた傘が重く感じた。骨が少し曲がって、開くことも困難で、ほとんど骨董品。それでも、捨てる気にはなれなかった。
あのおばさんの声が、今も耳の奥で響いている。
「気をつけなさいね」
きっと、あの人も昔、誰かにそう言われたのだろう。そして、ぼくも、余計なおせっかいとは思いつつ誰かに言うのだ。無愛想で、感じの悪い声で。でも、その中に、ほんの少しの心配と、見えない優しさを混ぜながら。
そうやって、誰かの暮らしの片隅に残っていくのだ。あの、名も知らぬおばさんのように。そして、ぼく自身もまた、誰かの記憶の中で、遠い人になっていく覚悟を決めた。
そう、雨の日の傘の重さだけが、その輪の中で、静かに受け渡されていく。