大分県中津市の地方史 大分県中津市の地方史 大分県中津市の地方史

中津市永添にある浄土真宗・大谷派 城慶山正行寺は城跡であり、天正7年(1579)宇都宮一族の耶馬渓津民長岩城・野仲鎮兼に攻められ、末弘城城主末弘対馬守正行は降伏して城を明け渡します。そのとき正行は僧侶の姿となり妙玄と名を改め、のち城跡に寺を創建し俗名をとって名前を正行寺とし、城慶山と号しました。

雲華上人(安永2・1773年~嘉永3・1850年)が門跡を継いだ時より、寺は隆盛を極めるようになります


雲華上人(うんげしょうにん)とは (17731850) 

江戸時代後期中津市古城 正行寺の住職 姓は末弘 名は大含 号は雲華、染香人、鴻雪斎、枳穀園の別号があります。大分県竹田の満徳寺に生れ、叔父にあたる日田の廣圓寺の法蘭、中津の倉成龍渚に学び、その後、博多の亀井南溟に師事しました。その器量をみこまれて、正行寺に養子にきます。東本願寺の講師(本願寺の最高の学位)にまでなります。古人の言うところ、「雲華、人となり白晢豊眉、体幹偉大、儀容神の如し。見る者即ちその常人にあらざることを知る。(中略)本山大に土木を起こす。よって雲上をして四方に不化せしめき、よって東奥西鎮、北越南紀、ほとんど巡化せなざるなし(中略)みな賞して真宗第一の人と驚嘆せり」 また、当時一流の文人達とも交流を深め、頼山陽、田能村竹田、三浦梅園など枚挙にあげられないほどの人物との交流します

本堂建立にたいして中津藩藩公であった奥平昌高公の全面協力がでて「藩内の樹木を自由に伐採」の許可を受けております。また、建築に対して上方(大阪)からの職人を求め、このことで中津の建築技術が向上したとの口伝があります。

中津の三大伽藍は中津市桜町の明蓮寺、三保の長久寺とこの正行寺と言われています。

本堂の規模は桁行五間・梁行七間  入母屋造、 向拝三間、 本瓦葺

19世紀初 建築  大分県文化財調査報告74輯 大分県の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書 昭和62年3月31日 大分県教育委員会発行