議論なく勧告を既成事実化していいのか

———少年審判事件本を出版して———

                           草薙厚子




五月に出版された『僕はパパを殺すことを決めた』(講談社)について、七月十二日に東京法務局から、「プライバシーを侵害し、少年法の趣旨に反する」として再発防止を求める勧告を私と講談社が受けた。二〇〇六年六月に奈良で起きた、一六歳の少年による自宅放火事件(継母と異母弟妹の三人が焼死)について、少年の供述調書を引用して動機を描き出したことが「少年法の趣旨に反する」と判断された。書籍の著者本人にこうした勧告がなされるのは極めて異例とのことである。

法治国家に生きる人間である以上、法務省からの勧告には真摯に耳を傾けるつもりだ。しかし、勧告のすべてを無批判に受けとめるわけにはいかない。指摘しておきたいのは、新聞報道にあった「販売中止」「増刷中止」といった文言は、勧告書にはまったくなかったことだ。勧告書にあった〈更なる被害を防止するための適切な措置〉という文言の意味について、法務省側が記者クラブに対してそのような説明を行ったのかもしれないが、私が実際に受けた勧告と新聞報道はだいぶ違う。七月十三日付読売新聞朝刊の「少年調書引用本 販売中止を 東京法務局が勧告」という見出しは、まるで当局のプロパガンダに乗っているかのような印象を受けた。「引用本」という表現も乱暴だし、東京法務局は販売中止を勧告したわけではない。表現行為にかかわるデリケートな問題について、同じ表現者であるはずの新聞記者がこのような記事を書くことに、私は驚きと失望を覚えた。

 少年法第22条で定められた審判非公開については、私の理解では審判そのものを非公開とすることだと思っているが、法務省は捜査資料も含めて審判内容に関わるものはすべて非公開と考えているようだ。しかし、これほど日本中を震撼させた事件については、動機に関わる部分はきちんと公開すべきだというのが私の意見である。重大な少年事件が発生すると、直後には洪水のような情報が氾濫するが、一ヵ月も経たないうちに収束し、やがてまったく報じられなくなってしまう。その理由は少年法の壁に遮られ、取材者が情報を得ることができなくなるからだ。

 マスコミ報道が過熱することには是非があると思うが、少なくとも成人事件の場合は、判決が確定するまで各社は取材を続ける。そうした中で、初期報道の誤りが訂正される機会もあるし、何より公判廷においてある程度事件の全貌が明らかになる。そこが少年事件と異なる。初期報道で喧伝された「普通の頭の良い子が突然、事件を起こした」という言葉だけが残されては、国民は不安に陥るばかりだ。私はこうした不安を解消する一つの方法が、「正しい情報」を公開し、検証することだと判断し、出版することを決めた。

 これまでの著作で当局の内部資料を参考にする場合は、今回のようにそのまま引用することはなかった。そうすれば抗議や勧告を受けることもなく、穏便に出版することができる。実際、法務省からは「なぜ地の文に溶け込ませて書けなかったのか」との質問があった。もちろん、調書の内容を地の文で書くこともできた。しかし、そうすることによって「これはどこまでが真実なのか」と疑う人が出てくる。この事件の真相を知るためには、少年がいかに追い詰められていたか、その心情を伝えることが不可欠である。そのためには、生の声を聞いてもらうのが最も良い方法だと判断した。

 出版後、様々な批判にさらされることは覚悟していた。そして実際に、奈良家裁からの抗議と東京法務局からの勧告を受けた。だが、「引用するのはダメで、地の文に溶け込ませればお咎めなし」という見解は、本質を見失った判断ではないか。

プライバシーの侵害と報道の意義の両者は、常に戦ってきた歴史がある。本書に社会的な意義があるかどうかは、読んでくださった皆さんに判断してもらうことだが、少なくとも私と講談社は意義があると思ったから出版した。それに対する法務省の勧告には、前述のように真摯に耳を傾けるが、すべてを受け入れることはできない。本書の販売を中止するかどうか、言論・表現の自由が認められたこの国においては、相当の議論があってしかるべきだ。それなのに、完全にお上の意に沿うような報道する新聞社があったことこそ、私は問題だと思う。「自分で自分の首を絞める」行為だということに気づいていないのだろう。読売新聞の記事を読んで、誤解して返本してきた本屋さんもあったと聞いた。議論を失った世の中が不幸であることは、言うまでもないことだ。

(出典:平成19年8月文藝家協會ニュースより)