吉田神社の神官で朝廷の神祇官だった吉田兼見の日記(『兼見卿記』)によりますと、
誠仁親王の引っ越しがおこなわれた翌日、彼が「二条新御所御番」に編入されて伺候したところ、18人余の公家がその新御所で親王に仕えていたとしています。
そしてほかの史料からも、正親町天皇の御所に対して誠仁親王の御所が「下御所」と呼ばれ、やはり「当番」と称して公家らが交代で公務をつとめていることがわかります。
このことが正親町天皇の意思とは別におこなわれていたことだとしたらどうでしょう。
朝廷は分断された形になり、次の天皇である誠仁親王が信長の手の内に落ちたとみていたのかもしれません。
(つづく)
※天皇については新刊書『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』で詳しく書いています。