クヌギ林に生えていた雑木を切り倒してできたスペースやクヌギの新芽(ひこばえ)が出ずに朽ちた切り株の横に、クヌギの苗を植えました。

 

このように20~30センチほどの深さの穴を掘って、




 

クヌギの苗木を植えます。



 

 

空いているスペースが林になるように間隔を考えながら。

 

 

 

 

クヌギ苗の植林は15年ほどかけて1000本くらいに達していて、今回は新たに34本を植えました。

元々は畑でしたが、耕作放棄して草が繁茂して周囲の畑の迷惑となるので、草抑えを兼ねて薪ストーブの燃料用として植林を始めました。

クヌギの苗が根付いて横枝が伸びて草に負けずに育つまで3~4年を要します。それまでは苗木の周りの草刈りをしたり、幹を太くするために余分な下枝を切り取ったりして手間がかかります。

植林しながら、ここが林になることを想像していたら、フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説『木を植えた男』の話を思い出しました。30年以上前にアニメ映画化されたり絵本となったりしたので御存知の方もおられるでしょう。

荒野に黙々と木を植え続けることで、命のなかった大地を再生させる話です。

 

 


この物語は、「私」の回想という形式をとる。

40年ほど前の1913年6月、フランスのプロヴァンス地方の荒れ果てた高地をあてもなく旅していた若い「私」は、この荒野で一人暮らしをしている寡黙な初老の男に出会う。近くには泉の枯れた廃墟があるだけで人里もないことから男の家に一晩泊めてもらうことになった「私」は、男がドングリを選別しているのに気付く。手伝おうと進言した「私」だったが、男は自分の仕事だからと言って断る。

翌日、男がこの地で何をしているのか気になった「私」は、もう1日ここに滞在したいと言うと、男は構わないという。はじめは散歩と称して男の後をついて歩いていた「私」だったが、男から「何もすることがないなら一緒に来ないか」と誘われて、男と連れ立って荒れた丘へ登る。そして男は、前日選別していたドングリを植える。

「私」は男に様々な質問をし、男はそれに答える。男の名前がエルゼアール・ブフィエであること、55歳であること、かつては他所で農場を営んでいたこと、一人息子と妻を亡くしたこと、特別にすることもないのでこの荒れた土地を蘇らせようと思い立ったことなど。ここが誰の土地かは知らないが、3年前から種子を植え始め、10万個植えたナラ[※ 5]の種子の多数は駄目だったが、1万本ほどは育つ見込みがあるという。ナラ以外の植樹も計画していると話すブフィエと「私」は、その翌日に別れた。


翌1914年から第一次世界大戦が始まり、従軍した「私」はブフィエを思い出すこともなかった。5年後に戦争が終結し、わずかな復員手当てを貰った「私」は、澄んだ空気を吸いたいという思いから、再び1913年に訪れた荒野へ足を運ぶ。ブフィエや彼の植樹活動のことを思い出しながら廃墟を過ぎ、かつての荒野に近づいた「私」は、荒野が何かに覆われているのに気付く。

ブフィエは変わらず木を植え続けていた。戦争のことなど全く気にせず木を植え続けていたというブフィエの言葉に、「私」は納得する。「私」とブフィエは連れ立って、10年前の1910年に植えられ、荒野を覆うように育ったナラの森を歩く。「私」の背丈より高く成長したナラの木々に、「私」は深い感銘を覚える。ほかにも「私」が従軍していた1915年に植えられたというシラカバの森は、「私」の肩のあたりまで成長していた。

1920年以降、「私」は年に1度は必ずブフィエを訪ねるようになる。ブフィエの計画は常に成功したわけではなく、1年がかりで植えたカエデが全滅するなど悲劇に見舞われることもあったが、ブフィエは挫けることなくひとり木を植え続ける。木々の復活はあまりにゆっくりとした変化だったため、周囲の人間はブフィエの活動に気付かず、ときどき訪れる猟師などは森の再生を「自然の悪戯」などと考えていた。また、森林保護官が「自然に復活した森」に驚き、そこに住むブフィエに「森を破壊しないように」と厳命するなどの珍事まで起こる。しかしそういったことも関係なく、ブフィエは木を植え続ける。


その後も第二次世界大戦など様々な危機があったが、「私」の友人である政府役人の理解と協力などもあって、森は大きな打撃を受けることはなかった。ブフィエはそれらも気にせず木を植え続け、いつしか森は広大な面積に成長していた。森が再生したことで、かつての廃墟にも水が戻り、新たな若い入植者も現れ、楽しく生活している。しかし彼らはブフィエの存在も、ひとりの男が森を再生したことも知らない。

ブフィエは1947年、バノンの養老院で安らかに息を引き取った。

 

 

谷川俊太郎作詞による合唱曲にもなっています。

 

 


木を植える
それはつぐなうこと
私たちが根こそぎにしたものを

木を植える
それは夢見ること
子どもたちのすこやかな明日を

木を植える
それは歌うこと
花と実りをもたらす風とともに

木を植えるそれは耳をすますこと
よみがえる自然の無言の教えに

木を植える
それは知恵それは力
生きとし生けるものをむすぶ


 

 

ずっと忘れていたのですが、突然この話を思い出して、「木を植える」ということのメタファー(暗喩)に気づきました。

雑草が繁茂して覆い尽くされた場所には昆虫はいるが、鳥や狸等の小動物はいないし、人間も踏み込めない原野となる。しかし、クヌギやコナラを植えて数年経つと、真夏は草いきれの灼熱地獄だったのが涼しい木陰の休息所となり、真冬は北風の吹き荒ぶ厳寒殺風景から木漏れ日の漏れる優しい陽だまりへと変わる。

杉やヒノキの針葉樹林には昆虫が住めないので鳥や狸などの小動物もやって来ないが、クヌギ・コナラ林には、ここを住処にする様々な昆虫やドングリを食べに様々な小動物が訪れて食物連鎖が復活する。

クヌギを植えることで、あらゆる生き物たちの楽園であるべき地球がつなぐ命の連鎖に関わることができるのです。

私たちはこの宇宙の中で「20億光年の孤独」を生きていますが、命のある全ての生き物の仲間になるために、実は、誰もが「木」を植えている。

 

生きるとは、すなわち「木」を植えること。
「木」を植えることで生きる喜びを感じて、
「木」を植えることで様々な命の存在との出会いがある。

「木」を植えることで今ここに生きる意味を理解する。
人は誰もがメタファー(暗喩)としての「木」を植えている。


この果てしない宇宙の旅の目的は、「宇宙の荒野」に「木」を植えることなのでしょう。