昨日、このブログで書いた毎日文化センターの講座「名作文学を読む」(講師:奥憲介先生)での、先生の言葉をもう一度、書きます。
トルストイの『アンア・カレニーナ』からの引用。
「幸福な家庭はみなよく似ているが、不幸な家庭は皆それぞれに違う」
そこから文学は失敗や挫折をだから描くんだとして、先生は「失敗こそ人間の生きる価値や美しさを描けるのではないか」と続けられました。
改めて書きますが、僕には至言でした。
たぶん、2年前、3年前の僕なら、そりゃそうだろうな、で通り過ぎた言葉。
でも、今の〈読み手ファースト感覚〉の有無、優先度の理解こそが、小説と詩の違いじゃないか。
ヘボな詩人は「書き手ファースト感覚」を振り回しすぎて、自滅している。
自己表現優先で、コップの中から出て来れないままなんだ、という気がしてなりません。
ヘボな僕も「書き手ファースト感覚」を脱したいと願いつつも、それに引きづられて小説を書いています。
まだ、詩の方が多少とも、〈読み手ファースト感覚〉が宿る瞬間がある気がします。
この講座、文学創作者には、ぜひ聴いてほしい授業でした。
この月1回、西梅田のセンターへ行く前に大丸へ寄って、このチーズケーキを買うことにしています。
焼きたてでなければ、平日なら、待ち時間がそうなくて買えますから。
シンプルで素朴な味が、飽きさせません。
さて、文学の話に戻ります。
当面、目標にしている永井荷風新人賞だけど、相変わらず、展開させなきゃいけないという強い強迫観念が依然として支配されてなかなか進みません。
その観念を捨てよう、捨てよう、と思ってもそれに抗えず、書けないまま時間だけが過ぎてゆきます。
もう、普段の僕の生きるテーマである(?)、学びと社会人感覚で書いていいんだ、作り物でない、今の感覚をエッセイ的に入れよう。
そう思っているんですがね。
どうせ落ちるのなら、それでいいのに、書けません。
実質の締切まで、現状の残り8日間で選択されるのは、以下の3案か。
⑴ このまま、展開脅迫(もう強迫ではありません。笑)に苦しみながら、書けないまま断念。
⑵ 展開脅迫に抗えず、無理やりその流れで完成。応募。
⑶ 展開させなくても、できる限り自由に書き応募。エッセイ描きと外枠感覚など、実験しながら、次に繋げる何かを得る。
実際、目指すべきのは、冷静に考えれば、⑶番の一択のはず。
なのに、「うまく書く目処が立たず書けない」と苦しみだけの日々を送る、結果的に⑴番を選んでいる。
いつものパターンだ。
うーん。
今日は午前中、仕事のはずだが、わからない。
