16年間、自分が育ててきた文学モード。
その前の、絵画・美術を入れると、自分の表現世界との格闘はたぶん、30年以上になる。
絵は、最近はじめた絵本教室以外ではほとんど描かなくなっているけれど、今でもすぐモードに入れる、どれも、貴重な財産になっている。
そう、自分の中に着実にある、デッサンモード、彫塑立体モード、絵本・アニメーションモード。
同じように、文学モードを作って、16年間。
その文学モードの中には、7年前、急に分岐した現代詩モード、3年前に意識して作った短歌モードがあるが、
肝心の、小説散文モードが16年も時間をかけてるのに、うまく育たない。
なんとか、それに最後の未分化を起こさせて、小説で独立させ、次に児童文学・エンタメ・純文学に分けることが、今の目標だ。
道はすごく険しく難しい。
僕自身が自分を、すぐ絶望視して、「才能がない」に逃げたくなる。
でも、諦めない。
鳥美山貴子さんの「黒紙の魔術師と白銀の龍」。刊行された中では、最新の講談社児童文学新人賞作品だ。
折り紙のファンタジー作品でもある。
だけど、謎置きと伏線回収の連動点が多くて、まるでミステリーを主人公と一緒に辿っている印象がある。
しかも普通の日常の、最近の、ネーム・マンガ理論によれば、コミュニティ紹介で多くの他のサブキャラクターと環境を丁寧に描写していることに気づかされる。
各章で、人物の情報紹介と環境描写に徹して、全部を語ろうとはしない。
その章内で、読み手の興味コントロールと、情報管理。でも、最終的な展開を忘れていない。
そうそう。
僕の場合、意識として展開がメインで、章内世界がサブになっているが、「黒紙の」は章内世界の描写がサブでなくメインになっている。
この意識差が、実は非常に大きいのか。
「神は細部に宿る」ならぬ「成功の神は章内に宿る」のか。
今の僕には難しい。
頭の中に、全体展開を意識しながら、章内をメインにするなんて。
それこそ、香盤表が要るな。
また、テーマを触媒するし、魔法象徴でありながら全編を貫く共通アイテムとして折紙がある。
ああ、こうした気づきは、頭で理解したって、すぐ消えちゃう。
体で、実際に創作して、ストップ&ゴーを繰り返し、ストップの壁を乗り越えゴーして、またストップしてみないと、自分のものにならない。
このことは、バドミントンでも美術でも納得済みのはず。
そして、それがWS形式の実体験講習だったから、みんなで受けたきっかけがあったから最初にできただけ。
一人ではできなかった。
それが「学び力」だよね。
一人一人は無力に近い微力。
でもチーム力なら困難も乗り越えられる。
そのWS形式、美術では当たり前の実技のワークショップのこと。
例えば、20年近く前、板橋区立美術館の絵本WS講座をわざわざ神戸から泊まりがけで、何泊もして行った過去の自分のエネルギーを褒めてやりたい。
それが15年間の文学モードを創ったのだから。
諦めない。
絶対。