放送大学の学生のみなさんには、ご承知の通り、今は7/25までの単位修得試験の時期に当たっています。
昔は、それぞれ最寄りの学習センターまで出掛けての受験でしたが、
今は、自宅でのWEB受験がどの科目もOKになって、だいぶ楽になりました。(一部、例外あり)
自宅受験ということは、持ち込み可なわけで、一夜漬けも可能になって合格しやすくなった和kでもあります。(おいおい)
といっても、元来、放送大学は通常の通信制大学よりも合格基準が緩く通りやすかったように思います。
今は、2・3年前だかに、この1発勝負の単位修得試験だけでなく、受験資格を得るためのレポート点も加味するように改正されたので、
ますます単位は取りやすくなったと思っております。
さて、僕が今期、受講している2つの科目のうち、1つ目の『樋口一葉の世界(’23)』は、
明治の女流作家で紙幣にもなっている樋口一葉の、人生と作品を絡ませて読み解く講義です。
例の如く、講師の島内裕子教授のテキストの、格調高い名文を読んでいくと、鮮やかに一葉の姿が浮かび上がります。
(僕は、ほとんど、放送授業を視聴せず、テキストだけで勉強する非正規の邪道勉強です。
その方が時間短縮できるし、頭に残るんです。(こらこら)
まあ、趣味で勉強しているので。
ネットでも、こういう形の勉強法の人は稀ではないみたいです。)
つらつらと、ここ2・3日、テキストを改めて、読み込んでいるのですが、
明治25年(1992)ごろの、一葉の小説への取り組みへの苦心と成長ぶりが、100年以上後の自分の小説への取り組みに被ってきます。
そんな、天下の樋口一葉に対して、失礼な、と思いますが。
彼女は、結局、満24歳の若さで、病没しますが、事実上は、貧乏な一家の大黒柱として無理をした過労死のようなものです。
ですから、彼女に比べれば、自分の何と恵まれた環境なのか、と一層の奮起を覚えずにはいられません。
こんな何不自由のない生活の中で、小説が書けないなんて、泣き言は許されないな、と思うのです。
また、一葉の小説を書く文学活動はわずか4年です。
健康な僕は、あと、何年かかろうと、何も成功しなくても、ほんと、頑張らないと一葉に申し訳がないです。
テキストを読みながら、そんなことを心に刻んでいる生徒は、たぶん、僕ぐらいかな、と思いつつ、勉強しています。
今日は、午後から、詩の集まりが大阪であるので、11時くらいには、WEB受験する予定です。