『現代詩手帖』11月号の「対談:合評 世界と向き合うそれぞれの方法」を熟読しました。
選者二人、小池昌代さんと岡本啓さんの考え方、感じ方を自分のものにすべく、読み込みます。
気になった箇所は以下の通り。
「詩を書くっていうのはどこかで成熟を拒んで、常に言葉との新しい関係を見つけて行かなくちゃいけない」(小池)
「どんなに難解で抽象的な、めちゃくちゃな訳のわからない詩でも、読者は、自分自身の現実や経験と、なにかこすれ合うものがあると読める」(岡本)
「鈴木さんの詩からは人間を包むものの大きさを常に感じます。自然と同化するようなベクトルがありながら、同時にそれを理論的に向き合おうとする。その矛盾する態度が面白いです。」(岡本)
「湖星志帆子さんは、今回はじめて採った方で、世界の空気感のようなものを感受する心が、すごく繊細です。」(小池)
「詩をもって世界に向き合うつもりがあるのか、詩によって生涯と付き合う意志、それをぼくはなによりも大事に思っています。それがあると語の示す身振りやそぶりという次元で、穏やかな作品であっても、ある厳しさが垣間みえる。作品に倫理性や切実さがあると、自己の全存在を賭けて言葉を使っているというのがわかりやすいんですが、(略)それぞれの方法がある。」(岡本)
ここ半年、お二人の選んだ詩を改めて読み直しました。
僕には、一見、バラバラで、取り止めもない言葉の羅列に陥った散文詩にしか見えない作品が多いです。
正直、どこがいいのか、わからない。
個々のイメージの凝縮力に欠ける気がする。
小説も書く自分には、
これだけ長く書くのなら、小説を書けよ。
まとめる力がないだけでは? と思う点も多いです。
『ユリイカ』で選ばれてる詩群とは、凝縮力のレベルが違い過ぎます。
僕の中で、一つテーマやモチーフを統一して展開していく詩法があって、
そうした求心する力、凝縮する力とは、真逆の遠心力や〈飛躍〉がそこここにあります。
疑問に思うことも多々あるんですが、
それは、僕が世界の一部しか認識しないからでしょうか。
〈飛躍〉を恐れているからでしょうか。
比喩やアナロジー展開は、共通性を主体とするもので、
それは詩にとって、欠くべからざるものだ、という認識を変えるつもりはありませんが、
自分が単なるミニマリストや小器用まとめに堕ちていた可能性も、無きにしも非ずかなと思いました。
自分としては世界と対峙する覚悟も、世界の残酷さ、不完全さにも自覚はありますので、
もう少し視野を広げつつも目を凝らして、小器用にまとめた詩をやめようと思いました。
〈飛躍〉と破綻を恐れない詩を、書いて投稿してみます。
世界の残酷さから無意識に目を逸らして、非センシンティブな感性にならなければ、
日常生活は送れませんでしたからね。
そこも解放して、一段階上から観るべきかな、とも思いました。