散文の児童文学と小説は、壁にぶち当たって、なかなか先が見えないのに、
詩の方は、相変わらず、こうしたらいいのかな、と進むべき道が見える。
⑴ 誰もが分かる表記から攻める
辻征夫の、俳諧詩集のように、古典語や形式を融合させるような、表記からして違う形から、オリジナリティを、探るか。
野田喜和夫や松浦寿輝さんなどのように、逆揃えとかにするか。
⑵ 読む人をハッとさせる見方があること。
まど・みちお風に、童心に帰るか。
谷川俊太郎風に、哲学ぶるか。
⑶ 設定から来る物語性や世界観で魅せる。
マーサ・ナカムラ風の民話世界観とか。
で、語弊を恐れずに、言ってしまえば、
詩におけるオリジナリティとは、
結局、⑴の表記の仕方につきるのではないかな。
そこをゴール設定にして、⑵と⑶をどう組み合わせるか。
僕は、現代詩も、近代詩風の叙情詩も、童謡詩も書けるようになった。
それらの書き分けも、ある意味で、表記と内容のリンクしたものである。
つまり、表記に、内容が伴えばいい。
けど、現状、気持ちよく、コトバを並べれば、それなりに詩の形になる。
そこが落とし穴。
「詩は気持ちを述べるもの」
ある意味正しくて、でも、その人だけのプライヴェートな閉ざされた気持ちに留まり続けている限り、
自己複製・自己模倣に過ぎない。
詩が不満や愚痴の吐露にしかなっていない。書いて気持ちのいいことだけ書き連ねている。100%自分のためのものなだけ。
近代詩風なら、それでいいかもしれないが、
もっと前衛的な、時代と共にある現代詩的には、ちょっと違う。
僕は現代詩が書きたい。
自分だけの表現を確立したい。
その欲求は、僕の根源的な本能に近い欲求。
だからこそ、「気持ちを述べること」からの、その思い込みからの離脱が必要なんだ。
もちろん、奇を衒い過ぎても、内容が見えなくなるから、そこのバランス感覚が必要か。
(賢治の「永訣の朝」における、カタカナを使う。ローマ字表記とかは、内容と表記が自然と結びついている。)
来年度は、ただ詩を書くのではなくて、表記を、探すことから始めルべきだ。
(*小説も、読み手にとってどうなのか、の要素を入れることが最も不足しているのでは?と思っている。
なら、どちらも同じ欠陥を抱えている。
青い鳥は、うちにいました、ということかな。)