子どもの権利侵害と不利益 20240601 | アテナの会代表 菱斐詔子のブログ

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みなさん、こんにちは。

 

 

 

前回は、号外で余計な記事を書いてしまいました。すみません。
 

 

 

さて、では今回のテーマです。今回は、前々回の民法改正に少し関連して、同じく子ども関係の人権問題についてです。

 

 

 

前々回、共同親権については、微妙でやる気のないコメントをしてしまいました。

 

今回、改めて、もし過去の自分自身の生い立ちの中で、共同親権だったらどうだっただろうか、というあたりについて記載しようと思いますが、まずは(私にとって)最悪だっただろうなと思います。

 

 

 

それは、もし本当に子どもの立場に立って考えれば、分かるはずなのです。

 

普通に親2人が居て、円満で無事に育ちを終え大人になる、これをAとすれば、両親が離婚して・・・離婚するからには、問題の1つも無いわけではないでしょう。後者をBとします。そして、年月が過ぎるとどうなりますか?子どもが親の側の負担をしていく日が来ます。

 

Aの場合、多くは、元気な側の親(夫妻の一方)が扶養及び介護の第一人者の役割を果たし、終に残った独り身の親についてのそれらを、子が負うようになります。

 

Bでは、両方の親(隔地にある2名の親)を子が負うようになります。ある程度、それを仕方が無いとしても。婚姻が継続しがたくなる原因を作った側の親については特に、どうしても尾ひれ葉ひれのごとく、その後も引き続きマイナスを終生纏います。そして、その中の”たけだけしい盗人”も、今回の法規定により何らの遜色も無い、正式な権利が得られたという訳です。

 

鬼に金棒ですわ!

 

 

「いや、不倫蒸発配偶者は除外できる」

なんて言う人が居るかもしれませんが、そうはいきませんよ。

 

悪い奴は、特段に自分を守り、敵を陥れようとします。だから、私の親の場合も、当時争っていたのは『直接的親権』では無かったのだけれど、”それに類する何か(不特定利権)”を争うつもりが相手方に充分あり、そのために逃げた側は行方をくらまして、自分たちの側の状況を隠すという結果になったわけです。

 

知らされた電話番号に私が電話をすると男が出て、私からだと分かると黙って母に代わる。

「今、出て来た男の人は誰?」

と母に聞くと、

「他には誰も居ないよ」

ということになります。当時はまだ、固定電話の時代でした。今は、その安全装置も働かないでしょう。

 

 

 

普通に考えてフェアな取引が無理ですよねということなのです。子どもの数も減ってきている時代にあっては、子どもたった1人で、その手練手管に立ち向かうということになります。また兄弟その他の身内というのが居ても、ズルい人が得をする、たとえば長男・長女という続柄を引っ張り出して責任を押し付ける等、そういうスキームになっています。弱者保護をうそぶいた制度になったのです。

 

ろくでなしが悪いとは言っても、結果的にそのろくでなしに加担することになるのです。

 

 

 

世の中では、家族関係に限らず、こうした後ろ暗い性質と人望を得られない見せかけの傲慢と欺瞞いう不当な権力行使によって、欲望を展開する者があり、そのような者によると社会集団は衰微と滅亡へのカウントダウンに入っていくことになります。

 

為政者の知恵が弱いと尚更です。

 

 

 

癌細胞のような悪がそこにあれば、問題は消えません。それに尽きます。例えば、今回の例では”親権”という言い掛かりのようなトリックでもって、悪の難を逃れてみたり、悪の難を被ってみたりするようになります。

 

でも、その本質は、父母との関係性の良し・悪しです。親権という制度はそこに紐づく間接的な問題なのです。

 

間接事項のみを重んじれば、それは木を見て山を見ない宣言に似ています。主物は従物の処分に従え、となります。

 

 

 

それにしても、菱斐は、案外、いろいろな制度は私の行く後で出来上がってきている傾向もあり、イマイチお得感の少ない立場で生きて来ましたが、そんな中でも、共同親権でなくて本当に良かったと、つくづく思います。

 

 

 

「この悪人、やっていること、どうなの?」

という世間の目が、少なくとも悪人の素性を、見つけやすくなります。

 

生まれて来る前の冥界で、まず子が母親を選ぶ段で、母と菱斐では【否認】の関係だったと記憶しています。母以外の身辺調査の結果、結果的に母子となる許可が下りたという経緯を記憶しています。そういう親子関係も、現実にありますから。

 

 

 

「盗人たけだけしい」、とは、菱斐の生い立ちを読めば、すごく分かると思います。結婚だ親子だと言って、私腹を肥やす活動で人を蹂躙していく人間がその漁場には複数あります。こうした問題は、そういう悪人あってこその問題です。

 

逆に、登場人物に、普通の良き人生を歩く”善人”しか出てこない物語であれば、普通に共同親権であってもセーフなのでしょう。

 

 

 

たとえば、私と子どもの父とでは、単独親権であっても全く問題は無く、離婚調停でも、『面会交流は1ケ月に31日までとする』と母親側が提示したものの、「1ケ月に32日ある月は無い」という理由で、調停調書に書かれなかったんですよビックリマーク

 

分かりますね、要するに法は、次元が低い人のほうしか見ていません。

 

 

 

私どもの話しですが、そうした環境で育った子どもも、親権を理由に、父親を差別することは、まず無いと思います。むしろ、子は父親に甘いのでは無いかと、私が訝しく思う程度です。クラスメイトが自分の父親について、「くたばれ父親」というようなことを言ったという理由で、その子と縁を切ろうと真面目に考えるような、「縁を切る理由って、それも、いきなりちょっと行き過ぎなんじゃないの?」と私が言った程度の、父親愛好家です。

 

それは、両親の仲が殊更悪いわけではなく、父親側も過度な要求・暴利をむさぼる行為も向けて来なかったため、実現した状況だろうと思っています。要するに、権利(収益)という基準ではなくて、そう、欲しいものを奪う(収益)よりもむしろ、身を挺するごとく奉仕する(支出)のが、本当の親権者だと思います。そして実際、本当の親権者のあり方を体現するために、法律上の権利が明文化されてあることは、実際問題必須ではありません。

 

だから、新法に舞い踊る男性を見れば、なんだかどこかで、眉唾に感じてしまわざるを得ないのです。もちろん、女性というものの全てが、”落ち度無く””OK”、とは、私は思っていません。女性についても、男性の場合と同じことです。

 

本当の親権者はどんな人なのか、それは法が表せないことなのですね。

 

 

 

しかし、次元の低い悪人にさえも、照準が定められていません。

 

ここで一句・・・

『結婚も収益を漁る悪人の漁場である』

 

 

 

むしろ、この現実を、反省して欲しいものです。こうした争いは、結局のところ、本当の意味で人と人との繋がりを、ちゃんと出来ない人が一人勝ちする、悪人の悪人による悪人のための仕組み、になっているというだけです。

 

むしろ、ちゃんとやれる人達は別に法を引っ張り出して使うことは無い。円満な家族は毎晩・毎朝、六法全書を朗読します、なんて聞いたことはありません。紛争を引き起こさないための心得や工夫の極意は、法に書かれてありません。

 

関係者の人格や主体性や、そうしたことが生きるとき、法というやり様によっては一種の暴力みたいなことをもくろむ必要性はありませんし、問題にも上がって来ません。言ってみれば真に人間らしい世界にはふさわしくないのです。

 

パワハラ男もそうです。暴力なしに”通用しない”ヤツなんです。誰が悲しくても、それが本当です。

 

 

 

では、次に続くテーマで、そうした問題の付近を掘り下げて行こうと思います。次週のスレッドで次のテーマを記載します。

 

 

 

『養育者等による性加害と未成年後見人(未成年後見監督人)』