「・・・なっ、長っ、ながいねぇ・・・」
投稿する前の添削をお願いした おっと(夫)曰く。
「りーちんの書き物は長くなりがちなのはわかってるけどね、今回はぁ、すっ、すごいねぇ・・・。」
猛暑に輪をかけて私も熱くなっちゃった!
でもどうしても読んで欲しいの。応援してほしいから。皆さまどうぞよろしくお願いします♥
8月11日(月) 鎌倉、岩手県陸前高田市の戸羽 太市長さんをお招きして
『陸前高田市・戸羽市長と語ろう!聞いてみよう!被災地のこと』
シェアハート鎌倉主催
私はちょこっとお手伝い&参加させていただきました。
鎌倉市立御成小学校体育館午後2時~
なんだか武家屋敷みたいですが、鎌倉市立御成小学校正門です。
鎌倉御用邸跡で、当時の御成門。架けられている校名の看板は高浜虚子筆によるものだそうです。
(旧講堂)
会場となった体育館には、
陸前高田市の被災前と被災後の写真展示、東北物産展が同時開催されました。
無残に変貌し、多くの人が亡くなった町の写真を目にするのは、やはり心痛みますが、
その中でも、皆さんもご存知の国の名勝にも指定されていた「高田松原」の奇跡の一本松の写真を、
お母さんに説明して貰っている小学生の男の子がいました。
その隣の写真の震災前と震災後を見比べ、一つだけ残った「セルフ」という看板を指さし、
「じゃあこれは、奇跡の看板だね。」と会話している親子を耳にし、
重い面持ちで写真を眺めながらも、私は復興の小さな光の声を聞いたような気がしました。
そして、男の子の指さす写真に接近して、ちゃんと勇気を出して眺めてみたりしました。
***
2時になり、講演開始です。
鎌倉市長さんもご挨拶されまして、
その後、戸羽市長さんのたいへん貴重なお話をいただきました。
単に貴重なお話という言葉だけでは私の胸に収まりきれず、
3.11から3年半が過ぎようとしている今、新たな気持ちで多くの人に耳を傾けて欲しい、
その気持ちが自分の中であまりにも強かったので、
市長さんからいただいたとても大切なメッセージとして、
この日の模様をお伝えしたいと思います。
以下、とっても 長くなりますが、お付き合い下さいましたら嬉しいです♥。
戸羽市長さんは、
2011年3月11日の東日本大震災が起きるほんの一ヶ月ほど前に、
陸前高田市の市長に就任されました。
・・・懸命に陣頭指揮にあたり、市民を導く姿に多方面から注目が集まる。
冷静沈着に国への提言を続け、ゆるぎない信念をもって尽力する姿勢は「真のリーダー」との呼び声も高い。
現在も仮役所にて激務をこなし、復興への困難な道を拓き続けている。・・・
戸羽市長さんの著書【被災地の本当の話をしよう】
陸前高田市長が綴るあの日とこれから(ワニブックス出版)
戸羽市長を紹介した文の抜粋。
選挙運動の慌ただしい日々、
そして市長に就任されてからは、予算編成や挨拶回りなどの忙しい日々が続きました。
就任して約一ヶ月が過ぎた3月11日という日は、ようやく少し落ち着いてきた時だったそうです。
奥様と小学生の二人の息子さんを、ほったらかしにしていた日々を感じ、
「今日は久しぶりに早く家に帰れそうだから、みんなで焼き肉でも食べに行かないか。」
と、奥様に電話したそうです。
その6分後、東日本大震災が起こり、
ご自宅にひとりいた奥様との、それが最後の会話となられました。
一瞬にして家族のふるさとである街が壊滅してしまった、岩手県最大の被災地陸前高田市、
その市長であるという立場、
家を流され妻が行方不明という被災者になってしまった自分。
それをどう自分で受け入れるか、
行動すべきか、
今も続く心の格闘。
夫として、父親として、一人の人間として・・・。
お話になるのはたいへん辛い事と察しましたが、
とても誠実にありのままの気持ちを語って下さいました。
震災当初のとても痛ましい内容でもありましたが、
私の隣には、幼い女の子を抱いたお母さんがいらっしゃいましたし、
小・中学生もいた事を考慮してか、
終始、にこやかな戸羽市長さんの暖かみのある声に支えられ、
穏やかな気持ちで当時の様子に聞き入る事ができました。
やはり、ふとお話が途切れますね。午後の2時46分のちょっと前の事です。
市長さんの体がソワソワッと揺れて、その目が腕時計の針を探します。
袖にいらした主催者の梅津加代子さんがすかさず反応して、皆さんで黙祷しましょうとおっしゃられ、
会場全員で黙祷しました。この日11日は、震災後3年と5ヶ月目の月命日の日です。
午後2時を回ると時折、体育館の窓から吹いてくる、鎌倉海岸からの海風が流れてきて、
心も体温も熱くなった会場の空気を、労ってくれているように感じました。
***
陸前高田市は、リアス式海岸、海から2キロメートルほどが海抜ゼロの町だそうです。
このリアス式海岸という地形が、壊滅的な津波の被害を受けたそうです。
この30年内に98%大きな地震が起こると予測され、訓練や準備はもちろんされていました。
「想定外でした。」というと、上の方からお叱りを受けるそうですが、
この時、気象庁からの0.5~1メートルの津波警報にもかかわらず、6メートルの防波堤を越え、
15メートル以上の津波が来ようとは誰が想像できたことでしょうか。
津波がいろいろなものを巻き込みながら、
真っ黒になって油のようにどろどろとして町や人を飲み込んでゆく戦慄の光景・・・
それからの被災地の現実・・・。
(戸羽市長さんの書籍「被災地の本当の話をしよう」に語られていますので、
ここでは割愛させていただきます。)
ちょっと場所が隣の地域でのインタビューの中で、
「こちらでは全員が避難して、全員無事でした。」
という朗報があり、「なぜなら日頃の心がけが良かったからです。」
と記者の質問に答えられた言葉、
その何気ない一言に、1766名(内行方不明者210人)もの命が失われた陸前高田市の、
その他の被災地のどれほど多くの方が胸を痛めたことでしょう。
うっかり言われたその言葉の真意が、人を傷付けるつもりのものではないとは解っていても。
市長さんの一言、「私は悔しかった・・・悔しくて悔しくてたまらないんです。」
それは本当に、本当に素直な気持ちだと思います。
市役所内部は壊滅、職員111名が亡くなり、
波の上をびょんびょん走り回れるくらい若く元気で有望な消防団員たちの多くが、
お年寄りや体の不自由な人、市民を助けに行きそのまま戻ってこなかった事。
後日111人全員の遺族の家々を回ったそうですが、
職員を全員守れなかった市長の責任、納得できないという遺族の気持ち。
悲しみと無念さと、すべての感情を受けとめなければならない立場であられたのだと思います。
そんな中でも陸前高田のトップとして市を再生する、復興への厳しい道のりがいやおうなくスタート。
「自分が陣頭指揮にあたらなければなりません。」
その責任と重圧はどんなものなのか。
復興計画において、某◯◯夫人の言葉、
「家が流されても仕方ないけど、命が助かればいいでしょう・・・」
人生の中で二度も家ごと流されていいはずない、そんなことたまったもんじゃない。
ここに住んでないから言える、もちろん命は大切、でもそれは私にとって騒音でしかない言葉・・・云々。
計り知れない苦悩と過酷な日々であった事、
現在もその最中におられる事は誰もが想像する事ができますね。
震災からしばらくは、メディアに出ることを拒んできたそうです。
やることが山積みです。
でも、陸前高田の厳しい現状を理解してもらい、忘れないでもらえるのであれば、
私に話せないことは何もないのだ、と思うようになったそうです。
その中には、市長さんが本来なら自分の心の中に留めておきたい事もあったと思います。
それを、きちんとご自身の中で整理され、私達に口を開いて下さいました。
だからこそ、私も含め、この日の参加者全員が強く胸を打たれた事と思います。
***
「私は、息子ふたり連れて、いっそのことどこかに逃げてしまおうかとも思いました。」
「母親が行方不明で、
一番お母さんが恋しい、小学校4年生と6年生の二人の息子を放っておいて、
市民の為にというのもかっこいいですが、
人間としてはたしてどうなのか・・・今でも・・・思います・・・。」
この言葉を言われた時だけは、市長さんの表情から笑顔がスーッと消えました。
穏やかに語る瞳の奥にある悲しみと悔しさが、どれほどのものかを感じずにはいられませんでした。
「日中は陸前高田市を再生させる為に働き、
息子たちのいないところで、毎夜ひとりになってから、大泣きするんです。
そして泣いた後、ご飯食べるんですね。そんな自分がもういやでいやで・・・」
それは、慟哭の後にくる例えようのない寂寥を味わった人の、真実の言葉だと思いました。
私は、生きるとは、生かされているという事は、こういうことなんだと思うのです。
どんなに悲しい辛いことがあっても、最後にはお腹がグーグー鳴ってお腹がすくんですね。
どんなに眠れない夜が続いても、
限界が来るとちゃんと眠りに入るように生き物としての人間が出来ている。
無慈悲のようですが、それが生きている、生かされているという事なんだと思います。
以前、何かのエッセイで読んだのですが、
最愛の娘を亡くし傷心の中にいる人が、
ある時、仕事かなにかで移動中に、注文した食べ物がなかなか来なくて、店員に怒ったそうです。
その後に愕然とするわけです。
娘が亡くなったのに、空腹を満たすために怒っている自分の有様に。
「妻は、水が苦手でした。
全く泳げないし、髪を洗う時も、顔に水がかかるのがいやみたいで・・・。
その妻が(津波で)亡くなる時に何を思っただろうと、考えるんです。
(たぶん、水の恐ろしさより、)最後はふたりの息子のことを思って亡くなっていったと思います。」
市長さんのお人柄と、
二人の息子さんと友達のように仲が良かった奥様がどんな方だったかは、容易く想像できます。
どんなに愛された方でも、
どんなに心がけの良い日々を過ごされていたとしても、
人がどのように死を迎えるかは、誰にもわからないのが現実ですね。
私は、瀬戸内寂聴さんのお話をふと思い出しました。
寂聴さんのお母様は、火事で亡くなられたそうです。
あれほど人の為に尽くして生きていた人が、
なぜそんな死に方をしなければならないのか、と苦悩したそうです。
いろいろと調べられて、体が焼ける前に煙で息が出来なくなって亡くなったらしいとわかったそうですが。
誰も自分の死に方を選ぶことは出来ません。
その方がどんな亡くなり方をしたかではなくて、
その方がどんな生き方をし人生を送られていたかが大切なのであって、
その事に想いを馳せる、寂聴さんはそうおっしゃっていました。
「亡くなった多くの方は、3月11日の震災の日が、
自分の命日になろうとは、誰一人思ってなかったと思います。」
「私は、仕事でとこかに出かけるといつものように帰りがけ、
妻に連絡を入れようとするんです。
その時に、あっ、連絡をしなくていいんだ・・・と。
その事がとても辛い。耐えられないですよ!・・・大人だって・・・。」
いつも家族4人で埋まる車の座席、レストランの椅子、その中の一席が空いている、
大人だって耐えられないその空白を、ふたりの息子さんも味わって必死に耐えているのです。
中学生や高校生、もちろん私達大人に向けての言葉だと思います。
「若い時は、うるせえなぁ、ばばあっなんて母親のことを思ったりしてました(笑)。
だけれど、元気でいられることが、それがどんなに幸せなことか、
本当に幸せなんだと、 ・・・その事を思って下さい。」
この生きているという意味、元気であるという事の意味、幸せなことの意味、
この講演で市長さんが私達に一番伝えたかった事のように思いました。
「私は、だからもう少し生かせて貰おうと思います。
私にはふたつのミッションがありますから。
一つは、息子ふたりを高校卒業するまで守る事。
もう一つは、陸前高田市を復興させること。」
私は、胸が詰まりました。
空の上の奥様と早くお会いしたいのではと思います。
市長さん自身も、あと50㎝津波が高かったら助からなかった壮絶な状況の中、
九死に一生を得た方です。
計り知れない重責と癒えることのない悲しみを持っている方に対しおこがましいですが、
でもどうぞ長生きしていただきたい。
ご自身のミッションの達成だけに力尽きないでほしいと。
完全復興した陸前高田、ご家族のふるさとの町でゆっくり休んで長生きして、町の幸を見届けて欲しいと、
心の中で願わずにはいられませんでした。
「私は、やりたいことがあっても、それが自分に出来ないことなら、出来ないと思わないで
人に頼めばいいと思えるようになりました。
結果は同じですから。多くの人に助けて貰い、応援して貰いました。
だから、皆さんに言いたい。自分の仲間をたくさん増やして下さい!」
前半のお話が終わりました。
***
後半は、質疑応答です。
市長さんは、体験された本当に辛い気持ちを、穏やかな口調で話して下さいました。
そして、もちろんご自身だけが辛い経験をしたわけでなく、
もっともっと辛く悲しい別れをした方はたくさんいらっしゃる事、
ましてや地震だけでなく原発事故に苦しむ福島の人達は・・・と。
福島を筆頭に被災地全体を労る、
多くの傷ついた人の痛みにそっと手を差し伸べるようなあたたかい言葉には、感無量でした。
そんな温かい言葉の重みに、思わず喉を詰まらせながら、質問される方もいらっしゃいました。
いろんな質問がありましたが、
「陸前高田の美味しい食べ物はなんですか。」
という学生さんの質問に、満面の笑顔で答えて下さるシーンもありました。
そして最後に、
「皆さんが思うほど、そんな暗くないですから!陸前高田のみんな、元気に働いてます。」
と投げて下さった温かく凜とした笑顔、そして眼差しのなんて温かな方でしょう。
この笑顔の奥にある悲しみも苦しみも会場の誰もが感じたことと思います。
私などは逆に元気をいただいてしまいました。
応援したい、
些細な力にしかならなくても、
私は心から思いました。
私に出来る事をして、私に出来ないことは、仲間をたくさん作って、仲間にお願いしよう。
結果は同じなのだから。
そう気持ちを新たにしました。
笑顔を絶やない穏やかな物腰、醸し出される優しさ、謙虚さ、誠実さ、
それは、自分の置かれた境遇や立場をすべて受け入れた人から
想像を絶する困難や悲しみを経験し、立ち上がった人から出るオーラなのかもしれません。
熱い心と温かな血が流れている方です。
❤❤
お忙しい復興事業の最中、鎌倉に来て下さいました。
そして、未だに二人の息子さんは緊急警報がなるとパニックを起こすそうです。
「私が留守していれば、上のお兄ちゃんが料理したりするようになりましたから、いいんです。」
と市長さんは笑っておっしゃって下さいましたが、
二人の息子さんが、お父様が他府県に出かける度、感じる不安な気持ちがどれほどのものかと思います。
また息子さんを残して岩手を離れるお父さんの気持ちも穏やかではないはずです。
留守番している息子さん達の不安な気持ちを胸に、この日のお話をいただいたと感じます。
二人の息子さんにも感謝の気持ちが湧いてなりません。
陸前高田市、被災地全体の復興と同時に、
戸羽市長さんのご活躍とご健康、、二人の息子さんのご成長を心より祈りたいと思います。
そして、いつも自分が出来る事が何か探す気持ちを持ち続けて、応援してゆきたいと思います。
またこの度の企画、準備をして下さいました
シェアハート鎌倉・代表梅津加代子さん皆さんにも
お礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
また、当日のお話を思い返しながら、私感を交え書かせていただきましたので、
実際のお話と異なる私の解釈であったり、表現の誇張や誤りがあるかもしれません。
その点については、どうぞご指摘、叱咤下さると有り難いです。
また市長さんのお気持ちに対し失礼がありましたら、心よりお詫び申し上げます。
この長い文を読んで下さった皆さま、ありがとうございました。
復興を応援する気持ちがもっともっと伝染していったらいいなと、
一生懸命願いながら、ちょっとアツくなって綴りました。
戸羽市長さんを囲んで、主催者&お手伝いの皆さんと 三陸ポーズ (^^)/
(以下はノートに書き留めたこと:)
先人の教訓: 「津波てんでんこ!」
津波がくると思ったら
親や兄弟、親戚、友達を探したり、気にかけたり家に戻ったりせず、
とにかくてんでんばらばら、一刻も早く高台へ逃げ自分の命を守りなさいという意味だそうです。
てんでんばらばらになっても高台で会えればいいわけです。
鎌倉も海に面した町です。
戸羽市長さんは、前もって、家族で逃げる場所を決めておく事です!とおっしゃっていました。
陸前高田の10年復興計画についてのお話:
市に海抜10メートルの高台を作ってから(8年間かけてハード面の部分を完成)
市街地作りを始めるそうです。
市長さんは、以前米国に留学した際,、とても印象深かった事を述べられていました。
向こうでは身体障害者の方が多く、町でよく見かけたそうです。
特別視することもなく、健常者と普通に生活している、障害者が外出できる町作りになっていたそうです。
陸前高田を世界一住みやすい美しい町、日本で一番最初の障害者も高齢者も住める町に再生したい、
そうゆるがない表情でおっしゃっていました。
そして、支援というより応援をして下さいとも。
近頃メディアで取り上げられる機会が少なくなりましたが、復興が進んでいるからではないんですと。
皆さんから陸前高田(東日本大震災)が忘れられるのが一番辛いとおっしゃっていました。
みなさんが気にかけてくれる、応援してくれるから、復興へのモチベーションも上がるのですと。
ボランティアのニーズについて:
現時点での陸前高田市のニーズについてのお話がありました。
現在、10校の小学校の内、8校の校庭に仮設住宅が建っているそうです。
仮設住宅から新しい住まいへ移って行かれる方がいます。
空き部屋ができると、少しでも子供達に校庭を開放する為、
仮設住宅内でお引っ越しをしてまとまっていただくようにお願いしているそうです。
(校庭で走り回れない子供達は、校舎の廊下を走ってもいいことになっているそうです。)
その際の引っ越し費用までは市が負担できない状態だそうです。
引っ越しをお手伝い下さる男性ボランティアをお願いしたいとのことです。
応援あれこれ!!!:
Facebook で情報収集&{いいね}で応援
市長や副市長が日々の高田の様子について情報を発信しており、
復興状況や市の取り組みなどがわかる。
http://www.facebook.com/RikuzentakataCity
陸前高田市HPより情報収集
陸前高田市観光物産教会
http://www.3riku.jp/kanko/index.html
陸前高田市を訪問して応援
霊泉玉の湯 www.geocities.jp/smiso1215/TAMANOYU/
黒崎温泉 www.kurosaki-onsen.com/index.php
津波の到達ラインに桜を植樹で応援
認定特定非営利活動法人桜ライン311 www.sakura-line311.org/
書籍の中より:
「誰の目から見ても
復興したという日がやってきたら、
私はまた高台に立って、
町を眺めることでしょう。
空の上にいる妻と一緒に。
陸前高田の町はお前が暮らしていた時より住みやすく見えるか?
僕がやってきたことは正しかったか?
あの日、助けてやれなくて本当にごめんな。
怖かっただろう。
これで勘弁してくれるか・・・。
その日がやってくるまで、
前だけを見つめて、
市民の方たちと手に手を取り合って、復興に全力を注いでいきます。」 (戸羽 太著)
Atelier la Primavera H.P. http://www.atelier-la-primavera.com
〈Volunteer〉 にも活動&レポートを載せています。
どうぞよろしくm(_ _)m♥