もちろん、夫は真剣に耳を傾けないといけない。

聞いてないとばれたからと言って、かのじょは怒らない。

ぜんぜん、わたしに怒ったことが無い。

でも、とても興味あるように耳を傾けないといけない。

怒ってないからといって、それで無罪放免されるわけでない。


わたしは、じぶんがすごくエゴイスティックな人間だと思っている。

そして、抽象的、観念的な話なら、身を乗り出す。

でも、女子はすごく実利的な種族だと思う。

もちろん、宇宙の果てがどうなっているのかとか、死んだらどうなるのかということに興味が無いわけではない。

けれど、話してラチが開かないようなものには乗りにくいだろう。

今年はサンマがようやく取れ、すこしお安く出回り始めたのだとか、

年を取るとバネ指に成り易いのだとか、

パンの値段が落ち着いて来たんだとか、

あのおばあさんがボケてこんなことしちゃったの、とかいう話をしたがる。

身の回りの、身近な事に強い関心があって、

宇宙の果てがどうなっているのかとか、死んだらどうなるのかということは、ずーっと下の優先順位にしかない。と思う。



さいきん、働かなくなったわたしは、すこし穏やかな人格になったみたいで、かのじょがよく話し掛けて来る。

でも、上司や同僚との摩擦が減っただけであって、中身は変わってない。

やっぱり、どうせ話すのなら、こころがどうなっているんだろうか、わたしはセロトニンの出が悪いんじゃないかを話したい。

話せば、かのじょは100%の注意で向かい合ってくれるけれど、その手の話はそうそう長くは続かない。

そのうち、「話は変わるんだけど」といいながら、かのじょがガラリと話題を変えてしまう。

悪気は無い。ぜんぜんない。

けれど、その先の日常のことなんかにわたしは燃えない。


女子に特有なのか、かのじょに固有なのかはわからないことがある。

ほとんど独り言に近い、「話し掛け」をしてくる。

これが、もっとも手強い。

ぜひわたしに聞いて欲しいのか、いやいや、純粋に独り言なのかを瞬時判断するワザが要る。

なんでも、関心ありそうな返事をすればいいわけではない。

それぞれに応じた反応というものがあるはずだ。

だいたい、ひとがただ調子を合わせているのか、ほんとに話を聞いているのかは、なぜかばれる。



よく、ひとりでふんふんと歌を歌ってるひとだから、あれ?行くのは明日だっけ?とかもボソリと言う。

主語や目的語を省略する。

どこに行くというのだ??郵便局なのか、病院だろうか?

ああ、、どうも病院だと推測して、眼科には火曜日だよねとか言ってみる。

わたしへの質問だったのかは依然として分からないまま。

目がごろごろするの、白内障かしら?とかいう。

年を取ると、なぜか女子たちは白内障になりやすい。

男子は、成り難いというよりも、死に易いのであまり大騒ぎにならない。

いずれにしろ、わたしは眼科医ではないので、適当なことしか言えない。

見てもらった方が良いよとか、当たり障りの無い、立派な返事をしてみるのだ。

その返事を気に入ってもらえた場合は、そのような脈絡無い質問や発話が続く。。



かのじょのように誠実に他者の話を聞き、100%向き合って、朗らかを好む人の話を聞かないと何が起こる?

ああ、このひと聞く気が無いわと分かると、かのじょは会話をしなくなる。

わたしを責めはしない。

かのじょは、無理やり相手を想い通りにしようとはしないので、なるべくわたしに触らないようになさる。

ほら、ふんふんと自由に歌っていた者が静かになる。これって、ヤバイ。

なんだか、わたしがどこぞの兵庫県知事みたいなモラハラ、パワハラ罪人みたいな気になってくる。

わたしが、話したがっては居ないという事実を尊重されてしまう。

その通りなのだけれど、それって1つ屋根の下に一緒にいる人類としてはちょっと冷たい関係だ。

ふんふんの歌がしなくなり、サンマの話も消えて、ただテレビの音が流れ続ける。。



わたしは、幸いとばかりに、パチパチと文章を書き、うんうんと唸っているのだけれど、気が付くと部屋が静かなのだ。

かのじょに静かを強いているようで、たいへん居心地が悪くなる。

だからといって、サンマの話なんかしたくはない。



わたしは心苦しくなる。

ヤバコを吸いに行くついでを装って、暑いねとかいってみる。すこし会話が発生する。

罪人わたしは、さらに会話の接ぎ穂を拾って行く。

気が付くと、かのじょのお話が全盛期を迎えてる。

良かった、よかったのだ。

なんにしろ、相棒がこころ朗らかにありのままに振舞ってもらった方が、だんぜん良い。

少女のようなこのひとには、終生、朗らかに居させてあげたい。

しかし、女子は話好きで、しかも、独り言も全開だ。

ああ、、わたしのこころが落ち着かない。



P.S.


愛さずにはおれない!とプレスリーは歌った。素敵だ。

https://www.youtube.com/shorts/7yY1ZtFCPuM?feature=share


見て欲しい。犬があなたなのか、わたしが犬なのかが分からない。

が、一度でもツガイを契ったのだ。

from heartであなたに向きあわずにはおれない、と言わねばならない。

手と手を握り、目と目を見つめ、ハグしあうのだ。

いや、わたしはエゴイストなんだともっと言いたい。

けれどそうは言えずに、罪人疑惑を背負ってしまう。

ああ、、なんて甘い歌声なんだろ。。。ほろほろ。





 



さよならっと退職したら、せいせいするだろうか?

1年経ちましたがすっきりなんかしませんでした。

心が開かれてゆくような感覚は来ません。

働かないこと以外、こころの風景は変わり無いといったら伝わります?


途中で通勤電車をふらりと降りてみたかったのです。

ずーっとそう思ってて、でも、40年間一度もそれをしなかった。

たいしたことではないんです。

でも、わたしはやりたかったのにずっとしなかったのです。ほろほろ。



1.やれそうでやれない


わたしは、決めたらたいがいやります。やれます。

けれど、「降りようかな・・」なんていう曖昧な想いは行動に移しにくい。

途中下車は難しかったのです。



新宿に向かう電車は猛烈でした。乗るだけでもたいへんなんです。

降りるのはできても、またぎゅうぎゅうをこじ開けて乗るなんて気が重い。

嫌な通勤に余計に時間がかることになる。ギリギリまで寝ていたので遅刻するでしょう。

降りたとして、いったいどこに行くん?

行きたいとこなんてなくて、ただ常軌を変えたいというアホみたいな熱でしかないのです。


いや、職場なんて行きたくないっ。

あそこは、わたしを痛めつけ惨めにさせる。

生活費のためっていうけれど、なんてひどい役まわりなんだ。

もちろん、ぐれずに行きましたよ。家族いましたからね。

でも、たまにはふらりと、黄昏たいって思ったんです。



会社の帰りなら、帰宅時間がすこし遅れるだけです。でも、寄り道もしなかった。

実は、休日もできなかった。

気の向くままにふと途中で降りたっていいのに。

でも、いつもわたしはわき目も振らず、ひたすら目的地へ向かいました。

寄り道=無駄なこと、なのです。

外れることが怖かったのかもしれません。

ハズレなければ、予定通りに到着できる。間違いは起こらず安全でしょう。




2.窓の外


数年ごとに勤務地は変わり、赤坂や六本木、川崎、横浜に。

片道1時間半の通勤ってざらでした。たいがいは小田急に乗ってた。

商品企画が続き、始終、部長や役員が圧を掛け続けました。

ルーティンな手順なんてなくて、いつも綱渡りです。

わたしは電車の吊革つかみながら、流れる窓の外をよく見ていました。


学校へ行く子どもたち、救急車があわただしく着く病院、混みあう市役所、障害者が通う施設。

静かな住宅街と並木、賑やかな商店街とおばちゃん、大使館通り、東京タワー、中華街。。

車窓から見える世界は、人たちが生活していた。

そこに、ふと行ってみたくなるのです。なぜ、じぶんはあそこに居ないんだろ?って。


さよならっーと退職したら、せいせいするん?

いえ、1年経ちましたがすっきりなんかしません。

心がふっと開かれてゆくような感覚は来ません。

世捨て人でも無いので、世間と連動し揺れ動いています。

労働しない以外、なんの変わりも無いといったら伝わりますか?

意外なことに、とても些細なことが気になっています。

わたしは、ふらり降りたいという胸の呼び掛けに一度も答えなかったのです。

大事な何かをさぼってたような気がする。

ああ、、何だろ、これっ!


わたしは安全な車内にじぶんを居させ、外れることを許さなかったんでしょうか。

自由そうな外は、危険だった?人生から外れることは、落伍だと?




3.暖かい所へ


ときどき、NHKの番組『ドキュメント72時間』に浸りたいっていう気分って分かりますか?

ファミレス、空港、居酒屋、花屋、自動販売機の前・・。

一つの現場に3日間(72時間)カメラを据え、

そこで起きるさまざまな人間模様を定点観測するドキュメンタリー番組です。

作製側は、「予定調和」を廃し、カメラの前で起きた「リアル」な出来事をありのままに伝えることを目指しています。

わたしがこれを見たがります。

「予定調和」ばかりをじぶんに課せていたわたしが。



ストーリーも無いし、たいしたことなんて何も起きない番組です。

普通の人しか出て来ません。

でも、見てると、意外な人生をみんなは背負ってる。

ささやかな喜び、触れ合いがそこで起こってる。

もちろん、みんな必死に生活し仕事している。重い病気も抱えてたりする。

いろんなことが起こり、人たちの生には「予定調和」なんてちっとも無い。

と分かると、わたしはほっとする。



そこに、松崎ナオさんの「川べりの家」が流れて来ます。

https://www.youtube.com/watch?v=ChwLT4ByNU8

曲はこう始まります。

「大人になってゆくほど

涙がよく出てしまうのは

1人で生きて行けるからだと

信じて止まない」


寂しい時、いつも無性に聴きたくになると誰か言ってた。

「歌は水に溶けてゆき そこだけ水色」って言われると、もうほろほろに。

この曲が流れてくると、みんないい顔していることに気づきます。

そして、ああ、、番組はもう終わってしまうのかとじぶんが残念がってるのを知ります。



幸せを守るのではなく分けてあげる、という歌詞がいいです。

そうやって生きてる人はどんな境遇でも輝いてるのです。

何も無い、退屈なじんせいなのに。

ケガばかりしていて、あちこちぶつかってばかり。出世もお金もなさげです。

で、わたしの胸がせり上がって来て涙が出そうになるんです。

嬉しいんだろか?いや、悲しいん?

きっと安全を強いて来たわたしのこころが、人たちに癒やされて行くんです。




4.セロトニン


電車は途中で降りたことはなかったし、駅の周辺を探索したこともなかったのです。

赤坂、六本木、川崎、横浜。。

通ったけど、オフィスのあるビルと自宅との往復ばかりでした。

どんなに派手な場所でもオフィス以外には行かなかった。

いつもいつも思うんです。

同僚たちのようになぜ楽しまないんだろうって。

みんなは、美味しいスバゲッティ屋さん、飲み屋、中華屋、なんでも興味津々で開拓して行きました。


無駄なことが嫌いなんだろうか?

そんなこと無い。こうして書いていることなんか、最たる無駄かもしれない。

この人間は、目的的に生きてるわけでもないのです。

でも、じぶんでは行動を変えて見る勇気が持てなかったんでしょうか。

そう、わたしはひどい怖がりかもしれない。じぶんだけに閉じ易いんです。



ずいぶん昔、テレビを見ていたら、南米の人が外出恐怖症だった。

脳内の伝達物質の1つ、セロトニンの分泌量が普通の人より少なかったのです。

セロトニンは脳の興奮を抑え、心身をリラックスさせます。

彼は、知らない所に置かれると、恐怖なんだという。買い物もできなかった。

どんなに安全だと分かっていても、そこに居るのが不安だというのです。

わたしも小さな頃から、すこし分かる。すぐに母の元に帰りたかった。

夏が来てお祭りで人混みに居ると、ひどく落ち着きませんでした。



パニック発作を何度も経験すると、再び発作が起こるのではないか、次に発作が起こったら気がおかしくなってしまうのではないかという不安が頭をよぎるそうです。

これは「予期不安」と呼ばれる症状で、仕事や学業に支障を来たす。

そして、予期不安に伴い、会社などの公共の場で発作が起こらないか不安になり、大勢の人が集まる場所を避けるようになる。

で、人前に出るのを嫌って自宅に引きこもるなど社会生活に支障がでることがあると。。

わたしのように通勤はわき目も振らずにただ行き来する者、登校拒否になる子供、引きこもる大人・・とさまざまに行動が分かれるのでしょう。

たぶん、セロトニンの量が多少足りないのか、すごく足りないのかの違いしかない。

何かが怖いのです。治療は、脳内のセロトニンの量をコントロールします。



人間の中でも、ネズミさん並みに欠乏している種族がいるのかもしれません。

閉じこもると暗いけれど、巣の中なら外敵に食われることはなく安全です。

セロトニンを少なくして派手に外を出歩かないようにしているでしょう。

だから、これが少ないというのも、何かの理由、何かの合理性があるのかもしれない。

わたしの後ろに居るひとたちは、わたしを内向的にさせたかったのかもしれない。




5.誰だって会社は嫌いだ


わたしは、じぶんでもじぶんをつまらない男だなって思います。

道草はせず、同じ所を行き来したがる。

ウインドウショッピングなんて想像を絶するほどに興味がありません。

だから、わたしの祖先はネズミさんだったんだと確信している。

ただ、未知な場所でもそれがミッション張られていると、気にならない。

たとえば、出張の命が下ればどこだって行く。ぜんぜん躊躇が無い。

だから、先の南米の人とは本質的には何か違う。セロトニンのせいにしてはいけないのかも。

目的がはっきりしないと行動できないのかもしれない。



通勤電車をふと降りたくなる。

プレッシャーで壊れそうなじぶんをなんとか救いたかったんだろうか?

でも、降りてもけっきょく何も変わらないと諦め、しなかったんだろうか?

真面目に言われたことだけしていれば、仕事は失わずに済むからと納得してたんだろうか?

でも、なぜ、降りなかったのかの説明には成っていないような気がするんです。

なぜ、「予定調和」を崩せなかったんだろう?




あなたもきっと早く仕事なんか辞めたい、通勤地獄を脱出したいって思うでしょう。

あなたにも何かの恐怖があるのかもしれない。

でも、苦しみがあるから辛いのではないのです。

辛さがあっても、ふと違うことも出来るのに、それを許さないことが根っこにある。

その息苦しさがわたしを苦しめていたんだと思う。

1つの刺激が来たからといって、それだけに付き合う必要は無いのです。

それだけを重く捉え続けろなんて誰も言ってない。

ふと、声のする方へ向かってみる。

そのふとした1歩を踏まない限り、

早く仕事を辞め仮に通勤地獄を脱出したからといって、しあわせに満ちるなんてない。



勉強できるようになれば、一生懸命に働けば、しあわせになれる?

そんなこと無いから、ときどき途中下車したかったんです。

恐れを持つって、生き物としては当然です。

安心、安全を求めるというのもしごくまっとうです。

だから、安全神話は捨てれなかった。

でも、それが行き過ぎると神経症です。

喜ぶということをすべて犠牲にして、正義や効率に身を跪かせてしまう。

いったい、これは誰の生なんだろう?って、今、思います。

それは、生が翳って来たから、なおのことふさわしい問いなのかもしれません。




P.S.


人の人生そのものが全てドラマなんだ。

わたしたちは、生きる事は世界で一つしかないドラマの主人公を演じているという。

人たちが、松崎ナオさんの「川べりの家」に書き込んでました。


「番組を見ていて、この曲が流れてくるとあ~もう終わりなのかと寂しくなりますね~

でもこの曲を聞いてると、明日も頑張ろうという気持ちになります」


「パニック障害患者です。

いいですよね毎日帰宅後この曲を何度も聴き、涙して1日が終わっています。

明日もガンバろうって思うまで何度も···」





 



昨日から、こころがザワザワする。苛立つような、なにかへの不信もある。

じぶんに向けて書いてじぶんがトーンダウンしたというだけの話です。済みませんほろほろ。




書けば自己を世界に現わすことができる。

外在化してはじめて、「わたし」というのを具体的な形で確認できるようになる。

かのじょの何を面白がっていたのか、いったい何が不満なのかが文字に定着される。

ようやく、わたしは、じぶんを見て触れることができる。

だから、わたしは書こうとするんだと思う。



でも、「こうあるべきだ」とか「すべきだ」があると、書いたものがぜんぜんつまらない。

こころの中の想いが思考で隠される。

と、硬い文章になるのですぐにじぶんでも分かります。

いくらでも「べきだ」は書けるけれど、伸びやかさ、広がり、軽さを感じれません。

わくわくしない。

思考では、こころを解放してはくれない。

わたしは、書いて解放されたいのだと思う。

胸にあることを書けるかということになる。



書いてつまらない文章は、驚きも学びも喜びもない。

善さげな話になっていても、ハートが誰にも伝わらない。

可視化したいのは、想いというわたしエネルギーだ。

想いが満ちて来るまで書くのは待った方がいいのだ。



でも、時々、なんだか焦ってる。書こうとするじぶんがいる。

受け止めて欲しいんだろう。

書けばあなたに見てもらえる。

お付き合いで「イイネ」や「スキ」がもらえる。

どんなに形式的だと言われようと、確かに他者がわたしに触れたという証がもらえる。

わたしは、独りぼっちじゃないと確認できる。



でも、そんなふうに読み手に依存すると、みんなは読んでくれなくなる。

あれ?読み手の反応が少なくなって来たのかな?という時、

自分が人に助けてもらいたがってることを認めるタイミングだろう。

いいのです。弱っちくても、不完全でも、孤独でも。

でも、偽りやカモフラージュはいけない。

自分から自分を隠してしまう。

書いて自己を可視化すると言っても、そこは、「べきだ」の国への入り口でもある。

意外なことに、書くことで助けてくださいと言えることもある。




素直な文章を書けているかは、大事なことだ。

でも、わたしには素直に胸を開けない時がある。

なぜ開けないんだろ?

怒り、苛立ち、不安、恐れが胸を覆っている。

それらは思考では取り払えないから、素直な文に触れて見る。

星の王子様でも、宮沢賢治でも、黒柳徹子でも、ほわっとするのならなんでもいい。

たぶん、小さな子に相手してもらうのが一番素直になれる。

犬や猫の人もいるし、登って行って山に相手してもらう人もいる。

わたしの今日は、ムーミンに触れている。




素直を外に外在化できた先輩たちや存在に助けてもらう。

助けてもらって、こころホカホカとしないうちに書いてはいけないでしょう。

書いても自分が救われないし、誰も励ませない。

自分が励まして欲しいのなら、他者もそうなんだろう。

書きたいのにうまく書けない時、それは自分自身が助けを求めている。

やっぱり、助けてくださる先輩を訪ねるに限るんだな。



北極へ着くと北を失ってしまうという。

北が、満たされてしまう。

いくら腹が減ったといっても、食事をしてしまうと当分、食べれなくなる。

無限にかつどんやラーメンはたべれない。

1つ文章を書くと、次が書けない。

想いが涌いてくるから書きたい。でも、書くとその熱は満たされてしまう。



やっぱり、うんとお腹が減って来るのを待たないといけない。

わたしの場合、3日か4日も我慢すると突然、考えがまとまって書き始める。

書くという行為には、待つもペアになっている。

ああ、そうだ。

わたしは昨日から、きっと来てくれるという地面をどこかに失ってた。



百景どころか、2景にしかなってないけど、

どうぞ、わたしに喜びの想いがふたたび湧いて来ますように。

 

 

 

 



 



毎日見に来てくれてたひとが、ふとフェードアウトしている。

もちろん、仕事がたいへんに、病気になったとかいろいろあるでしょう。何も、読む、書くを専門にしているわけじゃないんだもの。

でも、毎日読む書くをリズムにしている者にとっては寂しいです。

朝、必ず挨拶してくれてた人がいつの間にか引っ越していたような寂しさがあります。

もう、面白がれなくなったんでしょうか。




1.奇妙な歌


米津玄師の『檸檬』を初めて聞いた時、へんな音がはさまってた。

わたしは、平均からのちょっとしたズレにアンテナが立ってしまう東の男。


「夢ならばどれほどよかったでしょう

未だにあなたのことを夢にみる ”ウエィ”」


あちこちに ”ウエィ”が合いの手を打ってる。

https://youtu.be/SX_ViT4Ra7k


へんな音がはさまってるんだとかのじょに言ってみた。

「えっ? あら、ほんとだぁ・・。あなたに言われるまでぜんぜん気が付かなかったわ」。

かのじょは、ズレを気にしない西のひと。みんな、違うという前提に居る。

なぜ、こんなのを挟むんだろう?という疑問はずっと解けなかったけど、今朝、めでたくその謎が解けた。


「あのね、米津さんがテレビで話してたの。彼はね、崩れているものに惹かれるんだって。」


「へぇ、、じゃあ、ミロのビィーナスみたいな均衡美は好まない?」


「彼はね、”完全”ではなく、崩れたのがいいんだって。

だから、『檸檬』に”エヘッ”だったか”ウゲッ”だったかが入れられたのね。

いや、”ウゲッ”だったかな。”ホゲッ”?

あれ自体に意味は無いって言ってたわ。」

いえいえ、”ウエィ”です。



美しいプロポーションの女性を見れば、わたしの目は自動的に惹かれる。

おっ、ナイスバディじゃんっ。憧れに近い感覚だ。でも、親しみは感じない。

男心はときめくが、それ以上には進展せず、面白くは無いもの。(いや、見かけるたび進展したらえらいこっちゃ)

そこからの”先”が無いのが、”完全”だ。完結、ということだろう。

でも、崩れているのを好むってどういうことなんだろうか?米津さんを調べて見た。



2.彼とは誰?


自閉スペクトラム症(ASD)は、対人関係が苦手、強いこだわりといった特徴をもつ発達障害の一つ。

米津さんは、これを持って生まれて来た。

二十歳の時にそう診断されて救いがあったと言ってたけど、ずっと悩んできたでしょう。

友達もおらず、休み時間は自分の頭の中で作りあげた架空の人物と話すことを心の拠り所にしていたという。

「僕はずっと普通の人になりたかったんですよ、子どもの頃から。

普通ではないっていう感覚によって苦しい思いをしてきた自覚もあって」。


ASDという診断にはショックがあったと思う。

でも、診断されるとは、あなたはそうだと確定されるということ。

本人もagreeと納得したんだったら、じゃあ次はどうしようかという選択肢へとようやく向かえる。

事実は動かせない。苦しみも去らない。けれど、では、自分はどう生きようかという地面にやっと足が付く。


米津さんの『ViVi』では、「愛してるよ、ViVi」と繰り返し「さよならだけが僕らの愛だ」と歌う。

https://www.youtube.com/watch?v=W-Tun8O-Tjk

この歌は、”へんな歌”だ。言葉を吐きながら、言葉自体を否定している。


悲しく飲み込んだ言葉

苛立って投げ出した言葉

言葉にすると嘘くさくなって

でもどうして言葉にしたくなって

言葉を吐いて


でも、『言葉にすると嘘くさくなって 形にするとあやふやになって 丁度のものはひとつもなくて』と鋭い。

どの「言葉」にもコミュニケーションツールとしての不完全さが滲んでいるという。

その真実を彼が表現すると、とても泣きそうです、涙が出ると書き込む人が多かった。

恋の切なさにも聞こえるし、生きてることの嬉しさにも聞こえるともいう。

不思議だ。


本人は、この曲に対して、

「結局どうやってもわかりあえない。わかりあえたと思ってもすれ違いって必ずあるんですよ。

そんな悲しさを描いているのが”vivi”ですね。それでいいんだと思ってます。」という。

それでいいんですと言われると、こちらも受け入れらたようで救われる。

きっと、みんあも聴くとそこで救われるのか。

ほんとは、よくはない。でも、抗うべくもないことってあると知る。

じゃあ、自分はどうするか?という問いを立てる。

自閉スペクトラム症という帯に居る自分が、さらに言葉という不完全さをどう扱うのかに夢中になっていったのでしょう。




3.へんな歌のワケ


Xを覗くと、米津さんはこんなことを言っていた。

「たった数行の言葉のために何故ここまで頭を悩まさなきゃならんのだろう?

それを受け取ってくれる人がいるというのが素敵なこと」。


自分の苦しさと他者へと繋がる喜びとが並置されていた。

伝えることの難しさの向こう側を見ていた。

自分は完全体には成れないけれど、完全で無いことを受け入れると他者と繋がれる。

だから、果てしなく言葉を大切に扱って行く。



米津さんがXにどんな投稿をしてるんだろうかってさらに見てみた。2016年11月7日でした。


「よく晴れた日、隣人の葬儀に集まった人混みの中、あなたはひとり指笛を吹いていた。

周りの視線も気にせずに、ただひとり、深く青い空がいっぱいになるまで指笛を吹き続けていた。

他の誰にもわからない音楽を、もっと大事にすべきだとぼくは思った。」


亡き人がお空に飛び立って行くシーン。

葬送の時、去る者に深く青い空がいっぱいになるほどに笛で声掛けしていたという。

彼が感じているのは、葬儀中は静かにしていないといけないという決まりを破るそのエネルギーでしょうか。

きっと、彼は決まりを破る笛吹く人の想いのエネルギーに驚いた。

だから、たとえ他者に分かってもらえなかったとしても、自分の生れ出た泉は守りたいと言っている。

で、たとえば、分かってはもらえない、意味の無い”ウエィ”でさえ、歌詞に入れざるを得ない。

なんで入れたんだ?と詰め寄られても、それは言葉では答えられない。想い、だから。



4.名編集者が聞いた


編集者集団、コルク代表の佐渡島庸平さんが、農業研究者の篠原信さんに話を聞いてた。

人を育てるのは難しい。相手のためを思ったアドバイスが、かえって相手の意欲を削いでしまうこともあるし、最悪の場合、指示待ち人間にしてしまう可能性もある。

どうやったら相手が主体的に考え、行動するよう促すことができるのかという話でした。

https://www.sady-editor.com/n/n032e0e0657f2


佐渡島さんが、「仕事ですから、面白がっている場合じゃないような瞬間もあったりする。だから、相手を面白がり続けるのは意外と難しいなとも感じています。篠原さんは、どういう風に考えますか?」と聞いた。


篠原さんはこう答えた。

「そうですね。それでも、私はどんな時でも面白がるようにしていますね。物事がうまくいかないのも「なんでうまくいかないんだろう?」と面白がったり 。

結局、面白がるとは、状況がうまくいってるから面白がれるのではなく、どんな時でも面白がれる「心の姿勢」だと思います。

例えば、私は研究で学会によく行きますが、どんな研究でも面白がるようにしています。それは、別に無理に面白がろうとしているわけではなくて、研究者と対話をするなかで、お互いが気づいていなかった何かを発見しようという気構えで臨んでいるからです。「この研究は、こっちの方向で進めたら、もっと面白くなるかも」とお互いが思える展開になれば、相手にとっても自分にとっても有意義ですよね。

実は、相手を面白がるために、「対話」はものすごく重要だと思います。」

(略)


佐渡島さんがまた聞く。

「相手に自分の才能に気づいてもらうという点で、難しさを感じるのは、ぼくが「あなたの才能はここかもしれない」と褒めたとするじゃないですか。そうすると、相手が、また褒められようと思って、褒められるためのアウトプットを出してくることがあるんですよ。なんかそれは違うなと感じるのですが、篠原さんはどう思いますか?」


篠原さんはこう答えた。

「褒められると、また褒めてもらおうと思って、行動してしまうことは起きがちですよね。でもそうすると、本当の意味での主体性が育ちません。

私は、そのループに陥らないように、「結果」ではなく「工夫」を面白がるようにしています。

工夫がなかったらどんなによい結果が出ても面白がらないけど、結果がどんなに悪い場合でも工夫している限りは面白がります。工夫したことを面白がっていると、その人はずっと工夫をし続けます。前回は、この工夫で驚かせたら、同じ工夫では驚かないことは、はっきりしていますからね。そうして、工夫し続ける人は成功する道をいつか見つけると思います。」



何かを産みだすというのは才能かもしれない。

でも、せっかく何かの才能があっても、工夫を面白がらない限り、進めないとふたりは言っていた。

きっちり、予定調和では完全すぎるのです。いえいえ、だから、”ウエィ”なのでしょう。

米津さんは、いつも何かを試しているのでしょう。




5.悲しい生い立ちの彼が生み出すもの


米津さんは、「今になって思い返してみると、精神的にも肉体的にも貧しい家庭だった」と語ってます。

母親はチラシを作る内職をしており、決して恵まれた家庭環境ではなかった。

近所に住む住民はこんな証言もしていた。

「特徴的な名前もあって、子ども時代はいじめられることも多かったみたいです。幼稚園のときだったかな? 遊んでいたときに人とぶつかってしまい、大出血するほど唇を大ケガして、病院に運ばれたことがありました」。

この出来事は音楽誌のインタビューでも、「汚いものを見るような感じで受け入れられて(中略)自分が怪獣のようなものになってしまったんだなという感覚があったなあと思いますね」と振り返っている。

成長とともに生きていることにどんどん居心地の悪さを感じるようになっていって、二十歳の頃、診断を受けた。

そして、それはそうである、という気づきを得る。

今も唇が少し腫れているように見える。でも、そこを覚悟すると、ひとは工夫し始めるのでしょうか。



彼の歌はうねりながら、わたしに入って来る。

小さな振動がユラユラとだんだん大きく成ってわたしを包んで行く。

歌詞、それぞれの意味はよく分からない。いろいろへんだったりする。

けれど、彼の言いたかったことは受け取れるという不思議が起こる。


わたしは、平均的な男だと思う。とくに障害に苦しんだことも無い。

わたしは、でも、平均から逃れようと、抜きんでようとしてきました。

平均を忌み嫌う男は、でも、平均に呪縛される。

気が付くと、平均からハズレた者を裁いていたりする。

平均神話を自分が先頭に立って信奉している。

その証拠?にわたしは初めて聞いた『檸檬』で、”ウエィ”を耳が聞き逃さなかった。


もちろん、かのじょが見過ごしたように、『檸檬』では挿入された彼の発話は、微かで目立ちません。

まるで、CMでサブリミナルを挟み込んだように、曲を邪魔しない。

邪魔しないんだけれども、無くてはならないという。

彼は、苦しみから逃れようと、壁にぶつかるたびに、工夫を重ねたでしょう。

かれは、泣きながら面白がって来たでしょう。



やはり、他者と比べたり、お友達作るだけでは書くことも続かない。

いつも面白がる。そうすれば、少しすこしと工夫をしてゆく。

ある時、あなたの工夫を見つけた者が、ぽちっと押す。素敵ですと。

そして、もし書き手が面白がれば、そのエネルギーはみんなにも配分されてゆく。

あなたの文は、ユラユラだんだんと大きく成ってみんなを包んで行く。

わたしは、そう信じたいのです。





 



好きなのか、ただの尊敬なのか、自分の感情って意外に分からない。

40年近くも一緒にいて、今更好きもなかろう。慈悲や愛というと大袈裟過ぎる。

そりゃもちろん大事におもっているけれど、こんなに欠けている人なのだ。

わたしは、かのじょという存在に何を見ているんだろうかというお話です。ほろほろ。




1.発達障害


ある方(女性)がつぶやいた。

旦那さんは、ADHDの妻を持ち、周囲のADHD人間の世話をせっせと焼き、ADHD系芸人の日常エピソードをラジオで楽しそうに聴いている。

彼女は、「ADHDが好きなの?」とその夫に聞いてみたそうです。

そしたら、「ADHDが好きっていうか、良いエンジン積んでるのにめっちゃ空回りしてるタイプが好き」と旦那さんから返ってきたと。


ADHDってあまりにキャラがブロードに広がっているので、この人、ADHDだなって決めれない。

かのじょも作家の岸田奈美さんも、料理家の平野レミさんも、窓際のトットちゃんもばりばりに該当者だと思う。


トットちゃんは、授業中に外の人に話しかけたり、登校途中で草花に注目するあまり学校へ行くのを忘れてしまったりという行動を繰り返したため、「問題児」とされてしまい1年生の3か月ほどで学校を退学になった。

ADHD(注意欠如・多動性障害)というのだけれど、注意が無いのじゃないのです。

注意配分がヘタ。1つのことへ集中し易いので、他が落ちてしまう。

昨夜も、かのじょ、テレビ見て笑ってた。

再三、わたしは火をつけているんだよねと念を押してた。「うん、分かってるぅー」と明るく返事。

が、けっきょく煮込んでいたかぼちゃをナベごと丸焦げにした。



米津玄師さんは、子どもの頃から他の人とのコミュニケーションがうまくいかず、

「自分が普通ではない、という感覚を持つことで苦しんだ」と語っている。

20歳の時に高機能自閉症(現在は自閉症スペクトラム障害:ASD)と診断され、自分のコミュニケーションの難しさに対して納得できたという。

俳優のトム・クルーズも発達障害を抱えていることで有名です。

彼の持つ発達障害は、限局性学習症(SLD/LD)のうち、ディスレクシア(読み書き障害)。

どうやってセリフを覚えるのかしらと、彼を見るたびにかのじょは首をひねってる。

そう、かのじょもディスクレシアだ。黒柳さんも計算障害と読書障害がある学習障害者。

いくつかの障害が重なって行く。


良いエンジン積んでるというより、何かの才能を発揮するために、脳は他の機能を犠牲にしている。

なので、自身の難しさに対して工夫を行う人たちともいえます。

その一生懸命さが、冒頭の方のお話になるのかと思う。

旦那さんは、発達障害者の健気さ、一途さにほろほろしてるんだろう。

嘘や虚栄が無い素な相棒ですもの。応援しまっせ!と。




2.レジリエンス


心理学でいうレジリエンス(回復力)とは、不利な状況やストレスに適応する能力のことをいいます。

誰だって、学校で虐めを受けたり、上司に罵倒されたり、病気に成ったり、仕事や家族を失ったりする。

でも、逆境を超えて行く力は、誰もが同じわけではない。

最近こんな研究が報告された。

https://gigazine.net/news/20240909-greater-mental-resilience-live-longer/



データ追跡された人は、米国の50歳以上の1万569人でした。

平均12年間の追跡期間中に3489人が何らかの原因で死亡した。

レジリエンスは、「忍耐力」「落ち着き」「目的意識」「自立心」「1人で向き合うべき経験があるという認識」といった項目で測定され、スコアは「0」~「12」のスケールで表された。

結果なんだけど、「レジリエンスのスコアが高いほど全死因での死亡リスクが低下した」。

しかも、この関連性は特に男性よりも女性で強かった。

レジリエンスのスコアに基づいて参加者を4分割すると、最もレジリエンスのスコアが低い25%の人々と比較して、最もスコアが高い25%の人々は今後10年間で死亡する確率が53%も低いという。

この傾向は、糖尿病・心臓病・脳卒中・がん・高血圧といった本人が持つ病気について調整した後も統計学的に有意だったし、喫煙やその他の健康関連行動を考慮しても持続した。


で、研究チームはこうまとめた。


「人生の意味・自己評価による健康状態・社会的支援に対する満足度など、さまざまな要因が心理的なレジリエンスに影響する可能性が指摘されています。

これらのポジティブな感情を引き起こすことで、心理的レジリエンスの保護効果が高まり、成人のメンタルヘルスに蓄積された逆境の悪影響が緩和される可能性があります。

今回の知見は、死亡リスクを軽減するための心理的レジリエンスの促進を目的とした介入の、潜在的な有効性を強調するものです」と研究チームは述べている。



心理的レジリエンスの保護効果と言っている。そう言われたら、そうなのかもしれない。

わたしが、納得したのは、測定スコアで採用された5つの項目自体でした。

「忍耐力」「落ち着き」「目的意識」「自立心」「1人で向き合うべき経験があるという認識」を評価項目としていた。

弱っちいかのじょは、自身が発達障害を帯びている。

ひどく難儀な生なんだけれども、忍耐力があり、落ち着いていて、目的意識もはっきりしています。

わたしという夫に依存することはなく自立心が高いです。

いつも、苦難に1人で向き合ってこないといけなかった生でした。

しかし、驚くほど優しく聡明なのです。

きっと、あなたも会えば、納得されると思う。

わたしが、かのじょをすごいなって思ってたことが、そのものずばりレジリアンスの測定項目になっていたのです。

おお、、かのじょはかなり長生きするでしょう。



3.健常者とはなにか


わたしは、いちおう、外見に傷もないし、平均身長はある。

人並に走ったりする。読み書きもする。スラスラ話もする。聞くこともいちおう、できる。

勉強も、するように成ってからは出来た方だと思う。

で、抜きんでたいと足掻くことはあっても、この平均男は満足するってなかった。いつも、競い、評価を気にして来た。



発達障害者は、人間たちが描く正規分布の平均に居れない。隅っこ。

かのじょたちは、人付き合いが苦手だったり、普通に出来ることが出来ないので白い目でみられ易い。

ムレは、ハズレ者を迫害するので、かれらは、目立つことを避け、認められたいなんて諦めてる。

この世に居場所の無いかのじょたち。

生まれながらのハンディを抱えていて、どうにもその定めから逃げれない。

じっと耐えるしかないから、結果、レジリエンスが高いでしょう。



片や、偏った脳は1芸に秀でてしまう。

脳内の1か所残して、他をすべて焼き払ってる。

脳は、代替して、その1か所にリソースすべてを集中する。

黒柳さんや米津さんがたまたま優秀、なのではないのです。多大な犠牲の上に生きている。と思う。



しつこいけれど、わたしは心技体、ほぼ平均的な男だと思う。

負けまいとするから、引け目というのがあまりない。平均に産んでくれた両親に感謝しかない。

でも、わたしは競い、比べるのでいつまでも自身を受け取れない。

忍耐して衝撃を超えて行く根性も、たぶん、無い。

発達障害を抱えた者たちの方が、辛い分、レジリエンスが高まるように思うのです。

長生きすれば良いとも思わないけれど、地に足着けて、自分に添って生きれるのは素晴らしい。



わたしは、この研究が使った評価指標(スコア項目)を見て、はじめて、じぶんがなぜかのじょをリスペクトしていたのかを知った。

ええ、わたしには、「良いエンジン積んでるのにめっちゃ空回りしてるタイプ」を応援し励ますという地味な役割が与えられていたことを知った。

健常者とは、障害者という存在を前提にしている悲しい言葉です。

お互いが必要であって、ああ、、わたしはかのじょを通してじぶんを受け取っていたのです。




P.S.


手嶌葵「こころをこめて」

https://www.youtube.com/watch?v=nLjVIqI2Ows

ああ、、これは癒しの調べだ。

歌声で身体の中の緊張や不安がドロドロと涙と一緒に流れて行くような感じがします、という書き込みがあった。



葵さんが心込めて祈ってる。

その繊細な響きがわたしを包む。

言葉ひとつひとつを丁寧に歌ってゆく、生きて行く。

そんな姿にわたしは拘りだったり、悔いだったりがすっと消えて行く。わたしは、そうしてほろほろになる。


誰にとってもこころ辛い時、励ましは嬉しい。

悪戦苦闘するじぶんを受け止めてくれているんだなと思うだけでも、救われる。