検証、織田信長(信長の人間性の巻) | 自己超越から自己認識への導きサロン

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本日は、織田信長と徳川家康の関係から、織田信長の人間性を解明します。



徳川家康とは、豊臣家を滅ぼし、将軍となり、江戸幕府をつくった戦国の大名です。


300年近く続いた江戸幕府の基礎をつくった大政治家です。


あの豊臣秀吉ですら、徳川家康には一目を置き、家康と秀吉が直接対決した小牧・長久手の戦いで家康は、秀吉軍を散々に蹴散らしています。


戦国武将としても、政治家としても、超一流の徳川家康ですが、この家康をもってしても、織田信長を計ることは出来ません。



信長と家康は、同盟を結んでいます、


この同盟は、信長が本能寺の変で討たれるまでの20年間も続き、これは戦国の世では、他に例のない同盟関係でした。


家康は、信長が光秀の謀反で死んだことを聞くと、信長の後を追おうとして、自害をしようとしました。


まわりの家臣たちの必死の説得で、自害することをやめましたが、家康の信長に対する思いは、信長の家臣たちよりも深い信義を持っていたことがわかります。


信長に対する家康の信義があったからこそ、20年間も続く関係が構築されたのでしょう。



では、なぜ、武将としても政治家としても一流の徳川家康が、織田信長に対して、ここまで信義を尽くせたのでしょうか?





Ⅰ、信長像


正しい社会とは、どんな社会でしょうか?


それは、子供が、子供らしく、伸び伸びと生きていける社会です。



一、家康は幼少の頃から、他国に人質に差し出され、長い長く苦しい忍従の日々を過しました。


その多くは、今川家で人質として過しました。


人質生活は、常に周りの眼を意識し、今川家の家臣に虐げられても、それを我慢しなければなりません。


家康は、自分の本音を隠し、誰に対しても律儀に接することで、周りからの反感を買わない、自分に厳しい生き方が出来る人間へと成長します。



二、家康が6歳のときに、2年間だけ織田家で人質として過しました。


そこで出会ったのが、織田家の嫡男、織田信長です。


この頃の信長は、身分にこだわらず、町に出ては庶民と遊んでいました。


信長に連れられ、家康も町の子供たちと一緒に遊び、無邪気に笑い、大声で泣き、子供が子供らしく振舞える時間を過しました。


家康が織田家から、今川家に人質生活を変えた後、織田家の嫡男は大うつけだと噂を聞くことになりました。


しかし家康は、信長がただのうつけ者ではないことを知っていました。


家康は、子供ながらに、自分が責任の重い立場を自覚し、その責任感から、人に甘えることも出来ず、生きることに希望を持つことが出来ませんでした。


信長は、そんな子供の心を救い、子供が子供らしく無邪気な心を取り戻せる環境を与えてくれたのです。


尾張の大うつけと噂される信長は、武家の子も、町人の子も、農民の子も関係なく、子供が子供らしく育つことが出来る環境をつくれる大将だと、家康は知っていたからです。




Ⅱ、信長の強み


今川義元が、大軍を持って、織田家に侵攻しました。


しかし信長は、桶狭間で今川義元を奇襲し、義元の首を取りました。


今川家の人質だった徳川家康は、今川義元の死を切っ掛けに、今川家から独立をします。


その後、信長と家康は同盟を結びます。


家康は、今川軍が織田家に侵攻したときに、今川軍の先鋒を務め、数々の織田家の砦を攻め取っていましたが、信長は、そのことは水に流し、昔話に花を咲かせ、家康と有意義な同盟関係を結びました。



信長は、過去のことは気にしない、度量の深い人間なのでしょうか?


いいえ、違います。


信長は、家康との同盟を話し合う席で、家臣の柴田勝家らに、自分が合図をしたら、家康を切り殺すように指示を出しています。


信長は、家康が同盟をするに値しない価値の無い人物であれば、容赦なく切り殺そうと考えていました。


信長とは、利用できるモノであれば、それが悪魔でも手を結び、利用価値がなくなったモノであれば、たとえ神であっても簡単に切り捨てることが出来る、人の情に流されない判断力のある武将です。




Ⅲ、信長の人間性


織田信長は、純真無垢で、残虐な精神を持つ人間です。


簡単に言えば、子供です。



徳川家康は、自分の本音を出さす、誰に対しても律儀に対応をする人間です。


簡単に言えば、大人です。



徳川家康が、人間として大きなところは、自分の物差しで、計ることが出来ない人間の考えはすべてが善だと信じ、受け入れることが出来ることです。


家康が、信長を善だと信じることが出来た根拠は、家康が幼少の頃に出会った少年だった信長と、一国の主となった信長が、まったく変わっていなかったからです。


生きることに希望が持てず、人に心を開くことの無かった子供に、子供が子供らしく無邪気に遊び、生きる楽しさと、充実した日々を教えてくれたのが信長です。




家康は、300年近く続く、江戸幕府の基礎をつくった大政治家です。


300年も続く幕府の基礎をつくることとは、平和な社会を維持するために、社会はどうあるべきか、人の上に立つ武士はどうあるべきか、基準を定めていくことになります。



それに対し、信長は、人として、何が正しくて、何が正しくないのかを、感覚的に持っていました。


信長の社会つくりの根本は、武士の子も、農民の子も、町人の子も関係なく、子供が子供らしく生活が出来る環境つくりです。


この当たり前の感覚があるため、人として何が正しくて、何が正しくないのかを知り、人の上に立つ者はどうあるべきか、道徳基準を持つのです。




信長とは、人として正しい人間ではありません。当たり前のことが当たり前に出来る人間だっただけです。


この当たり前の価値を知っていたのが、徳川家康だけでした。


この価値観が、家康が最後まで、信長に信義を尽くしたのです。