寅さん映画の中で、もっとも哀愁があり、寅さんを男前にさせた映画といえば、「男はつらいよ 寅次郎紙風船」だろう。
私はこの映画を観るまでは、音無美紀子さんが苦手だった。
お茶の間で観る音無さんは、目立たないようで、存在感が強い不思議な女優さんと言う印象があった。
アクがないようでアクがある女優さんだ。
私はどうもその音無美紀子さんのアクが自分には合わないと思っていた。
このアクをオーラと言えばオーラなのだろう。
周りを自分の色に染められるほどの強い力を持っている人なのだ。
すごい美人とはいいがたいが、それを充分オーラでカバーできる女優さんでもある。
そのオーラは言い換えれば雰囲気であったりする。
音無さんは雰囲気、存在感がとてもある女優さんだ。
私はどこか草臥れて、やるせない音無さんの雰囲気が苦手だった。
でも草臥れた感じや、やるせなさは哀愁感を伴ったりするので、それはそれで悪くはないのだろう。
私には哀愁感とはまた別のモノが音無さんから出ているような気がするのだが・・・・・
それは何だろう?
音無さんは他の女優さんの様なとりすました感じは受けない。
遠い世界の女優さんではなく、すぐ隣にもいそうな現実的な女優さんと言い表せばいいのだろうか?
下世話にいえば体臭がしそうな女優さんだ。
それもむせかえるような体臭を感じさせる。
一歩間違えれば淫靡な感じとか、淫蕩な印象も受けそうに思うのだけど、それが一歩手前で止まっている。
それが微妙なさじ加減でいいのだ。
辛いだけでもなく、甘いだけでもない。
それでは少し酸味があるのだろうか?
どちらにせよ複雑な味である。
だから特別な存在感があるのだろう。
それに音無さんの切なさを伴ったどんよりとした哀愁感は、ほんのりとした色気で救われている。
この色気と気怠さはなかなかの武器である。
もう御歳をとられてはいるが、貞節な妻という役と、不幸な主婦役をすれば、音無美紀子さんほど適した女優さんはいないかも知れない。
サスペンスドラマではないが、妻は本当に貞節なのだろうか・・・・・
そんなことを考えさせる妻役をさせれば、音無さんにはピッタリだ。
音無さんを見ていると、貞節でありそうだけれど、別の顔がありそうにも見えてしまうのはなぜだろう?
女性の業をごく自然に演じられる、稀な女優さんなんだろう。
だからなのか、寅さん映画には数回観ているモノもあるのだが、音無さんが出ているこの映画だけは観ていなかった。
音無美紀子さんの持っている雰囲気は、寅さん映画には合わなかったと思ったからだ。
音無さんの哀愁を含んだどんよりとした感じが、寅さんを喰ってしまうと思ったし、また寅さんの面白さが空回りしてしまうと思っていた。
だが観てみると、全く違った。
私の先入観はハズレもいい処だった。
とても良い映画なのである。
いや素晴らしいと言った方がいいだろう。
しっとりと落ち着いた大人の映画だった。
寅さん映画としてだけではなく、少し草臥れた男女のラブストーリー映画として観ても、優れモノの映画なのだ。
分かりやすく、この映画のストーリーを少し纏めてみると、寅次郎はテキヤの啖呵売りで、大分県日田市・夜明にやってくる。
そこで古くからのテキヤ仲間だった常三郎の若い女房・光枝に声をかけられる。
常三郎が重い病気にかかっているという。
福岡県朝倉市・秋月に住む常三郎を見舞った寅次郎は、光枝のいない処で、常三郎から思いがけない相談を持ち掛けられる。
自分にもしもの時があったら、光枝を妻としてもらってくれというものだ。
寅次郎は真に受けないながらも、病人の手前、そうすると約束する。
その後、光枝に送ってもらいつつ、何か困ったことがあれば柴又の自分の家に手紙を寄こすよう光枝にいうのだった。
そしてまもなく常三郎は亡くなる。
この映画にはもう一人、音無さんしのやるせなさを薄めるような、そんな役目をしている女優さんが出ている。
岸本加世子さんである。
山田洋次監督は音無さんの哀愁のあるどんよりとした暗い個性を、岸本加世子さんのキャピキャピした明るさで少し消そうとしたのだろう。
その為か、岸本さんのはしゃぎ方も半端ではない。
私には音無さんよりも、フーテン少女を演じる岸本さんの方が鼻についてしまった。
音無さんに負けまいと、ちょっと役を作りすぎてしまったのだろう。
また逆に言えば、山田洋次監督はそこまでして音無美紀子さんを「男はつらいよ」に出そうとしていたことにもなる。
音無美紀子と言う女優に魅力を感じたのは確かだ。
常三郎を見舞った後、寅さんと光枝が秋月の城下町を歩くシーンがとてもいい。
まるで二人は恋人同士のようで、寅さん映画ではなく恋愛映画を観ているような気持になる。
寅さん映画でこのような綺麗な映像を観ることは珍しいだろう。
山田洋次監督にすれば、いつか恋愛映画を撮ってみたいという気持ちが何処かにあったのかも知れない。
秋月の柿の実が熟れる川沿いを二人して歩くのだが、その時の光枝の姿はただ悲しみにくれる草臥れた女性ではなく、何気ない動作に、女として見られたい光枝の女心が垣間見えるのだった。
二人を捉える映像は美しいが、臥せっている常三郎のことを思えば、これはどういうことだろうと他人事ながら思ってしまう。
常三郎役は小沢昭一さんである。
暗く悲しい役を、何ともとぼけた味を出して寅さんを映画を救っていた。
光枝にすれば悲しみや寂しさもあるが、やっと常三郎から離れられるという解放感に近い気持ちがあったのだろう。
常三郎には残酷な話だが、若い光枝にとって常三郎は過去の人となりつつあるようだ。
山田洋次監督は光枝の悲しさと共に、若さゆえの残酷さを上手く描いている。
秋の夕日に柿の実が熟しているのが分かるシーンがある。
光枝を柿の実に例えているのだろうか?
寅さんに、さあ取ってくれと言わんばかりの映像だ。
光枝は寅さんの実家、「とらや」を訪ねる。
常三郎が亡くなり、光枝は福岡から上京してきたのだった。
本郷の旅館で中居として働いているという。
とらやの人たちは例によって、寅のお客、光枝を茶の間で暖かく迎える。
その場面で光枝はタバコを吸いながら身の上話を始める。
親の顔も知らず、親戚をたらい回しにされたことや、ぐれていたことも話す。
光枝役を演じる音無美紀子さんは、この映画ではどんよりとした感じは微塵も出していなかった。
どちらかと言えばはすっぱな感じを上手く出し、テキヤの女房役をそつなくこなしていた。
ただ光枝役を演じる音無さんがタバコを咥えるシーンにはドキッとする。
なぜドキッとするのか?
音無さんには似合わないからか?
それもあるだろうが、何か怖いモノを私は感じたのだった。
音無さん個人のことでもあるだろうし、また光枝のことでもあるのだろう。
いろいろな経験を積んできた女性の知られたくない秘密を、光枝が煙草を吸う、その時に感じてしまったのだった。
寅さんもテキヤ稼業で人生の酸いも甘いも嚙分けてきたはずだが、そこは男、どこか自分が知らない一面を見たり、また自分よりも大人である処が見えてしまうと、どうも腰が引ける時があるようだ。
寅に対し、光枝は亡くなる前の夫から、寅さんとの約束を聞いたと言う。
光枝は寅さんに「寅さん、約束したの?本気で?」という光枝の言葉に対し、何時ものようにはっきりしない寅さんは、「病人の言うことだからよ、適当に相槌を打ってやったのよ」と言ってしまう。
光枝は「じゃ良かった、寅さんが本気でそんなこと約束するはずないわね。安心した、寅さんの気持ちをきいて」と言ってしまう。
光枝にすればそういうしか言いようがなかっただろう。
寅さんは卑怯である。
光枝の気持ちは充分に分かっていたはずだ。
それでも寅さんは逃げてしまった。
これは寅の失恋なのではない。
最後の最後、寅の腰が引けただけである。
寅さんだけではなく、男はこれぞという時、大概意気地がないようだ。
寅さん映画には吉永小百合さんや浅丘ルリ子さんはじめ、八千草薫さんに栗原小巻さんなど素晴らしい女優さんが多く出ている。
その中で音無美紀子さんは、どの女優さんよりも寅さん映画に合っていた人だった。
音無さんを観ていると、おじゃましますというゲスト的な感じが全くなかった。
数多くある寅さん映画の中で、一番優れた寅さん映画はどれかと聞かれたら、私は迷いなく「寅次郎紙風船」と答えるだろう。