「戦後左翼思想」批判入門(2) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ
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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

>虐待などが増えたのは、自己中心的
>な人が増えた結果です。
 
激しく同意です!
 
それこそが、「戦後左翼思想」のもう一つの側面と深く結び付いています。この側面はいわば、「私民主義」と呼ぶべきものです。さきほどの「左翼全体主義」がコミンテルン由来なのに対して、アメリカ由来のものです。
 
あなたは、「私民主義」の解毒剤として「愛国心」「集団意識」(事実上「左翼全体主義」と同じもの)が有効だとお考えです。しかし、歴史的な経緯は逆です。戦前、戦中の日本は「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)に毒されていました。「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)が対米戦争への機運を助長したと考えたGHQは、自国文化の柱である《個人主義》を日本に植え付けることにしたのです。
 
しかし、日本に定着したのは、本来の《個人主義》とは異質なものでした。口では「個人の尊厳を尊重する」と言いながら、実際には個人の尊厳を踏みにじる「私民主義」が生まれ、そのまま定着してしまったのです。
 
「自己中心主義」である「私民主義」がなぜ、個人の尊厳を踏みにじることになるのか説明しましょう。
 
「個人の尊厳」という場合、それはただ一方的に「この俺を尊重しろ」と他人に要求する権利を意味しているわけではありません。それはまさに、《相互承認》として実現するものなのです。「個人」としては何人も同じ資格と責務を持つということ、そのことを互いに認め合うということを意味しているのです。
 
これは、逆に、他人の尊厳を脅かす者は、直ちに、尊重されるべき「個人」としての資格を失うということでもあります。
 
「個人の尊厳」を分析してみましょう。
 
個人=人格=自己規律的主体、自己制御主体
 
尊厳=至上性=拝跪・崇拝の対象としての相応しさ
 
ここでの「個人」は、単なる個体や自意識一般(自我)ではありません。自己規律的・自己制御的主体としての人格です。他人に隷属していないと同時に、自己の放縦を制御できること、自己自身の主催者であること、外的刺激によってかきたてられた欲望・衝動等々の奴隷ではないこと、そのような意味で「個人individuum(in不可-dvid分離)」であることが、すなわち自己の一貫性・一体性を放棄することなく保持し続けていることが、「尊厳」(=至上性=尊重に値する存在であること)には含まれているのです。
 
ところが、戦後日本においては、このような「個人」としての資格を問われることなく、単なる人間個体や自我が無条件に「尊厳」をもつかのような誤解が蔓延してしまったのです。
 
いったいそれはなぜでしょうか?
 
長らく「左翼全体主義」におかされていた我々には、社会性、公共性とは、自己の個体性や自我をより上位の者に預けること、自己制御、自己規律の義務と権利を放棄すること(「滅私奉公」)だという考えがしみついてしまっているのです。
 
しかし、この「左翼全体主義」の精神は、内容的にはほとんど批判されないまま、臭いものにふたと言わんばかりに、神棚に祭り上げられて、大多数の日本人からは、批判されないまま無かったことにされただけでした。
 
しかし、如何に我々が忘れたふりをしても実際には我々の体に染みついています。
 
自己規律、自己制御の習慣があまりない我々は、そのままでは、個人の尊厳を尊重し合うには、少々未熟なところから出発したのです。それでも、そのことを認め合って、「左翼全体主義」の責任放棄主義、事大主義、権力迎合主義を自己批判して、自己制御と当事者間の相互承認、当事者自治の自覚的訓練を積むことができていれば、私民主義が生まれるようなことはなかったでしょう。
 
しかし、実際に我々がやってきたことは、「左翼全体主義」の自己批判を忌避して、事実上放置し、ただ忘れたふりをすることでした。誠意ある人たちは、そのことこそが問題の根源だと気づき、いまようやく声をあげました。「愛国心と集団意識(左翼全体主義)を思い出そう。忘れてしまってはいけない。あれは立派な志だ!」と。
 
「左翼全体主義」の忘却が、戦後の頽廃、自己中心主義蔓延を助長したのだというご指摘は、正しいと思います。しかし、「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)に誇りを持つことによっては、自己中心主義(「サヨク私民主義」)を克服することはできません。
 
なぜなら、述べてきたように、「左翼全体主義」と「サヨク私民主義」は、まさに相互補完的な関係にあり、表面的にはたがいに敵対しつつも、深部においてたがいに支えあっているからです。
 
「左翼全体主義」の無視や忘却こそ、戦後の頽廃を助長したものだという正しい直感を生かすためには、「左翼全体主義」(滅私奉公)の自己批判から始めなくてはならないのです。
 
もちろん、ほとんど同時に「サヨク私民主義」への批判も開始されなくてはなりません。ってぇか、「左翼全体主義」と「サヨク私民主義」は、表裏一体ですから、一方を批判することは必然的に同時にもう一方を批判することになります。
 
☆To Be Continued !
 

 

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