今から26年前の昭和56年(1981年
)に鈴木善幸
首相、中曽根康弘
行政管理庁
長官に請われて第二次臨時行政調査会
長に就任し、3K(コメ
、国鉄
、健康保険
)赤字の解消、特殊法人
の整理・民営化
、官業の民業圧迫排除
など民間活力を最大限に生かすことを打ち出し、「ミスター合理化
」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」そして、「メザシの土光さん」の異名を持つのが、土光敏夫さん。
その「メザシの土光さん」というフレーズは当時何度となくマスコミに取り上げられ、土光さんの清廉潔白ぶりが喧伝される中、第二臨調の活動を後押ししました。当時私はそのあまりにもの質素ぶりに感心しつつも、マスコミの時代錯誤的な支持に閉口する気持ちがありました。土光さんのこれまでの経営再建手腕に疑問を投げかける論調もあったと思います。
今日はその土光さんの19回忌にあたります。彼の当時の尽力に敬意を表しつつ、「メザシの土光さん」にまつわるマスコミの喧伝とその実態をウィキペディアから引用しておきます。
行政改革を推進する宣伝として、昭和57年(1982年
)にNHK
で「NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」というテレビ番組が放送された。
その内容は、土光の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたもの。床屋は自宅で息子が行う。つぎはぎだらけの帽子。戦前から使用しているクシ。使い古された歯磨き用コップ。農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。およそ財界総理の経団連会長には似つかわしくない物が数々存在していた。とりわけ、妻と二人きりでメザシ
と麦飯の夕食。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。
朝日新聞
1995年
2月3日
のコラム
「にゅうすらうんじ」で早房長治編集委員は「土光敏夫さん行革推進へ『メザシ』の演出」という記事で、「『メザシの土光さん』といわれたが、あれは演出である。故郷の岡山県から送られた山海の珍味を使った直子夫人の手料理を、私は彼と一緒にたびたび食べさせてもらった。テレビなどの演出にあえて乗ったのは、『質素なリーダー』のイメージを利用して、行革を成功させるためだったと思う。」と書いており、NHK特集は番組スタッフによる恣意的な演出であったことを「証言」している。
また、経団連時に秘書を務めた人物もメザシは演出だったと後に認めている。しかし、普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であることに代わりはないと付け加えている。決して蓄財家でもなく、微々たる生活費以外の残りの多額の収入は、すべて橘女学園
に寄付されている。
政治であれ、企業であれ、個人であれイメージは大切です。土光さんにはちゃんとした実態がありました。それを「メザシの・・・」というフレーズに象徴させたことは正解だったと思います。少なくとも、清貧好きの日本の風潮には受け入れられました。第二臨調の提言によって国鉄民営化への門戸が開いたことがそれを証明しています。骨抜きにされるのが当たり前の臨調がうまく機能したのは土光臨調だけだというにも寂しい限りです。
土光 敏夫(どこう としお、明治
29年(1896年
)9月15日
~ 昭和
63年(1988年
)8月4日
)は、昭和時代の男性
エンジニア
、実業家
、財界人。第4代経済団体連合会
(経団連)会長。
土光は、関西中学(現 関西高校
)を卒業後、代用教員
をしながら一浪して、東京高等工業学校(現在の東京工業大学
)に入学。大正
9年(1920年
)東京高等工業学校機械科を卒業後、東京石川島造船所(後に、石川島重工業)に入社した。大正11年(1922年
)タービン
製造技術を学ぶため、スイス
に留学する。昭和11年(1936年
)芝浦製作所と共同出資による石川島芝浦タービンが設立されると技術部長として出向し、昭和21年(1946年
)に社長
に就任した。
昭和25年(1950年
)経営の危機にあった石川島重工業の社長に就任し、再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。昭和34年(1959年
)に石川島ブラジル造船所を設立。さらに昭和35年(1960年
)播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業
を設立した。この間、昭和34年に造船疑獄
に巻き込まれて拘置されるも、処分保留で不起訴となる。
昭和40年(1965年
)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(現在の東芝
)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい翌昭和41年(1966年
)に再建に成功する。しかし、土光のいわば「モーレツ経営」(就任時の取締役会での挨拶は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」というものである。)は東芝の体質を変えるまでには至らず昭和47年(1972年
)に会長に退いた。
昭和49年(1974年 )植村甲午郎 の後を受けて第4代の経団連会長に就任。以後、三期九年にわたって、財界総理として第一次石油ショック 後の日本経済 の安定化や企業の政治献金 の改善などに尽力した。一方で日本経済の一層の自由化 と国際化 をはかり、積極的に海外ミッションを組んで各国に渡航した。(ウィキペディア)