ブログラジオ ♯78 Happy Ever After | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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ジュリア・フォーダムとおっしゃる。
やっぱりどのくらいの方が

覚えていらっしゃるだろうとは
思わないでもないのだけれど。


コレクション~ベスト・オブ・ジュリア・フォーダム/ジュリア・フォーダム

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すごくしっとりとした曲を
もっぱら得意とする
シンガーソングライターである。


個人的な所感だけれど、この方の音楽、
どことなくエンヤ(♯23)の方向性に
似ていなくもない気がしている。

もっとも、エンヤがすでに
ポップスの範疇すら


すっかりどころではなく
踏み越えてしまっているのに対し、


このジュリア・フォーダムのサウンドは
基本ポピュラーに留まっている。

だからたぶん、あの当時
ネオ・アコースティックとか呼ばれていた


ムーヴメントのアーティストたちが
持っていた手触りに極めて近い
サウンド・メイキングのスタイルである。



ただ、そう単純に括ってしまえないのは、
年代的に少し遅れて出てきていることと、

同ムーヴメントの代表格である、
初期のEBTGや、あるいは
アズテック・カメラなどの楽曲と比べると、


彼女のレコーディングは
もう少しどころではなく洗練されていて、


なんというか、
透明度が上がっているのである。

同じくらいの音量なのに、
音像が途轍もなく広く感じる。


この点がやっぱり、エンヤの作品群と
共通したものを強く感じさせるのである。


とりわけコーラス・パートなど、
おそらく一人で何度も
ダビングを重ねたのではないだろうか。

それこそ達郎さんの
ON THE STREET CORNERのような
なんともいえない深みが
にじみ出てくる曲が幾つもある。


こういう美しさは、
やはり相当好みである。



さて、今回のHappy Ever Afterは、
本邦ではドラマにも起用されるなどして
89年に大ヒットしたトラック。

タイトルは、御存知の向きには
釈迦に説法のレベルなのだが、


要は、御伽噺を締めくくる、
めでたしめでたしという一節である。


ただし、このタイトルと
それから曲全体の印象とは裏腹に、

これたぶん、当時まだ存続していた、
南アのアパルトヘイトを告発する歌である。


だからこそ、スローテンポながら
あからさまなアフロ・ビートが起用され、


コーラスにはおそらく、
同地の言語が採用されているのだと思う。

なるほど、今さらながら
極めて独創的な楽曲である。



2ndアルバムのタイトル・トラックだった
Porcelain(邦題『微笑みにふれて』)も、
あの頃よく耳にしていたように記憶している。


しかしこれもまたまあ、
日本のA&R泣かせの
曲題だよなあ、と思う。

原意は陶器、あるいは白磁かな。

でも、さすがにこれをそのまま
邦題に持ってくる訳には
やっぱり到底いかなかったに違いない。


かといって、単語のカナ表記の
ポースリンというタイトルでは
誰にも意味がわからないだろうから、

それこそ、この曲で、この言葉を
カタカナ語の一つとして
定着させるんだくらいの


意気込みがなければ
できない決断だったろうと思う。



だから、この時の彼だか彼女だかは、
きっと何度も歌詞を読み返しながら、
この陶器の語の持つニュアンスと、

歌の大意とを、どうにか短くまとめようと、
本当に真剣に考えたのではないかと思う。



というのも、陶器の表面を
そっとなぞっていくような感じが


このトラック全体の
キー・イメージになっているのである。

だからもちろんそこには、壊れやすさとか、
あるいは復元不可能であることとかが、
どうしても同時に暗示されてくる訳ですね。


そこでようやくたどりついた答えが
きっとこの「微笑み」という
一語だったのではないかなあと、
まあそんなふうに邪推しております。


いや、本当、
今さらですが、声を大にして、
お疲れ様でしたと申し上げたいくらいです。

もちろん面識はないのですが、
でもこの時のA&Rの方はたぶん、


どうしてジュリアは、この曲に
Isn’t It Enoughってタイトルを
つけてくれなかったのかなあ、と、


きっと何度も繰り返し
考えたのではないかと思います。

というのも、サビのラインが
このフレーズで始まっていて、
しかも一発で印象に残るので、


原題さえこれであれば、邦題も、
イズント・イット・イナフで
ほぼ躊躇なく決まりだったろうと思います。


だから改めて、本当にご苦労様でした。

でもこの「微笑みにふれて」というフレーズ、
アルバムのタイトルとしても
極めて秀逸だと思っております。



さて、このジュリア・フォーダムは、
どうやら90年代、00年代はもちろん、
10年代に入ってもなお、


コンスタントに作品を
発表し続けているようである。

チャートを賑わすような作風では
本来は決してないのだけれど、


でもむしろ、だからこそ、
一定のファンを、長きにわたって、


納得させることが
でき続けているのかもしれない。

今回リサーチして、
そんなことを思わされました。


ただ、衒いもなくいってしまうと、
彼女の作る楽曲群は、
あまりにも静かで落ち着き過ぎていて、


聴いているうち、
なんとなく眠くなってきてしまうのである。

だから、執筆のBGMには
どうしても向かなかったりする。


いつもここに載せるテキストは、
もちろんその時に扱う


アーティストの作品を
繰り返しかけながら
せっせと書いているのだけれど、

今回の記事に限っては、
仕上げるまでに
三回も寝落ちしてしまった。


――いや、もちろん嘘だけど。

でも、それくらい、
彼女の作品が美しいことは本当です。


さて、ではそろそろ締めに行くことにする。

でも今回はたぶん、イエス(♯35)の時の
エディ・ジョブソンと同じくらい
使い途が見つからないのではないかと思う。



このジュリア・フォーダム、
実はその音楽的なキャリアを、

前回取り上げたキム・ワイルドの
バック・コーラスのシンガーとして
スタートしていたりするらしい。


もっとも当時は
ジュルス・フォーダムという
名前を使っていたようなのだが、


さすがにどのトラックに
参加しているのかまでは、
特定することができなかった。


だが、いずれにせよだから
キム・ワイルドの87年以前の
アルバムをきちんと探せば、


音量の差こそあるだろうが、
この二人のデュエットを
聴くことができるはずなのである。



まあでも、さすがに今から
キム・ワイルドのカタログを
揃えなおすようなつもりは
僕にもほとんどないのだけれど。

もし、まだお手元にお持ちという方は、
是非今度探して見て下さい。


Jules Fordhamという綴りで、
クレジットされている模様です。



ついでながら、今回はあとほんの少しだけ。

実は上のトリビア、

シーナ・イーストンでまず
女性アーティストに移って、


それからキム・ワイルドを取り上げて、

その次には、じゃあ
ジュリア・フォーダム辺りに
しておこうかと、


この順番をまず決めた後で、
ネタ探しを始めてから
思わぬところで見つけました。


だから、自分でも、あ、なんだ、
この順序で合ってたんじゃん、
みたいな感じでありました。


こういうある種の
シンクロニシティとでも
呼ぶべきような種類の発見が


時折訪れてくれるのが、
実は小説なり文章なりを


書き続けてきているうえで、
一番面白い瞬間だったりします。

ま、そういうことは
正直滅多にはないのですが。



だからやっぱり
仁王は最初からそこにいて、


僕がきちんと彫り出せるかどうか、
いつもいつも、いろんなやり方で、

試してきているんだろうなあ、と
まあそんなふうに感じたりも
してしまう訳ですね。