『テルマ&ルイーズ』 | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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あるいは、次はきっとこれだろうと、
予測していた方もいらっしゃるかも
しれないけれど。前回タイトル出したから。

テルマ&ルイーズ

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改めて、リドリー・スコット監督による
91年の作品である。
本作はアカデミーほかで脚本賞を受賞している。
もっとも、脚本を書いたのは別の方だが。


タイトルは、ヒロインそれぞれの
ファースト・ネームである。


ルイーズの方がスーザン・サランドンで
相棒のテルマに配されていたのは
ジーナ・デイヴィスなる女優。
以前取り上げた『プリティ・リーグ』で
主役を務めていた方である。

なお、当時まだ無名だった
ブラッド・ピットが脇役で出演しており、
彼のステップアップのきっかけとなった
作品でもあることは、たぶん有名。


さて本作、極めて特殊な手触りである。

気晴らしに出かけたはずのヴァカンスが
逃げ場のない逃避行へと変貌してしまう外枠は、
巻き込まれ型のサスペンスの一種ともいえる。

だが彼女たちが警官隊の追跡やほかの障害を
次々と首尾よく突破していく時の爽快感などは、
たぶん出来のいいピカレスク・ロマンを
観た時のそれと通じている。


ちなみに、このピカレスク・ロマンとは、
時に悪漢小説などとも訳されるけれど、
つまりは字義通り、
道義的に決して正しいとはいえない、
あるいは善ではないような種類の人物を、
主人公に据えて展開される物語群の総称である。


たとえば『太陽がいっぱい』とか、
あるいは『俺たちに明日はない』などが
まずは挙がるだろうかと思われる。

本邦なら代表格は『ルパン三世』だろうか。
でも『カリオストロ~』のルパンは、
徹頭徹尾善玉だしなあ。


むしろ『白昼の死角』辺りの方が、
この呼称にはよほど相応しいかもしれない。


だから、基本このパターンでは、主人公たちは
九分九厘ハッピー・エンドを迎えることはない。
やっぱりそういうことは許されないのである。

この点では、本作の二人も
残念ながら決して例外となることはない。


ここまで書いてしまってあれだけれど、
結末は実際に見ていただくのが一番いいのは
例によっていつものことである。
だから書かない。


ただ、一つだけ。ヒントにもならないけど。

この色々な意味で有名になった
ラスト・シーンのロケ地はユタ州の峡谷である。


その、いわば人の社会から隔離された
何もない広大さはまさに圧倒的であり、
同時に極めて象徴的で、名場面の舞台として
このうえなく相応しく、同時に美しい。



さて、なるほど最初の殺人に関して
二人の側の正当防衛が成立するか
どうかといえば、たぶん難しいだろう。

だがこうではない選択肢だってあったはずである。
まあいい方はあれだが、何年か服役すれば、
それで済む事件なのではないかとも思うのである。


確かに二人は思慮が浅いし、時に情けない。
それでもこの罰にまで値するかどうかは疑問が残る。


ではいったいどこがこの二人の回帰不可能点、いわゆる
ポイント・オブ・ノー・リターンだったのだろう。

自問するが、答えは見つかりそうにない。

結局のところ結末には十分納得しているのである。
この二人がたどる道はたぶんこれしかなかった。
こうでなければならなかった。


大袈裟ないい方をしてしまえば、
この物語はたぶんその最初の最初から
この場所に着地するよう定められていた。

気がつけばそんなことをぼんやりと
考えてしまっている自分がいる。
それくらいある種の感情移入をしている。


そしてこの点こそがまさに、本作が極めて
優れたフィクションである証拠なのである。


ちょっとだけ堅苦しいことをいうと、
こういう、普通の現実ではおそらく決して
通過することはないであろう場面や感情を
ある種ヴィヴィッドに想起させることこそが、
フィクションなるものすべてが、
果たすべき役割だと、常日頃から考えている。

まあ以前、どこかで似たようなことを
一くさり書いてもいるのだが。



なお、このテルマとルイーズには
モデルとなった人物がいるとされている。


なるほど導入となる部分の設定には、
実際の事件と共通する要素も
確かに見つけられるかもしれないけれど、
物語自体はまったく別のものである。

むしろ、同時期に起こっていた現実の犯罪に、
この難しいテーマをぶつけ、
こんなプロットへと練り上げた手腕こそが、
賞賛に値するのだと思う。


つまり、本作でリドリー・スコット監督が
描き出そうとしているのは、上でも触れたように、
日常性の中では決して顕現することのない、
いわば極限の中でしか生まれてこない種類の
ある意味何もかもを超越した関係性なのである。


さすがは『ブレードランナー』の監督さんである。
ちなみにこの人は最初の『エイリアン』や、あるいは
『グラディエイター』なんかも撮ったりしている。

もっとも近年の『悪の法則』には、
正直ちょっと行き過ぎの感があって、
少なからず辟易しもしたのだが。


でもたぶん、日常的には隠されてしまっている、
そうして多くの人が、そのまま眠らせたままで
一生を終える、いわば人間に本質的に備えられた
ある種の暗部みたいなファクターを、


どうにかして暴き出そうとでもいうような
この方の基本姿勢は、実はある意味ちっとも
変わっていないのかもしれないなあ、なんてことを
そこはかとなく感じたりもした次第である。