ラジオエクストラ ♭9 Zooey | 浅倉卓弥オフィシャルブログ「それさえもおそらくは平穏な日々」Powered by Ameba

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さらにさらに佐野さんを続ける。こちらは昨年の発表。
だから目下のところ最新作ということになる一枚である。

ZOOEY(初回限定盤)(DVD付)/佐野元春

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ちょっと悔しい気もするけれど、
今回は先に半分白旗をあげておく。


佐野さんには本当に申し訳ないのだけれど、
この凄さ、たぶんすごく伝えづらい。
実はある意味で僕は先に御本人から
答えを聞かせてもらってしまっているせいもある。


デビュー30周年という節目を越えて
この佐野元春という巨人が次に選んだ挑戦は
おそらく一貫して守られてきた自身の
ソングライティングのスタイルに対するそれだった。

今度のアルバムは全曲詞先で書こうと思っているんです。

そう御本人から教えていただいたのは、
ある打ち上げの席でのことだった。


詞先、曲先については、もしわからなくても
大体はお察しいただけるのではないかと思う。
字義通り、リリクスとメロディのどちらから
先に手をつけるかということである。

たとえばビートルズのAll You Need Is Loveが、
メロディから先に作られたはずはたぶんない。
このテーマについてはジョンにいいたいことが多過ぎて、
結果旋律はもちろん、リズムまでが少なからず
いびつにならざるを得なかったとしか考えようがない。


逆にストーンズのHave You Seen Your Mother, Baby,
Standing in the Shadow? なるトラックが
(それにしてもタイトル長いな)
歌詞から先にできていたはずもないと思われる。
なんとなればこのサビのリフは、採用されている
ブラスのモチーフにあまりにはまり過ぎているからである。


まあ事実が違っていたらちょっと恥ずかしいけれど、
たぶん大丈夫ではないかと思う。

そういう訳でZOOEYである。何が凄いか。

だからこれまでとは真逆な方法論で作られたはずなのに
過去の作品群と比べてまるで違和感がないのである。
この点はすべてのトラックに共通している。
やっぱり全部佐野元春の音楽なのである。


たとえばオープニング・トラックのGlace。
邦題は「世界は慈悲を待っている」とつけられている。
モータウン・ビートにポール・ウェラー・チックな
コードワークを載せて、独特な雰囲気を作り上げている。
なお、個人的にこういうアプローチはやはりツボである。

だから、え、このバッキング・パターンが
まず最初にあったんじゃないのかな、とか、
普通に思ってしまうのである。


三曲目の収録で、最初の先行シングルとなっていた
La Vita e Bellaにもやはり似た印象がある。


シンプルでかつ新しい三音のスケールのモチーフが、
歌の開幕から曲を決定づけてくる。
歌詞の載せられている旋律は、このリフレインと
完璧に調和しているように思われる。

だから音楽として、やっぱりつけ入る隙がないのである。

ただ繰り返し聴くうちになんとなくだけれど、
気づかされてくることがあるのも本当である。


どういうのだろう、佐野元春という一人の人間が
かつて一度としてなかったほどに生々しい。
そんな気がするのである。

たとえばLover ’s Rockというトラックがある。
もっともこれについてはおそらくは
「食事とベッド」という邦題の方が先に。
あったのではないかとも思うのだけれど。


この意味するところはたぶん、生活であり人生である。
英語でいうところのLifeであり、ということはつまり
生そのものをも仄めかそうともしているのだろうと思う。


その曲に、二人はピーナッツ、なんて表現が出てくる。
作者が寄り添う誰かがすごくはっきりとそこにいる。

ほかの箇所にも、なんとなく極めて個人的な感情が、
見え隠れしているような気がするのである。
それはどこか皮膚感覚に通じるような手触りである。


なるほどだから、音楽が要求するイメージから離れた時に
御自身からまず最初にどんな言葉が出てくるのか。
そういう試みを、今回は徹底されたのかな、とも
思ったりしているところである。


あるいはこの曲の直前にはSuper Natural Woman
(「スーパー・ナチュラル・ウーマン」)という
トラックが収録されている。

冒頭の歌い出しの部分は、確かに詞が先に
あったのかもしれないな、とも思わせる。


そしてこの曲中「刹那」と書いて、では佐野元春は
これをどう読むのか。どう歌い上げるのか。
そこがこのアルバムの一つの聴き所では確かにある。


たぶん、この言葉をメロディーに載せてしまったのは
少なくとも邦楽では初めての試みではないだろうか。
これ、ラジオなりでオンエアされるのかな、と
ちょっとだけ心配になってしまいさえした。
まあそれは聴いてみてのお楽しみということで。


前作のCOYOTEと、それからこのZOOEYとで
改めてはっきりと気づかされたことがある。
おそらくは佐野さんは今、明確に意識的に
アルバムという文化を守ろうとされているのだと思う。


それは先だって触れたSgt. Peppersが切り拓き、
邦洋問わずに様々なアーティストが、
それぞれに熱意と独創性と、
それからチャレンジ精神ともいうべきもの、
そういった個々の武器を極限まで駆使して、
綿々と継承してきた一つのスタイルである。


もちろんこれが、LPレコードという
ある種パッケージ側の技術的な都合によって
幾つかの制限を加えられて成立していた
文化であることはどうしたって否めない。

それがCDの登場により、なし崩しに
衰退を始めてしまった。そしてこの形式は
おそらく今、ぎりぎりの崖っぷちにいる。


しかしそれは、一時間にやや欠ける時間の中で
繰り広げられる、様々な表情を有しながら
同時に一つのテーマを変奏した
一編の物語としてそこにあった。存在していた。


このまま見捨てられてしまうには
あまりにもったいない様式である。

だからこその、この今回のZooeyによる
クロージングなのではないかだろうか。
そこはかとなくそんなふうに感じたことも本当である。


正直最初は、あれ、と思った。
これで終わるの? と戸惑った。
あのVISITORSに覚えた当惑と、
どこか似ていなくもなかった。


でも二度目を聴いて、ちょっと待て、と気がついた。
このZooey、いわゆるスリーコードのみで
できあがっているのである。

基音と、それから四度と五度の音階に載せた、
いわゆるメジャーコード。
その三つだけ。それ以外の和音は一切出てこない。


つまりはこれ、いわばロックの基本中の
基本のスタイルなのである。


もちろん、基本であればこそ、
佐野元春とコヨーテ・バンドが
同曲で繰り広げている演奏には、
かつてこのコードワークに載せられなかった
パターンを探し出そうという熱気が漲っている。

そうか、この人はこの時代にこれをやるんだ。そう思った。
不意にあのABBEY ROADにレノンが書いた
I Want Youを思い出したりもした。


音楽とはなんだろう。
言葉とはなんだろう。


様々な装飾を極限まで切り詰めた時、
そこに立ち現れてくるものは、
いったいどんな姿をしているのだろう。

たぶんこのトラックが投げかけているのは
そういう問いなのではないかと思う。


そう思って同曲の歌詞を読み返してみると、
他の収録作品とは明らかに手触りが異なっていた。


それまで感じていた、ミニマリズムにも通じる
手触りは跡形もなく消え失せて、その代わりに
ある種の普遍性へと向けまっすぐに伸ばされた
一本の腕を見つけることができるような気がした。


本当に佐野さんという方は、
フロンティアに立ち続けることを
決して止めようとはしない、極めて稀有な
アーティストなのだなあ、と改めて感じる。


そのスタンスにはやはり心底感服してしまうし、
ジャンルこそ違え、これからもずっとお手本とすべき
存在なのだな、とつくづく考えてしまうこの頃である。