003、平成27年3月14日(土)に久留米大学公開講座で講演
平成27年3月14日(土)に、久留米大学の公開講座で講演をしました。当日の演題は「邪馬台国は女王麻氐良の都だった」でした。当日配布したレジュメを下記に掲載します。
当日の講演の様子は、YouTubeで公開していますので、「井上悦文」もしくは「久留米地名研究会」のホームページから検索して、ご視聴ください。
記
耶馬臺国は麻氐良国の都だった
邪馬台国の名は、江戸時代に発表され、これまでに沢山の学者や研究者が解明に挑んできました。しかし現在なお解明できていません。本文は漢字の棒書きですが、固有名詞部分は「借字」で、そこに誤字が存在するからです。これまで、誤りの原因は「魚魯の間違い」と思われてきました。しかしそれは誤りです。
これまで、一部には篆書体との異論もありましたが、現存する写本が「楷書体」のことから、原本の書体も楷書と思い込んできました。しかしそれも誤りです。三国志の原本の書体は草書であることが判明しました。
魏志倭人伝の借字の解読には、3つの要件があります。
1つは、当時やその後の日本国内の地名に同音地名が存在するかです。
2つは、当時の発音です。これまでは音読みの方法が多く採用されてきました。しかしこれは誤りです。音読みは、三国志の成立よりもずっと後の発音です。いまだ、当時の正確な発音は解明されていませんが、少なくとも中国古音(上古音・中古音・古音)を参考にする必要があります。
3つは、日本には「仮名」があります。「仮」は借用の意で、「名」は字の意です。つまり「借字」と同一です。仮名は「音読み」の音韻中の音のみで読む特徴があります。よって、「借字」も音韻中の音読みで読むべきです。
この方法で解読すれば、邪馬台国に至る倭国内の6国の比定地が判明します。対海国の「海」は「馬」の草書殺字の誤りで、対馬の読みは「ツィマ」で対馬と判明します。一大国の「大」は「支」の誤りで、一支の読みは「イキ」で壱岐と判明します。同様に末盧国は「マツロ」から「マツラ」に変化して松浦であると、伊都国は「イト」で怡土と、奴は「ノ」が「ナ」に変化して那珂と、不彌国は「フミ」が音韻変換で「ウミ」に変化して宇美であると判明します。
同様にして、女王卑弥呼が制した21国を解読すれば、好古都国は「ハカタ」で現在の博多と、斯馬国は「シマ」で志摩と、支惟は「キイ」で基肄つまりは基山と判明します。また、躬臣国の「臣」は「須」の誤りで、躬須の読みは「クス」で玖珠と、都支国の「都」は「越」の誤りで、越支は「ヲキ」で小城と判明します。このように21国の比定地が次々に判明します。
よって、邪馬台国に至る6国や、女王卑弥呼が制した21国の比定地が、北部九州に集中することから、邪馬台国連合が北部九州に、狗奴国連合が中九州に、殺馬国連合が南九州に存在していたことが、そして、魏志倭人伝の「倭国」は九州のことであることが判明します。
旅程記事は、本文が漢文棒書きのため、「伊都国起点放射説」等もありますが大方は「順次説」と考えてきました。しかし里程と日程の混用記事で里程を先に記すことはなく、真の旅程は「帯方郡起点放射説」であることが判明します。
里程は、「長里説」・「短里説」とありますが、『隋書』や『大唐六典』から見れば固定里でなく、日を以て里を換算する「日里換算」です。
狗邪韓国から末蘆国は各千餘里ですが、手漕ぎ実証実験では各一日行程で、千餘里が一日の水行旅程と立証されます。
「南至投馬国水行二十日」の記述から、帯方郡から殺馬国の日程旅程は水行二十日です。帯方郡から末蘆国の水行は一万餘里で、十日です。
末蘆国から殺馬国間は「水行十日」つまり「一万餘里」です。周旋は円周の基準つまり半径であり、「周旋五千餘里」と完全に一致し、九州の半径と同一です。よって魏志倭人伝の記述は正確であることが立証されます。
「邪馬壹国」は、他の正史中では「邪」が「耶」、「壹」が「臺」であり、「耶馬臺国」です。これを中国古音音韻中の音のみで読めば「ヤマダ国」です。
不彌国からの「残理数」は「六百里」です。不彌国から六百里の「ヤマダ」は、西暦661年に、斉明天皇が百済救済の援軍派兵の為の宮造営の木を伐った「麻氐良布神社」、朝倉山の「麻氐良山」、そして、斉明天皇「御陵」のある「山田」であると考察されます。
麻氐良布神社の「布」と「須」の草書の殺字は同一で、置換して読み直せばアマテラスで、日神の天照大神と同音です。また、日神子・日御子・日巫女の読みは「ヒミコ」で、邪馬台国の女王の名の卑弥呼と同一です。
朝倉の由来は謎です。しかし、「麻氐良」の「氐」の正式書体は「弖」で、草書の殺字は「久」と同一です。よって「弖」を「久」に置換して読み直せば「麻久良」で「アサクラ」つまりは「朝倉」と同一です。
朝倉の名の初見は、日本書紀斉明天皇条の「朝倉山」・「朝倉の杜」です。しかし朝倉には同名の山や社はありません。しかしこれには、麻氐良布神社や麻氐良山が該当しています。日本書紀の「朝倉」にはこの謎が隠されていました。斉明天皇はその正体を熟知していたので、麻氐良布神社の木で麻氐良山麓に「朝倉橘広庭宮」を造営し、半島出陣の陣頭指揮にあたったのであると考察されます。
また、神道の禊払いの祝詞の「チクシのヒムカのタチバナのオドのアハキ原に禊し」にも、邪馬台国の謎解明の鍵が隠されていたのです。
(* 公開講座の配布レジュメを基に、一部補正しました。)
以上
以上が、当日の配布のレジュメです。YouTubeで公開している当日の講演の様子と一緒にお楽しみください。