これまで「玉柱屋姫命」を次の諸ブログ文で取上げるも、いずれも、伊勢・志摩の領域内での考察でした。
   ・志摩の祭祀1    別宮・伊雑宮の謎                2023年04月20日
       ・志摩の祭祀3    神乎多乃御子神社の謎ー狭依姫命ー                    2023年05月16日
       ・志摩の祭祀7        伊射波神社ー伊佐波登美尊・玉柱屋姫命ーの謎      2023年06月15日

 だが、伊勢・志摩国の領域外に祀られる伊雑皇太神(伊佐和登美命・玉柱屋姫命)のケースが出て来ます。

 それが「おくわさまの真実」です。
   ・志摩の祭祀8        おくわさまの真実ー御鍬祭と鍬神神社                2023年06月18日

  更に、調べを進めると、話は東国に飛びます。それが本ブログです。ご覧下さい。


目次 (1) 東国における玉柱屋姫命の祭祀
       <1> 磯部稲村神社
       <2>  玉柱屋姫命:その他の常陸祭祀
                             <2-1> 鷺杜神社
           <2-2> 五十部神社・磯部神社
           <2-3> 「磯」(磯部・磯前・磯浜)の地に神社を探す
       <3> 「常陸国の磯部と玉柱屋姫命との結びつき」の示唆
   (2) 伊勢荒祭宮・磯宮
       <1>  荒祭宮
       <2> 倭姫世記に見る磯宮
       <3> 磯宮と伊蘇宮
                 <3-1>  伊蘇上神社
           <3-2>  磯 神社
        (3) 磯部女神・玉柱屋姫命の常陸祭祀の上古史上の意味
                 <1> 磯部稲荷神社と荒祭宮・磯宮との祭神比較

                 <2> 読み(推測)筋は大凡確認された
                 <3> 伊勢志摩の磯部神の祭祀分布
                 <4> 磯部女神・玉柱屋姫命の常陸祭祀の上古史上の意味
        
(1) 東国における玉柱屋姫命の祭祀

 志摩の女神・玉柱屋姫命は常陸に鎮座していたのです。その憩いには何の疑問もありません。
 だが、そこに至った経緯には多くの謎が秘められているようです。

<1> 磯部稲村神社

  磯部稲村神社は、常陸国久慈郡の式内社で、そこには志摩の女神・玉柱屋姫命が祀られています。
      ・磯部稲村神社(桜川市磯部字稲置)東海道神 常陸国 久慈郡 稲村神社
         祭神:天照皇大神・栲幡千々姫命・瀬織津姫命・木花佐久耶姫命・天太王命・玉依姫命・
                  天手力雄命・玉柱屋姫命・天宇受売命・倭姫命・天児屋根命・日本武尊
         摂社:鹿島社、香取社、諏訪社、息栖社、小聖社、足玉社、蔵王社、天神社、浅間社、稲荷社、
                  神前社、咳嗽社(御手洗)、外に、末社32社を祭る。
         由緒:景行天皇40年10月、日本武尊、伊勢神宮の荒祭宮・礒宮を此の地へ移祀したと伝わる。
         沿革:939・天慶二年、平貞盛、将門追討祈願、常陸西大社稲田姫神社関係文書(常陸国分寺極楽寺蔵)
                                 に新治郡礒部稲村宮として常陸28社(延喜式内社) の一に載せられ、
           ・849・仁明天皇嘉祥2年,水旱の際に折鏡ヶ池(桜川の源)で祈雨祭執行が伝わる。
             ・更に人皇108代後水尾天皇、礒部大明神の勅額を賜る(現存)。
        ・宮司:磯部 亮                         (出所) 櫻川磯部稲村神社(公式サイト)・磯部稲村神社(茨城県神社庁)


  この神社の祭神・由緒を読むと、その意味(示唆)する処は大きいと感じます。

  上の赤字部分を抜き出すと次の如くです。
   1 祭神の一柱・「玉柱屋姫命」は伊勢・志摩に祀られている女神です。
   2 由緒は「日本武尊、伊勢神宮の荒祭宮・礒宮を此の地へ移祀した」とします。
   3 勅額は「磯部大明神」
   4 宮司は「磯部」姓の方です。

 見事に揃ったこれらの「伊勢・磯部」情報は相互に関係がありそうです。
  

   一つの「読み」をお示ししましょう。
   読み(推測)筋:
   ・伊勢・志摩の磯部族は祖神・部族神を掲げて当地に至った。
     ・その祖神・部族神の中の代表として「玉柱屋姫命」がここに祀られています。
   ・磯部大明神は、社伝によれば、「伊勢神宮の荒祭宮・磯宮」の移祀に由来します。

   ・17世紀には、後水尾天皇から「磯部大明神」の勅額を賜ります。
    それは「磯部族の祖神社」としての公認を意味します。
   ・現宮司が磯部姓なのも「磯部尽くし」を感じさせます。

 この読みを信じて、後程、伊勢神宮荒祭宮・磯宮とのつながりを考える事になります。

<2>  玉柱屋姫命:その他の常陸祭祀

<2-1> 鷺杜神社

 玉柱屋姫命の常陸での祭祀は、磯部稲荷神社だけではなく、鷺社神社(日立市)が出て来ました。
   この鷺社は泉神社(日立市水木町)の境内社で、泉神社は 常陸國久慈郡の式内社・天速玉姫命神社の論社とされており、天速玉姫命は、紀記には記載がなく、延喜式の常陸國久慈郡の式内社・天速玉

姫命神社の祭神ですが、「式内・天速玉姫命神社」そのものは現存しません。
                ・鷺杜神社(日立市水木町-泉神社境内社) 祭神:天玉柱屋姫命

 そこで、泉神社も鹿嶋神社(常陸太田市春友)も天速玉姫命を祀る故に「天速玉姫命神社」の論社(式内社の後継候補)となっているのです。
   ・泉神社・祭神:天速玉姫命、              常陸國久慈郡の式内社・天速玉姫命神社の論社
   ・春友鹿嶋神社(茨城県常陸太田市春友町箭之根山)式内社 常陸國久慈郡 天速玉姫命神社
      祭神:武甕槌命 天速玉姫命
      由緒:創祀年月・由緒は不詳。式内・天速玉姫命神社の論社の一つ。
         鎮座地名である春友が、昔は「速玉」と呼ばれていたという伝承があるらしい。


<2-2> 五十部神社・磯部神社

   常陸太田市磯部町の五十部神社は熊野神・鹿嶋神を祀る故に熊野鹿嶋神社とも云うようです。

   祭神には期待した神を含みませんが、磯部町の五十部イソベ神社ですから、磯部族の祭祀を推測させますので、参考とします。
    ・五十部神社(熊野鹿島神社、常陸太田市磯部町)
       祭神:伊弉諾命・武甕槌命
             ・常陸太田市磯部町では、縄文時代の峰遺跡や峯山・磯部古墳群が見つかっている。


   五十部神社は磯部神社だろうと思われるのですが、現存情報は精度が乏しく、亦、地名・磯部町であるのにも関わらず、祭神は、磯部祖神の名残はなく、鹿島神に換えられています。

 亦、福島県いわき市には「磯部神社」が鎮座するも、祭神は不詳となっています。
        ・磯部神社(福島県いわき市川部町北ノ内)祭神:不詳

<2-3> 「磯」(磯部・磯前・磯浜)の地に神社を探す

   更に拡げて、常陸国とその近辺に、「磯」地名、及び、「磯部神社」を探します。
 次の如くです。
    ・地名・磯部在の神社を探す
      ・相馬市磯部・古磯部、
      ・古河市磯部・香取神社(古河市磯部)祭神:経津主命、
                境内:熊野神社(久須毘命)、青龍社(豊玉姫命)、稲荷社(倉稲魂命)、
                                                            天神社(天穂日命)、神明社(天御中主命)
                ・その他古河市磯部在の神社・・浅間社・雷電神社・八坂神社
               ・桜川市磯部   ・・磯部稲村神社
       ・常陸太田市磯部町・・五十部神社
                 ・つくば市磯部  ・・白銀神社(つくば市磯部306)
       ・安中市磯部   ・・JR磯部駅、磯部温泉、磯部1~4丁目、

       ・相模原市南区磯部・・磯部八幡宮(相模原市南区磯部1388)
             ・相模原市南区磯部・・御嶽神社(下磯部)、磯部八幡宮
       ・大洗町磯前・磯浜

 
 参考用のおさえとしては、一応のレベルだとして、これ以上の模索は打ち切り、地図上に

その位置関係を示します。

 

 

<3> 「常陸国の磯部と玉柱屋姫命との結びつき」の示唆

  この常陸国の磯部と玉柱屋姫命との結びつきは「玉柱屋姫命こそ磯部氏祖神だ」ということを示唆していると見ます。別に、伊佐和登美命が磯部氏祖神だとする説がありますが、・・。
 「志摩祭祀」の検討上、これが今回の東国での最大の収穫です。
<参考情報>
     ・伊勢内宮で荒祭宮にはアマテラスの荒魂として瀬織津姫命が祀られ、当社では「厄祓い・方位・方災除け」の神徳

        で祀られている。
   ・志摩国一宮の伊雑宮の由緒に見える玉柱屋姫命が当社に祀られていること。
   ・伊雑宮の祭神は、804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされるものの、中世から近世の祭

        神には諸説あり、中世末以降は伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命(亦は玉柱屋姫命)の2座

        を祀ると考えられた。
    ・伊雑宮御師・西岡家文書では、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれる。同じ箇所に            「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある。つまり天照大神の分身とされるこの神は、郷に在るときは「玉柱屋姫神」

       と呼ばれ、河に在るときは「瀬織津姫神」と呼ばれるだけで、この両神はつまるところ同じ神と記されている。
   ・明治以降、伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされる。(神宮要綱)


(2) 伊勢荒祭宮・磯宮

  常陸(茨城)の磯部稲村神社の社伝は「景行天皇40年10月、日本武尊が伊勢神宮の荒祭宮・礒宮を此の地へ移祀した」と云いますので、伊勢・志摩の「荒祭宮」・「磯宮」を確める事にします。

 

<1>  荒祭宮

  荒祭宮は伊勢神宮・内宮第一別宮とされ、その祭神は天照大神荒御魂とされています。
      ・荒祭宮(伊勢神宮 内宮第一別宮)祭神:天照大神荒御魂

  補足すれば、天照大神荒御魂は瀬織津姫命のことだとする見方があることです。
 この見方がベースにあるからでしょうか、常陸国の磯部稲荷神社の祭神には瀬織津姫命が含められていることを確認します。
 

<2> 「倭姫世記」に見る磯宮



 「倭姫世記」の記す注目四神社の現在を調べると、次の様です。
──────────────────────────────────────────── 
1 佐々牟江宮:
  「倭姫世記」:佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き

         申上げ、そこに佐々牟江社を定められた。 
          ・現在:竹佐々夫江神社(多気郡明和町山大淀)式内社 伊勢國多氣郡 「竹」は「多氣」の様です。
                    祭神:建速須佐之男命、
                    配祀:大歳神 栲幡千千姫命
                    合祀:明治40年12月、境内社:八握穂神社、山大淀天王鎮座の津島神社。
           ・八握穂神社:垂仁天皇二十八年秋、白夜真名鶴が北より皇太神宮に飛来し、鳴き止まないので、

                                           倭姫命は不審の思い、足速男命に命じて鶴の行方を探させた。

                 ・鶴は佐々牟江宮前の葦原の中へ帰って行き、八百穂に茂る稲を咥えて鳴いていた。

                                           倭姫命はこれを喜び、竹連吉比古等に命じて稲を刈り取らせ懸税とし、鶴の住む所に

                                           八握穂社を造営したと云う。
  2 大与度社
    「倭姫世記」:そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は悦ばれ

                           て、その浜に大与度社を定められた。
       ・現在:竹大與杼神社(三重県多気郡明和町大字大淀乙)式内社 伊勢國多氣郡 
                   祭神:建速須佐之男命
                               由緒:往古は大与杼社と称し、当地の産土神として海神・豊玉彦命を奉斎したと云う。
                   ・明治の神社明細帳には、従来、「二天八王子」と称されたとの記述がある。
               ・明治四年神宮制度改革まで、皇大神宮八十末社の一で、神宮が管理していた。
                   合祀:大山祇命 蛭子命 春日神 住吉神 誉田別命 菅原神 綿津見命 霊符神 白峯神  不詳十座
                     ・明治40年、地区内の25社を当社に合祀、竹大与杼神社と単称した。


  尚、本命の「磯宮と伊蘇宮」とは、次に別立てで検討しますので、ここでは「倭姫命世記」の記述のみを引用します。
  3 礒宮 & 4 伊蘇宮
      「倭姫世記」:天照太神、倭姫命に教へて宣うに「この神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪帰す国なり、傍国の

                           可怜国なり、この国に居らむと欲ふ」と。太神の教への随に、宮祠を伊勢国に立て、斎宮を五十鈴

                           川上に興された。これを礒宮といふ。天照太神の始めて天より降りし処なり。
                    ・二十五年[丙辰]春三月、飯野高宮より遷幸して 伊蘇宮に坐す。この時、大若子命に「汝がこの国の

                          名は何そ」と問ふと「百船度会国玉綴ふ伊蘇国」と申上げて、御塩浜・林を定めて奉った。
                                 (出所):「倭姫世記」 神話の森「倭姫世記」

──────────────────────────────────────────── 
 

 「倭姫世記」の文章では、「磯宮」は伊勢国・斎宮(五十鈴川上)、「伊蘇宮」は百船度会国玉綴伊蘇国とあり、これでは、「磯宮」と「伊蘇宮」とは、同じなのか、別なのか、は俄に判定し難いです。
 

<3> 磯宮と伊蘇宮

 「磯宮と伊蘇宮」については、伊蘇上神社(多気郡・多気町相可)と磯神社(度會郡・伊勢市磯町)の二社が実在しますので、夫々を検討します。

  「日本書紀」では次の様にあります。
  ・大神の詞の儘に、その祠を伊勢国に立て、斎宮を五十鈴川の畔に立て、磯宮と呼んだ。       

   天照大神が初めて天降られた処である。(垂仁天皇25年条)
  ・一説に、天皇は倭姫命を依代として天照大神に差し上げられると、倭姫命は天照大神を   

   磯城の神木の本に奉斎の後、神告を受けて、垂仁天皇26年10月甲子、伊勢国の渡遇宮   

   にお移しした。
    注 「古事記」:(垂仁天皇段に伊勢国への遷宮譚はなく)、
        景行天皇四十年冬十月二日、日本武尊は東征に出発、七日、寄り道をして、伊勢神宮を拝まれ、

        倭媛命にお別れのご挨拶をします。「天皇は吾に死ねとお考えなのでしょうか。西の悪人を撃ち、

                        帰り来るや、未だ幾ばくも時間が経たないのに、今度は、軍衆を賜らない儘、東方十二道の平定

        に遣わされます。これは吾を死ねとお考えなのです。」と。

            倭媛命は日本武尊に草薙剣を授けて励まします。
              注 これは太安万侶が作文した倭建命の愚痴です。勿論、正史「日本書紀」はそんな人品を貶める話

         は書きません。日本武尊は副将を授かり、威風堂々出陣したことになっています。

  磯宮は「玉岐波流・礒宮」(皇太神宮儀式帳)だとされ、伊蘓宮(倭姫命世記)に同じとも云います。
  磯宮と伊蘓宮とは同じ読みなのです。

<3-1> 伊蘇上神社

 「伊蘇上神社」は字地名・磯部寺に鎮座していた式内社ですが、中世、既にその祭神は不詳と

なっていたようです。                   ・延喜式神名帳:伊蘇上神社 伊勢国 多気郡鎮座 

  「神社覈録」*は「上和可村磯部寺森中に相鹿木太神社と並び在す」としながらも、「祭神詳ならず」と記しています。        *鈴鹿連胤著、全75巻。1836・天保7年に起稿、1870・明治3年完成。

 磯部寺は、神宮寺思想が強い時代に、磯部氏の祖神祭祀社の別当寺だったのです。
          ・磯部寺は伊蘇上神社の別当寺であった。早くも953・天暦7年の「近長谷寺資財帳」がそれを

            記しています。                                                          (出所) コトバンク「磯部寺跡」
 明治になって多くの神宮寺は廃寺とされますが、ここでは地名・磯部寺は遺ったのでしょう。

 伊蘇上神社はその磯部寺の跡地にあった、と云いますから、同じ敷地内です。
       ・相鹿上神社はその跡地を受け継ぎ、しかもそこにあった伊蘇上神社を合祀していますから、

          伊蘇上神社は土地も祭祀も「奪われた」カタチなのです。

  ここからは憶測ですが、磯部寺が廃寺となる時、伊蘇上神社は残されたのでしょう。

 だが、その祭神を「大彦命」とすることはやや唐突です。伊賀国に大彦命の祭祀を想定するのならば判りますが、この多気の地に大彦命の後裔の活躍を想定するのはやや無理があります。それでも、大彦命の神性の偉大さ故に「祭神」として許されたのでしょう。

 伊蘇上神社は、今、相鹿上神社に合祀されており、現・祭神は、「延喜式神社の調査」や「玄松子の神社記憶」では大彦命とされていますが、「相可町史」は天日別命を挙げています。
   式内・伊蘇上神社(相鹿上神社に合祀、多気郡多気町相可)伊勢国 多気郡鎮座
      祭神:大彦神
      異説:「神名帳考証・延喜式神名帳僻案集・伊勢式社案内記・布留屋草紙・勢國見聞集」大彦命
           「背書國誌騒・伊勢國誌・勢陽俚諺」 姫大神
             「勢陽五鈴遺響」          多気連祖宇賀彦神の子・吉比古・吉比売
               「相可町史」            天日別命
      由緒:不詳、江戸時代は「八王子」と称していた、享保15年(1730)社僧や村長等が習議して社殿

                           を改める。明治41年5月12日、当地に相鹿上神社が遷座、相鹿上神社に合祀
    関係氏族:礒部氏・度会氏
      別当:礒部寺は無量山見初院伊蘇上神宮寺(見初寺)と称したと云う。明治6年廃寺となる。
         江戸時代、礒部寺前の森中の小祠「八王子」が当社と考えられていた。

                          境内の南東隅、「式内伊蘇上神社 明治13年11月2日 神宮彌宜正七位東吉貞謹書」との                          自然石碑が建つ。
    祖神祭祀:礒部氏の祖神を祭つたものと考えられ、礒部氏同族の度会氏の祖神・天日別命を祀ったと思われる。
                                                 (出所) 「延喜式神社の調査・伊蘇上神社」&

    
だが、明治末期の「一村一社令」で神社統合の時には、容赦ない統合強行策により伊蘇上神社は相鹿上神社に合祀され、伊蘇上神社祭神については議論はされず、大彦命がそのまま相鹿上神社の合祀神として組み込まれた、と推測します。

 

 磯宮を伊蘇上神社とする見方は「太神宮儀式解」(荒木田経雅著、1847・弘化4年)にある由ですが、未確認です。図表2でも、例えば「神名帳考証」にそのような見解が述べられている事を確認します。

 かくて、「伊蘇上神社
(磯部寺)の祭神は大彦命」は「延喜式神社の調査」や「玄松子の神社記憶」でも同じですが、「神社覈録」の指摘があるので、疑義は遺るのです。



 図表2     伊蘇上神社に関する明治以前の先人の記述
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   ・神名帳考証 :伊蘇上神社、今在上相可磯邊寺前森中、云磯宮、大彦命、
  ・倭姫命世記 :垂仁天皇25年、從飯野高宮遷幸伊蘇宮、
   ・続日本紀  :神護景雲元年4月癸巳、伊勢國多気郡人外正七位下敢磯部忍国云々、
          宝亀6年5月、伊勢国多氣郡人敢磯部忍國等五人賜姓敢臣、
  ・神名秘書裏書:伊蘇宮、在多気郡逢鹿村字古宮本、
  ・神社覈録  :伊蘇は假字也、上は賀美と訓べし、祭神詳ならず、
          上相可村磯部寺森中に相鹿木太御神社と並び在す
  ・神祇志料  :伊蘇上神社、今上相鹿村磯部寺前森中にあり、磯宮と云ふ、
─────────────────────────────────────────────────────
   (出所) 明治神社誌料:原文は「相鹿上神社」(延喜式神社の調査)に収載され、様々な資料を引用・                            総覧しており、有益だと見てここに引用・編集します。

 
<3-2>  磯 神社

  「磯神社」は「倭姫命世記」の記す「磯宮」である可能性は大です。

  「倭姫命世記」の原形が「皇大神宮儀式帳」の倭姫命巡行記事に見られ、それを潤色したカタチで「倭姫命世記」が完成されていると思われます。

    注「玉岐波流磯宮坐、次百船度会国」(皇大神宮儀式帳ー804年)は「(垂仁天皇)廿五年春三月、従飯野高宮遷幸于

   伊蘇宮令坐、干時、大若子命問給、汝此国名何、白百船度会国玉伊蘇国」(倭姫命世記)と替えられています。

 
別には、その直後に出された「大同本紀」(806~808年)を原形とする見方もあります。
    注  こうした事から、一応、基本的には「倭姫世記」は使えると判断してこれまで利用してきたのです。

 
「倭姫命世記」は磯宮と伊蘇宮を別な宮として記している様に読めます。
 伊蘇上神社は磯宮に比定できるかを考えたのが前項の記述ですが、磯宮と伊蘇宮は音が通じており、紛らわしいです。しかも、別に、磯神社が現存し、こちらも磯
(伊蘇)宮を標榜するのです。

 「延喜式神名帳」には、度会郡に「磯神社」が見え、多気郡に「伊蘇上神社」が見えます。

 だが、伊勢神宮の攝末社・所管社内には「磯宮・伊蘇宮」の名が見えず、亦、「磯宮・伊蘇宮」との関連を示す直接的な史料は存在しないと云われます。
 その意味で、「磯宮」を「磯神社」とのいずれと比定する確実性は乏しいのです。
 大勢は「伊蘇上神社」に言及することなく、「磯神社」を式内社に比定しています。

 

   磯 神社は「磯宮=伊蘇宮」の行宮跡に建てられたと伝わります。
   ・磯神社(伊勢市磯町字権現前)式内社 伊勢國度會郡 礒神社
     祭神:(正殿一座)天照坐皇大御神、
        (相殿二座)豊受毘賣大神、木花佐久夜毘賣神
         境内:宇都志国玉神(清濱社)・菊里姫神(白山社)・大山津見神(山神社)
             由緒:垂仁天皇25年3月創立、明治になつて「八王子社」を「磯神社」と改称

        当社創建は古く、「皇大神宮儀式帳・延喜式神名帳」に社名記載あり。

       ・「倭姫命世記」によると、垂仁天皇25年3月、皇女倭姫命が天照大神の大宮地を求めて諸国を御巡幸。 

        皇大神を奉じて「伊蘇宮・磯宮」に遷幸されたのが創祀である。
       ・大御神が宇治郷五十鈴川上の現在地に御鎮座後もその行宮旧跡は大切に守られていたが、         後年の宮川の洪水で崩壊したため、現在の伴信友著「神名帳考証」に記載されている「八王子社」

        の社地に移遷した。 
       ・明治41年、境内社「清濱社」、無格社「本殿社」、無各社「山神社」二座を合祀した。
       ・「延喜式内神名帳」の伊勢国度会郡の磯神社がこれであり、延喜式内郷社に列せられた。
       社名:「延喜神名式」諸本「イソノ」と訓み、異訓なし。
                   伊勢国度会郡十三郷の一郷として「伊蘇」があり(和名抄)、当社の社名は鎮座地の郷名に                                        由来するものであらう。 (出所)「全国神社祭祀祭礼総合調査」 神社本庁(平成7年)
                参考:「神社覈録」・「明治神社誌料」・・「延喜式神社の調査」にあり。

 
磯神社の最大の特徴は、伊勢神宮の主祭神・天照坐皇大御神を祀る点です。

(3) 磯部女神・玉柱屋姫命の常陸祭祀の上古史上の意味

  「磯宮」の追求成果は必ずしも芳しくありません。曖昧さが遺るのです。
  それでも、祭神情報は得ましたので、磯部稲荷神社と荒祭宮・磯宮との祭神比較を行います。

<1> 磯部稲荷神社の祭神との比較

 礒部稲村神社(常陸の磯部神祭祀)の社伝にある「景行天皇40年10月、日本武尊が伊勢神宮の荒祭宮・礒宮を此の地へ移祀した」を信じて、しかし、実際に、その荒祭宮・礒宮と礒部稲村神社の祭神を比較対照して初めて、この「社伝」の真実性は明らかになるのです。

 準備は色々と手を尽くして難渋しますが、比較は 図表3で一覧でき、簡単です。
         ・荒祭宮の祭神は天照大神の荒魂です。
   ・磯宮は式内社二社(伊蘇上神社と磯神社)を候補に祭神を見ます。

 

  この図表3の観察結果は次の様です。
   1磯部稲荷神社の祭神(上から三神)は伊勢内宮の祭神と同じで、対応が採れています。
   2瀬織津姫命は天照大神荒御魂の別称とされています。
      1・2は磯神社・荒祭宮の祭神に対応し、木花佐久耶姫命も磯神社境内社に対応しています。
     3玉柱屋姫命を磯部女神として注目しますが、その祭祀は、磯神社・伊蘇上神社には見出せず、

        だが、近隣社(稲葉神社・高茶屋神社)&志摩二社(伊雑宮・伊射波神社)に見出します。
   4玉依姫命~日本武尊までの六神は伊勢志摩の磯部神祭祀社に対応していません。
     ・伊蘇上神社が合祀された相鹿上神社は天児屋根命を祀るも、これは比較対照すべき筋では

         ないのです。

  礒部稲村神社の社伝「景行天皇40年10月、日本武尊が伊勢神宮の荒祭宮・礒宮を此の地へ移祀した」は「伊勢・志摩の荒祭宮・磯宮」の祭祀とは厳密には対応がとれませんでしたが、まあ、上古のことですから、大甘な見方で「大凡の対応は採れている」と云いましょう。

<2> 読み(推測)筋は大凡確認された
 

  そこで、冒頭に掲げた「読み(推測)筋」は大凡確認できたことにします。

 再掲・読み(推測)筋:
   ・磯部族は祖神・部族神を掲げて当地に至った。
     ・その祖神・部族神の中の代表として「玉柱屋姫命」が含められています。
   ・磯部大明神は、社伝によれば、「伊勢神宮の荒祭宮・磯宮」の移祀に由来します。

   ・17世紀には、後水尾天皇から「磯部大明神」の勅額を賜ります。
    それは「磯部族の祖神社」としての公認を意味します。
   ・現宮司が磯部姓なのも「磯部尽くし」を感じさせます。

<3> 伊勢志摩の磯部神の祭祀分布

  そこで、伊勢志摩に戻って、総括です。図表4に「伊勢志摩の磯部神の分布」を示します。
   赤⛩マークは、磯部氏・磯部祖神に関わる神社群です。
   黒⛩マークは、伊勢神宮(内宮・外宮・滝宮)です。

     青マークは、   磯部川を示し、この場合、伊佐和神社と伊蘇上神社が磯部川を挟んで

                          近接対峙していることを示しています。

   

                       

 玉柱屋姫命の常陸祭祀は様々な問題を提起しています。
 それをリストして、続報につなげましょう。

<4> 磯部女神・玉柱屋姫命の常陸祭祀の上古史上の意味

  磯部女神・玉柱屋姫命は、可成り古い昔に、伊勢志摩から常陸国へ遷座され、常陸国の式内社として認められています。

  社伝は、その遷座は景行天皇40年10月に日本武尊が荒祭宮・磯宮を伊勢から勧請したとします。
 「日本武尊は実在しない」とする人々がいますので、その人々はそれ故にこの社伝を否定するかも知れません。

 だが、これは容易には否定できないのです。
 今は詳しく説明しませんが、「細部を吟味すれば、状況証拠があっても疑わしいが、全体(歴史経過と地域間交流)を吟味すると、全体としては否定出来ない姿が浮かび上がる」のです。

  大把みに云いましょう。
 (1) 弥生神代期の東海地方から東国への人々の移動は、「パレスタイル土器」(東海地方の土器形式の

   一)の常陸など東国での発掘により、夙に指摘されているのです。
                   参照:土師氏小史8    常陸国の前期古墳                      2020年09月13日
                   ・企画展「パレスタイルの美」博物館だよりN0.2、1988.3(一宮市博物館)

 (2) 尾張大國霊神社の社伝
                   参照:天香香背男命 ー尾張から東国に先行するも、鹿島神に屈するー2020年10月07日
                            天香香背男命 ー尾張から東国へ先行し鹿島神に屈するー2    2020年10月09日

 (3) 神武東征の折、伊勢津彦が東方へ逃れた話は「伊勢国風土記(逸文)」にあり。
 (4) 崇神朝以来、大和朝廷では東国への関心は高く、その頃、中臣氏は鹿嶋神を高く評価し、東行        する一族が輩出した。

           参照:特論    中臣氏の伊勢後裔・荒木田神主家 2022年04月10日
 

  かくて、磯部女神・玉柱屋姫命の常陸祭祀の上古史上の意味は磯部族の東行です。

  それをどう捉えるか、が問われます。

  磯部族の動向と天背男命の東漸が次の課題となります。