御頭神事は、伊勢外宮・宮川流域の獅子舞です。その演目は「スサノオの大蛇退治」でした。
 出雲で「スサノオの大蛇退治」ならば、素直の受け入れられるのに、何故か、伊勢でスサノオなのです。

 それを説明出来るのは、スサノオ=牛頭天王を主張する牛頭天王信仰の普及しかない、と考えました。

 

 そこで、伊勢の獅子舞のテーマが「スサノオの大蛇退治」なのは「牛頭天王信仰」が先普及の故だと断じました。

 何故、伊勢に牛頭天王信仰がかくも根強く拡がっているのか、は、今、説明出来ません。

 陰陽五行説・老荘思想・前期密教などの多くの外来思想の傍国*・伊勢へ、どの様なカタチで何時波及してきたのか、は既に学者先生たちが解き明かしておられることでしょう。
   *日本書記・垂仁二五年三月:「是の神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪シキナミ帰ヨする国なり。
                                           傍国カタクニの可怜ウマし国なり。是の国に居らむと欲ふ」

   だが、当ブログにはそれは謎なのです。

 伊勢神郡(狭義)から北上すると、松阪市には「かんこ踊り」がありますが、今回は「かんこ踊り」は対象とせず、

「獅子舞」に焦点を絞って更に北上します。

 すると、猿田彦神を祀る椿大神社の「椿宮獅子舞」を有力な根源として、北勢には阿倉川獅子舞、伊奈冨獅子舞、

伊勢大神楽などを見る事になります。

目次 前報1 御頭神事
   本報2 椿宮獅子舞の伝わり
       (1) 椿大神社と椿岸神社の獅子舞
          <1>  椿大神社と椿岸神社
             <1-1>  椿大神社
                          <1-2> 椿岸神社
          <2>  聖武朝、吉備真備は「神面と獅子頭」の椿大神社奉納を受命す
             <2-1> 聖武天皇の椿大神社への獅子頭奉納
             <2-2>  伎楽は獅子舞を含むか
             <2-3> 吉備真備の「衆芸を該渉(広く渉猟)す」の意味
          <3> 行満神主・修験道開祖・末裔は山本姓を名乗る
       (2) 獅子舞神事の波及
          <1>  伝承ベースの獅子舞史略
          <2> 獅子舞の三事例
             <2-1> 阿倉川伝承・・伊勢獅子舞の起源伝承
             <2-2> 伊奈冨イノウ神社
             <2-3> 川俣神社・大国神社(鈴鹿市)
          <3> 四山の獅子舞
   次報3 伊勢大神楽に獅子舞文化の変貌を読む

2 椿宮獅子舞の伝わり

  椿大神社を大元とする獅子舞神事は宮川流域の御頭神事(前報)とは別にある、と見ます。
 「御頭神事」と「椿流獅子舞」との相互関係はこの段階では今一つはっきりしません。

(1) 椿大神社と椿岸神社の獅子舞

<1>  椿大神社と椿岸神社

 椿大神社は猿田彦大神を祀り、その后・天之鈿女命を配祀します。
 更に、神裔・行満大明神(行満神主)が祭神に加わって、この神社を特徴付けます。

 その由緒は、「椿・猿田彦神・行満・山本」がキーワード、亦、「垂仁天皇・倭姫命、仁徳天皇、聖武天皇」が時代感を示します。
  ・椿大神社(鈴鹿市山本町)式内社、伊勢国一宮、猿田彦大本宮(猿田彦大神を祀る神社の総本社)
     祭神:猿田彦大神、相殿:瓊瓊杵尊・栲幡千千姫命、
              配祀:天之鈿女命・木花咲耶姫命
              前座:行満大明神
              末社:(境内)高山土公神御陵  祭神:猿田彦大神、瓊瓊杵尊、栲幡千千姫命
            御船石座     祭神:猿田彦大神、瓊瓊杵尊、栲幡千千姫命
                      多度社                       祭神:天目一箇命
                      護国社                       祭神:護国の英霊
                      松下幸之助社              祭神:松下幸之助命
                      庚龍神社                    祭神:金龍龍神、白龍龍神、黒龍龍神
                     (境外)椿一宮神社(鈴鹿市椿一宮町)   祭神:猿田彦大神
                             神野神明社(鈴鹿市山本町神野) 祭神:天照大神、猿田彦大神

 
椿大神社の公式HPには、最早、明治の合祀神が記されていません。
    ・明治の神仏分離令で「八王子神社」の祭神は蕃神であり、祀る事はならぬと「御上」の指令があると、
   生き残るため、社名を「八柱神社」と改め、「牛頭天王の八王子の替え神」としてスサノオ(=牛頭天王)

         の五男三女神を祭神とした経緯があります。
  ・明治39年の「一村一社令」が出ると、小村(小字)は大村(大字)に統合され、小村の小社を合併させる事態

         が生じます。この大合併で多数の合祀神が残存する事になった大村の鎮守に合祀されたのです。
  ・だが、年月の経過の中で、合併社は合祀の残影を公式HPからは消し去って終う事があるのです。
   椿大神社の公式HPがそれに当たります。
                                                            参照:伊勢の祭祀2  八柱神社と神仏分離令 2022年12月15日


 だが、合祀経緯を探ると、「延喜式の神社調査」「玄松子の神社記憶」には合祀神が明記され、

その中に「五男三女神」も含められているのです。
 牛頭天王信仰はここにも及んでおり、明治の神仏分離・一村一社令で消されていたのです。
    ・椿大神社の合祀神:高御産巣日神 天照大御神 豊受大神
            五男三女神 建速須佐之男命 天之穗日神 天津日子根命 大穴牟遅神 速玉男神 
            伊邪那美大神 大事忍男神 保食神 宇迦之御魂神 迦具土神 彌都波能売命 
                    大山津見命 木花佐久夜比売命 大雀命 品陀別命 息長帶比売命 菅原道真
                    大山咋命 天真名鶴命 志那都比古神 板倉家祖先 白髮大神主 八百万神 祭神不詳
                           (出所) 椿大神社「延喜式の神社調査」(阜嵐健)


   椿大神社の立場で云えば、古の椿大神社の正しい姿を復元して祭祀を続けることです。
 それ故に、その由緒は「古の椿大神社」の始原を次の様に述べ、混じりのない姿を記してい

るのです。
       由緒:猿田彦大神は、天孫瓊々杵尊降臨の際、天の八衢に「道別の大神」として出迎え、高千穂

        の峯に御先導申し上げます。
       これにより、肇国の礎を成した大神として、垂仁天皇27年秋、倭姫命の御神託により、猿田彦大神

                   の墳墓の近くに「道別大神の社」として社殿が奉斎された日本最古の神社です。
      ・仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字を以て社名とされ、現在に及んでいます。
      ・猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮として、「地祇猿田彦大本宮」と尊称されています。
      ・史料初見は、748・天平20年6月17日の「大安寺伽藍縁起並流記資財帳」である。


<1-2> 椿岸神社

   椿岸神社は、椿大神社の別宮扱いで、猿田彦妃・天宇受売命を祭神としています。
 椿大神社と併せて考察するのが至当だと思われます。
        ・椿岸神社(三重県四日市市智積684)伊勢国 三重郡鎮座
        祭神:天宇受売命 配祀:猿田彦大神 天照大御神
        合祀:豊受大御神 天児屋根命 豊臣秀吉 素戔嗚尊 木花之開耶姫命 倉稲魂命
                 品陀和気命 市杵島姫命 八街比古命 八街比売命 大山祇命
      由緒:往古、桜村地内字椿尾(現・桜町西)にあり奥七郷(智積を首邑として、佐倉、桜一色、

         森、赤水、海老原、平尾)の総社であった。
             ・740・天平14年、聖武天皇が伊勢国行幸の時、椿尾山中の椿の木で獅子頭を2つ作り、

                            一つを椿大神社、他の一つを当神社へ奉納した。
                ・その獅子頭二頭は、同木で作られた兄弟あるいは姉妹であると言われており、互い

             に会いたがり、往古から椿神社から椿岸神社へ会いに来るのだと云い伝えあり。

             獅子頭は今も残っており、四年に一回、閏年に、椿岸神社社殿前で、椿神社の獅子舞が

                            奉納されます。その時、椿岸神社の獅子頭は社殿に据え置かれる。

<2>  聖武朝、吉備真備は「神面と獅子頭」の椿大神社奉納を受命す

<2-1> 聖武天皇の椿大神社への獅子頭奉納

  聖武朝は、天然痘の大流行(737年)、「藤原広嗣の乱」(740年)など、社会不安が絶えない時代でした。
 そう云う時期に、聖武天皇は伊勢・美濃に行幸し、当神社にご親拝されます。
 その際、「天下泰安・四海静穏・風雨順時・百穀潤屋」の勅願と共に、吉備真備を遣わして当地の椿の大木に猿田彦大神の神面と天之鈿女命の化身である獅子頭を奉納させた、と椿大神社の公式HP は云います。
  引用:起源は、奈良時代、聖武天皇の御代のこと。当時、国中に疫病が蔓延し、さらには藤原広嗣の乱によって

               社会不安が起きていました。天皇は御自ら治世の乱を鎮めるべく、当神社にご親拝。

     「天下泰安・四海静穏・風雨順時・百穀潤屋」の勅願とともに、吉備真備を遣わして当地の椿の大木に

              「猿田彦大神の神面と天之鈿女命の化身である獅子頭」を彫らせて奉納されます。
     すると平安の世が訪れたと伝えられています。
            ・猿田彦大神は、荒ぶる存在である獅子を正しく導き神へと昇格させ、その御稜威をもって天地人四方八方

               の祓い清めと神人和合を行うと伝えられてきました。
            ・この祓い清めにより、人の心中に宿る妬みや争い、欲望などが清められ、神ながらの心に還るといわれて

               いるのです。                                                                  (出所) 椿大神社 獅子舞神事について

 

 

 聖武天皇の伊勢巡幸は740・天平 12年です。
 この年に獅子舞の起源を求めるならば、それは今のところ最古の推定となります。

  これを裏付ける別証は正倉院に遺る大仏開眼供養(752年)に用いられた獅子頭八頭です。
    参考:獅子頭は獅子の頭に模した作り物で、祭礼のお練りや芸能に用いられる。
       概して木製で、赤・金・黒の漆塗りが多い。6世紀中葉に伎楽と共に大陸から渡来したらしく、

       正倉院には大仏開眼供養(752)に用いられた獅子頭が遺る。
                            (出所) 「日本大百科全書ニッポニカ」 西角井正大
      ・聖武朝略記・伊勢行幸(740)・国分寺建立の詔(741)・東大寺盧舎那仏像の造立の詔(743)
            ・「三宝の奴」宣言と譲位(749)・東大寺大仏の開眼法要(752)


<2-2>  伎楽は獅子舞を含むまないのではないか

  ここで注目すべきは、「神楽の研究」で有名な西角井先生は「(獅子頭は)6世紀中葉に伎楽と共に大陸から渡来」としている点です。

 そこで、「伎楽」(ウイキペディア)を見ると、次の様にあります。
        抜粋引用:「伎楽」は「呉楽」「伎楽儛」とも云われ、呉国(中国南部の仏教文化圏)に由来する楽舞。
       ・そのルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。
       ・聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めた。
       ・伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあった。
       ・「延喜式」によれば、法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺に伎楽上演の一団がおかれていた。
        ・4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会と、少なくとも年2回の上演があった。


 「新撰姓氏録」によると、和薬使主ヤマトクスシノオミの出自は呉国主・照淵の孫・智聡です。
 欽明朝、使者の大伴佐弖比古に随って、内外の典・薬書・明堂図など百六十四巻、仏像一体、伎楽調度一具などを持って入朝します。
 その子・善那使主は、本方書一百三十巻、明堂図一、薬臼一及び伎楽一具を朝廷に献上し、更に、チーズを献上、日本のチーズ生産の嚆矢となった。
  参考・新撰姓氏録・777左京諸蕃(漢) 和薬使主     出自呉国主照淵孫智聡也
      ・天国排開広庭天皇[謚欽明]御世。随使大伴佐弖比古。持内外典。薬書。明堂図等百六十四巻。      

                   仏像一躯。伎楽調度一具等入朝。
      ・男善那使主。天万豊日天皇[謚孝徳]御世。依献牛乳。賜姓・和薬使主。奉度本方書一百卅巻。                         明堂図*2一。薬臼一。及伎楽一具。今在大寺也
                          *「明堂図」とは、中国医学で、人体の経絡や孔穴の部位を図示したものを云う。
     ・福常(善那)が孝徳天皇に牛乳を献上し,天皇は善那に「和薬使主」の姓と「乳長上」の職を与え、

      その後、宮中で乳牛が飼われ、「延喜式」には諸国に「蘇チーズ」を作って献上させたと云う。

  従って、伎楽古史は次の様に読みます。
    ・伎楽古史:欽明朝(540~572年):呉国王の血をひく和薬使主が、仏典や仏像と共に「伎楽調度一具」を献上。
        ・612・推古天皇20年5月、百済人味摩之が伎楽儛を伝え、奈良の桜井に少年を集めて教習す。
        ・685・天武天皇14年、筑紫で外国の賓客供応のため伎楽あり。(仏教行事以外の場で上演例)
        ・752・天平勝宝4年、東大寺の大仏開眼供養の時には他の諸芸能と共に大規模に上演された。
                                       正倉院にはその時使用が推定される「伎楽面」が残されている。


 これを参照すると、「獅子頭」は、6世紀に仏教系、亦は、崑崙(ソグト)系「伎楽」と共に渡来した可能性はありますが、伎楽面はネット上で観察する限りでは獅子頭とは似ていません。

 そのモチーフも異なると思われます。
     注:師子を伎楽系に含める事には疑問を感じるのです。素人判断ではありますが、・・。
       ・伎楽仮面:治道、師子、師子児、呉公、金剛、迦楼羅、呉女、崑崙、力士、婆羅門、
              太孤父、太孤児、酔胡王、酔胡従


 宮中の御神楽から「里神楽」が神社系として分出する時に、「獅子頭」が「御頭」中心に据えられて、「里神楽」としての「獅子舞」が成立した可能性はあります。

 獅子舞の初期演目は「日本神話・八岐大蛇退治」(御頭神事)に則っていますので、そこには牛頭天王信仰に基づく「厄払い・悪魔退治」(呪願)が織り込められた、と見ます。

 

<2-3> 吉備真備が「衆芸を該渉(広く渉猟)す」の意味

 吉備真備は、716・霊亀2年(元正朝)、第9次遣唐使の留学生となり、18年後の735年に帰国し、多くの文物・典籍(暦書・音楽書・楽器・武器・測量具まで)を持ち帰った事で有名です。
        ・735・天平7年、吉備真備は帰朝すると、唐礼130巻、暦書、音楽書、武器、楽器、測量

                 具などを献じた。大学助を経て東宮学士に任ぜられ、阿倍皇太子(後の                                             孝謙天皇)には「礼記」「漢書」などを講義した。

 「続日本紀」(775・宝亀6年10月壬戌)に、吉備真備朝臣の薨去に際して記された、可成り長文の「追悼の辞」が載っており、それが「ウイキペディア・吉備真備」の内容となっています。

 その中に、「入唐留学し、業を受け、経史を研覧し、衆芸を該渉(広く渉猟)す」の一文があり、この最後の部分(衆芸該渉)を「(吉備真備は)唐代の大衆技芸を広く渉猟して持ち帰った」と読むと、新しい視野が開けます。

 「聖武天皇は伊勢行幸に際して真備に獅子頭を奉納させた」とする椿大神社の伝承(上述)はこの「衆芸」と符合し、更に、「正倉院に遺る大仏開眼供養(752)に用いられた獅子頭八頭」(上述)も真備の貢献によると推測します。

  聖武天皇は、真備の持ち帰った唐代の大衆技芸の一・獅子舞を伊勢に伝えさせた、と思われるのです。そこで、仮説の提案です。

  仮説:吉備真備は唐より持ち帰った衆芸の知見を元に、聖武朝、「神面と獅子頭」の椿大神社へ

     の奉納を受命した。これが伊勢獅子舞の肇ハジメとなった。

   参考:賀露神社(鳥取市賀露町)は吉備真備公を祀ると共に、猿田彦命も併祀しています。
                 777・宝亀 8年、真備公薨去後2年、賀露神社は吉備真備公の神霊を祭神として祀ったことに始まり、

               生前の縁で、猿田彦命(椿大神社祭神)の分霊を併祀したもの、と推測します。


<3> 行満神主・修験道開祖・末裔は山本姓を名乗る

 行満神主は、椿大神社社伝では修験道の開祖であり、役行者を導いたと云います。
 亦、椿大神社の現宮司・山本神主家は猿田彦神の神裔であり、神世から奉斎していると云い、勿論、行満大明神は猿田彦神の末裔だとされています。
       社伝:猿田彦大神の末裔・行満大明神は修験道の開祖であり、役行者を導いたとのことで、中世

                        には修験神道の中心地となった。現宮司は、行満大明神の末裔であると云う。

  獅子舞は「行満神主の頃」に創始されたとする社伝と突き合わせて、その創始の時代を推測したいところですが、行満神主の実在性も時代性も確定し難いので、折角の社伝ですが、これは見送らねばなりません。その理由は次の様です。
  1 役行者は、634・舒明天皇6年~701・大宝元年の人と伝わります。
  2 行満神主が役行者を導いたとすれば、行満神主は役行者と同時代の7世紀前半の人と見られます。
    3 だが、次の社伝記述は、行満は崇神朝の人と云わないまでも、4~5世紀の人ではないか、と疑わせます。

   ・社伝:当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神朝に神名使用を禁じ

       られたために行満(修験神道)と称し山本家の祖先神となったと云う。

 行満の実在性と時代性を確認できない以上、「椿宮の獅子舞の時代性」は聖武天皇・吉備真備伝承を中心に見定めるしかないのです。

(2) 獅子舞神事の波及

   椿大神社の獅子舞神事は周辺地域に拡散・伝搬したようです。

  北勢地方*には山本(椿)流、箕田流、稲生流、中戸(中跡)流を総称する「四山の獅子舞」が展開したと云います。勿論、椿大神社の山本流がその大元です。
   *北勢は、次の三圏から成ります。
      1鈴鹿・亀山圏 (鈴鹿市、亀山市)
      2四日市圏   (四日市市、菰野町、朝日町、川越町)、
      3桑名・員弁圏 (桑名市、いなべ市、木曽岬町、東員町)、


  更に、桑名圏には、江戸初期・慶長年間(1596〜1615)には、椿大神社の山本家から分出した「伊勢大神楽」の拠点が築かれます。(次報で言及)

 山本流を基幹とした四山の獅子舞は、この「伊勢大神楽」より先に、四日市圏・鈴鹿圏に四分派したものと思われます。

<1>  伝承ベースの獅子舞史略

  「獅子舞史」を伝承ベースで見ると、略史は次の如くになります。
      ・6世紀渡来の伎楽は獅子舞神事に先行するが、仏教的であり、技芸コンセプトは異なる。
  ・椿大神社(鈴鹿市)では8世紀に獅子舞を創始した。聖武天皇・吉備真備に関わる伝承あり。
  ・伊奈冨神社(鈴鹿市)は7世紀に何らかの先行舞があり、その先駆性を椿大神社と争う。
                            9世紀以降、獅子頭の奉納が複数回(平安初期・後期)あり。
  ・御頭神事(伊勢市)は11~12世紀が創始だとされるが、更に遡る可能性はあり。

                  後に、「湯立て神事」の項で考察する。
      ・「伊勢大神楽」は、17世紀(慶長年間(1596〜1615)、桑名市大夫村に椿大神社から分出し、            

         演目を拡げて遠国へ回檀するようになった。

<2> 獅子舞の三事例

   歴史を伝える史書の少ない時代は伝承が頼りですが、個々の伝承が咬み合わない時、歴史は一筋に書けません。しかし、大まかな推測は許されるでしょう。

 椿大神社の他に伊勢北部の有力伝承二つ(阿倉川・伊奈冨)は夫々に「獅子舞の始原は我にあり」と堂々と、或いは、さり気なく示しています。
 亦、興味深い伝承を見せるのは川俣&大国の二社です。事情により、合併しているのです。

 これら三事例をご紹介して、椿大社の事例の補とします。

<2-1> 阿倉川伝承・・伊勢獅子舞の起源伝承

   阿倉川(四日市市)が伊勢大神楽の肇ハジメだとする説があります。
      引用 1「嬉遊笑覧」(江戸期の百科書):獅子舞は伊勢の吾鞍川より出るを学びて諸州に大神楽あり。
           2「伊勢参宮名所図絵」(江戸期):三重郡阿倉川村より六組、諸国竈祓をなす。


   室町時代に、阿倉川の観蔵院に修験者(山伏)の集団が住み、活動を始めた、と云います。
 近くの正法寺(羽津町)に過去帳や山伏塚があるので、山伏たちの活動の痕跡は明らかです。
  この山伏(修験者)達が「阿倉川獅子舞」の立ち上げに一役を果たしたと云うのです。

 大神楽の始まりは、山伏や神人の一部が伊勢神宮御師の手代となって檀家の祈祷に巡行した事にある由で、その際、「伊勢神国(度会)の獅子舞神事」にならって獅子頭を被り、伊勢散楽・田楽の笛太鼓の囃子と滑稽な仕草を取り入れたと云うのです。

 この動きは阿倉川(海蔵地区)の太夫たちが奉斎していた「高之宮大明神」で知られるのです。
 即ち、高之宮大明神の棟札(1811年頃)には、川村三太夫、木村平太夫、堀田吉良太夫、近藤勘太夫、石川宗太夫、近藤久太夫、石川源太夫などの大神楽七家も記されて遺っている由です。
   ・正法寺には石川家、近藤家、池田家など大神楽太夫家の墓も在る由です。
 ・海蔵神社の天水受の裏面には奉納者(石川家、近藤家、木村家、池田家)など大神楽の太夫たちの名が刻まれている

      と云います。
 ・海藏神社(元、御厨飽良川神社、四日市市東阿倉川540)
    祭神:素戔嗚尊、大山祇命、品陀和気命、気吹戸主神、月読命、猿田彦命
            由緒:1617・元和3年以前の創建とされ、江戸期に牛頭天王社と称されていた。
      ・1870・明治3年に飽良川神社と改称。
      ・1907・明治40年、海蔵村宮之内の村社・飽良川神社、境内社・山神社、多度神社を合祀し、

           海蔵アクラ神社と改称した。
             ・神鳳鈔:中世の海蔵村(阿倉川)は飽良川御厨という伊勢神宮領でした。
           ・高之宮大明神:宝暦11年の「以書付奉申上候」には高宮大明神祇官・舘与四太夫とあり。
                  代々、舘家が高之宮社の神祇官を務めた。


 元々、高之宮社の祭神は豊受皇太神荒御魂、猿田彦命でしたが、一村一社令により海蔵神社に

合祀吸収されます。
   阿倉川獅子舞:箕田流を継ぎ、毎年10月第3日曜日の秋祭りで奉納されています。

          寄せ太鼓で始まり、獅子飾りを付け、神楽笛で神様をお迎えし、座付(起こし舞)で獅子を起こ

          します。その後、舞出し、置き扇、喰え扇、角扇と舞を続け、花の舞で五穀豊穣、豊年満作を

          祝い、災害に遭わないように、また、健康でありますようにと祈願し、帰り笛、神楽笛で獅子

          にお眠り頂きます。最後に神様をお送りすると、獅子舞は終了です。

 一説には、鈴鹿市稲生の伊奈富神社の獅子舞に居た阿倉川の笛師三人が帰郷後、囃子や曲芸な

どを添えて、中味を面白くしたとも云います。
 この一説を採るならば、伊奈富神社の獅子舞が「阿倉川獅子舞」より以前にあった事になります。

<2-2> 伊奈冨イノウ神社

 当社の獅子舞は大宮・西宮・三大神・菩薩堂の四頭で舞う点が全国的にも稀有な特徴を示します。

 壬申の乱(672年)の際、天武天皇が戦勝を祈願し、その報賽に獣神を奉納され、平安初期には弘法大師が獅子頭を奉納、平安後期には高倉天皇が四頭の獅子頭を奉納されたと云います。

 亦、鎌倉期の1280・弘安3年製の獅子頭が現存し、その古さを誇っています。
 江戸時代には、当社獅子舞が北勢から中勢、遠くは伊勢まで回檀していた記録もあります。
 中々に、歴史はあるし、遠くに回檀する積極性を見ます。
  引用:伊奈冨神社の獅子神楽は歴史も古く、北勢・中勢地方の獅子舞の発祥とも云う。
    ・江戸時代には北勢から中勢、遠くは伊勢まで巡業し、「稲生の獅子舞」としてその名を轟かせた。
    ・現在、桑名の大神楽は全国的に有名ですが、この大神楽も元は稲生の獅子舞から学び始められた。
    ・昭和初年までは山本町の椿大神社、一宮町の都波伎奈加等神社、下箕田町の久久志彌神社等の獅

     子が、当社の春の大祭に一堂に会していた。      (出所) 伊奈冨神社由緒

 古来より3年に一度、即ち丑・辰・未・戊の年(舞年)の二月上旬より四月中旬まで行われ、大宮・西宮・三大神・菩薩堂という神の化身たる四頭の獅子が舞を奉仕します。
 大人と子供総勢21名の神役が勤める。2月上旬の神社での「衣付けの舞」に始まり、その後4月の式年大祭(舞込み)まで町内各所を回檀し、四頭の獅子が「扇の舞の他八つの舞」を舞わす。

 

 

 

  このやり方は椿大神社と略同じです。
   伊奈冨神社(鈴鹿市稲生西)式内社 伊勢國奄藝郡 伊奈富神社、伊勢國総社
       祭神:保食神大國道命
     合祀:豊宇賀能賣命 稚産靈神 鳴雷光神 大山祇命
       ・本来、当社は・大宮(保食神大國道命)
              ・西宮(豊宇賀能賣命・稚産靈神)
              ・三大神之宮(鳴雷神・大山祇命)の三座を奉祀し、夫々に社殿があったらしい。
        だが、現在は、西宮・三大神は共に本社に合祀されている。
     由緒:崇神天皇五年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、

               神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神の三社を鎮祭された。
       ・仲哀天皇の御子・品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕えた。
       ・雄略天皇五年、数種の幣物が奉納され、主祭神保食神に「那江大国道命」の御神号を賜る。

       ・奈良期天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、
       ・平安期天長年間、弘法大師が参籠、菩薩堂を建立、三社の本地仏を祀り、獅子頭を奉納、

                七島池を一夜にして造られたと伝えられております。
       ・865・貞観7年4月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列せらる。
                当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大さだった。
               ・その当時は椿大神社(正五位下)より社格は上であった。
       ・1174・承安四年には高倉天皇が四頭の獅子頭を奉納、三社を大造営す。この頃に開舞か。
       ・1274・文永11年、三社夫々に勅額を賜わる。
       ・1280・弘安3年の銘が入る獅子頭が当社に残るのは確たる歴史的由緒の稲生の伝統。
       ・鎌倉期中頃、正一位に進階し、明治6年、郷社、同37年に県社に列す。
       ・往古の神領は東は白子浜、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な領域だった。
     境内:参道入口の近く、参道の右手に「米之宮 菩薩堂」と書かれた入口の奥に、菩薩堂。
        弘法大師が当社に参籠の折、この菩薩堂を建立し、三社の本地仏を祀ったと云う。
        米之宮は、正式名を稲生大籾神社と云うらしい。菩薩堂にまとめられたのだろうか。
     合祀:明治41年に境内社八幡宮に境内や近隣の諸社が合祀された。
        猿田毘古神、土御祖神、彌都波能賣神、石長比賣命、金山毘古神、建御雷男神、
        大日靈貴命、須佐之男神、五男三女神、大山祇命、大鷦鷯命、菅原道眞、徳川頼宣、
        天之御中主神、大日靈神、伊邪那美神、天忍穗耳命、天御蔭命、大年神、大山祇神、
        宇迦之御魂神、天神地祇、菅原道眞、八百萬神、天兒屋根命、徳川頼信。
        ・豊御崎神社の横に、資料にはない天王社がある。


 1993・平成5年、三重県主催の「世界祝祭博覧会」に、1997・平成9年、民俗芸能公演「獅子が舞い、シシは踊る」に、東京の国立劇場にも出演した事を当社由緒は記しています。
  伊奈冨神社は、その獅子舞の歴史に大いなる誇りを抱いているのです。

<2-3> 川俣神社・大国神社(鈴鹿市)

   ここでの引用は直接には「三重県神社一覧」、その源は「庄野郷土誌」だそうです。
 引用内容が、そのまま、箕田流と山本流の比較、獅子舞の歴史、伝統を維持する人達の苦労を教えてくれます。
   引用:庄野宿の開駅が1624・寛永元年、上町の神社が現在の場所に移築されたのは1694・元禄7年と

      の記録があり、この後としても、200年以上の歴史と伝統のある神事である。
     ・当時、庄野には、川俣神社と大国神社があり、夫々に獅子舞が奉納されていたようで、それも

      別の日に別の流儀(川俣神社は箕田流、大国神社は山本流)の獅子舞が奉納されていた。
     ・1873・明治6年、両社の祭礼日が10月9・10日の同日になったので、箕田流と山本流は1年交

      代で奉納されるようにしたが、その後、大正の頃から勇壮な箕田流に統一された。
     ・獅子舞の伝統を守ったのは、明治の中頃から戦中までは青年会が、戦後は青年団員の中から「獅

      子連中」を結成して受け継ぎ、現在では「庄野獅子連」が貴重な伝統を守り続けている。
                     参考:川俣神社(鈴鹿市庄野町)・大国神社(鈴鹿市神戸8丁目)


<3> 四山の獅子舞

  鈴鹿市・四日市市は、大元の椿大神社・椿岸神社の鎮座地区ですから、獅子舞神事は大いに盛り

上がり広まったことでしょう。図表には関係する全社を記載しきれません。

                          注 太文字の神社を本文で取り上げています。

 

 

  次報は「特・伊勢大神楽(増田神社)」が続き、その演目分析から伊勢獅子舞の発展史を

覗見します。