伊賀上野城 | 史跡巡りのブログ

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概要

天正9(1581)年、伊賀侵攻(天正伊賀の乱)を果たした織田信雄は、家臣滝川雄利を伊賀国守護に任命しました。雄利は、平清盛が創建したと伝わる平楽寺跡に拠点となる館を建てました。この館が、伊賀上野城の前身と思われます。本能寺の変で織田信長が倒れると、代わって秀吉が全国統一を進めていくこととなり、天正12(1583)年11月、秀吉の命により滝川雄利が伊賀国から追放され、代わって脇坂安治が守護に任命されました。安治は、長田郷市場という地域に居館を築きましたが、翌年に摂津国に転封され、今度は大和郡山の名将:筒井定次が12万石をもって入国、これにより「羽柴伊賀守」と称すようになりました。定次は、平楽寺跡、薬師寺跡を縄張りとし、最も標高が高いところを「本丸」とし3重の天守閣が建てられ、また西側に二の丸、北側に三の丸が配置されました。基本的な設計は、天正13年に完成していたと思いますが、二の丸・三の丸といったところは、文禄年間に完成したと思われます。関ヶ原合戦では東軍に属し、上杉討伐にも兄:筒井十郎玄蕃に留守居を任せ、参戦していました。ところが、西軍に城を奪われたことを知ると、すぐさま伊賀に帰国、城を奪還しました。慶長11(1606)年11月、城下からの出火により城が焼失しました。慶長13年8月、定次は失政を理由に追放され、代わって藤堂高虎を伊賀・伊勢の領主となりました。慶長16(1611)年正月、大坂城に対抗できるよう独自の指示で城を改修しました。まず筒井古城から受け継いだ本丸を西側に大幅拡張し、周囲を高さ30Ⅿの高石垣で巡らしました。天守閣は、完成目前の慶長17年9月2日に台風で倒壊し、これ以後再建することはありませんでした。その後、慶長19年頃には二の丸・三の丸・外堀・米蔵・武器庫など大体の建物は完成しましたが、本丸には櫓が一切建てられませんでした。元和元(1615)年、一国一城令で伊賀上野城は津城の支城として認められ、以後版籍奉還までの藤堂家10代が城主として、伊賀の藩政に務めました。昭和10(1935)年、地元の名士川崎克氏により、木造で天守閣が再建されました。その後、城址は昭和42(1967)年に国指定史跡に、昭和60(1985)年には天守閣が伊賀市指定の文化財に登録されました。









城内駐車場から緩やかな上り坂を進んでいくと、右側に階段が見えてきます。その階段上ると、右側に「芭蕉翁記念館」が見えます。記念館には、芭蕉遺筆や肖像などが展示されていました。





坂道に戻り、城内北側まで歩を進めていきますと、茅葺門が見えてきます。くぐると、俳聖堂という建物が見えます。





俳聖堂を出、今度は本丸へ繋がる階段を上っていきます。本丸に着きますと、天守閣が見えてきます。天守閣の東向かいの高台は、地図では「筒井古(故)城」と書かれています。ここは、筒井定次が城主だったころの旧本丸で、藤堂藩時代には城内の食料・燃料倉庫、台所などに使われていました。現在は、だだっ広い草原と、城代役所跡と彫られた石碑、台所門(写真階段部にあった門。縄張り図には、裏門として書かれているようです。)周辺の説明版、ちょっと離れたところに2~3Ⅿほどの石灯籠が建てられています。







天守閣前には、北朝鮮への帰国記念碑が建てられていました。少し離れたところには、芭蕉(桃青)の句碑がありました。





城内の様子です。







天守閣からの眺め。








天守閣最上階天井には、計46枚の大色紙が貼られています。横山大観、川合玉堂などの色紙には、絵が描かれていました。また、近衛文麿、若槻礼次郎など、政治家の色紙もありました。



本丸西側の高石垣。下には幅広い水堀があり、改めて見ると、藤堂高虎は西の大坂城に対してどれだけ警戒心を抱いていたかがわかります。





駐車場のとなり、現在は池のような形をしていますが、れっきとした「堀」で、名を蛇谷堀(蛇池)といいます。蛇池の由来は、昔、この堀から巨大な蛇が出てきたということからそう名付けたそうです。ちなみに、駐車場にも芭蕉句碑があります。