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千葉密着 発信型プロレス・2AW所属プロレスラー 旭志織のブログ

チーバトル191

担々麺造vsリッキーフジ


「短足…いや、足がショートなリッキーさんに、足4の字固めを決めることができるのか?」

がこの試合の隠れテーマ。


結果的に(何とか)4の字固めを決めることは出来たのだけど、やはり決まりが浅く、ひっくり返されて撃沈。


足がショートなことはプロレスにおいて短所などでは全くなく、「技をかけられにくい」という長所にもなり得るという今更ながらの発見に驚いた1日。




画像は吉田くんのコスチュームの尻面に縫い付けられた「もつ焼き・のんき」さんのロゴ。



前回キッチンカーで食べたもつ焼きがとても美味しかったので、いつかお店まで行ってみたいと思ってる。




【私と千葉プロレス・その②】


2003


2003年の春になると、5期生が入門。

我々も形式上は先輩となり、寮も道場の上にある二段ベットが乱立する大部屋ではなく、別に会社が借りていた一軒家のひと部屋に引っ越し。


3月に安沢卓が、4月にHCK狐次郎が、5月にKAZMAが、それぞれデビュー。


これで最後まで残っていた同期は全員デビューした形となった。


画像は同期達と、初来日した頃のクワイエットストーム。





あと4月の1周年大会で、藤田ミノルさんが退団。

私みたいなド若手にそんな情報は降りて来ず、お客さん同様リング上とその後のバックステージコメントでその事実を知ることになる。


最初の1年間で藤田さんと話した会話量は…多く見積もって3回。

そのくらい当時は雲の上の存在だった。

声もまだガラガラじゃなかった。




6月。

初めての福岡大会。


1年半前まではプロレスを観る為に通っていた博多スターレーンで、自分がプロレスをしている不思議。

安沢とのシングルは酷い試合だったけども、それも含めて深く記憶に残っている大会。



8月。

若手の登竜門・K-METALリーグに2度目の参加。

この時は大石真翔の前身・サンボ大石が優勝。


K-METALリーグには結構思い入れがあった。

当時のリーグ戦参加者に配布されたTシャツを、いまだに捨てられずに持っているくらいに。




いつだったかハッキリ覚えてないのだけれど、ある日携帯に「怪我人が出て欠員が出たから、今からすぐにコスチュームを持って後楽園ホールに来い!」との連絡が入り、急遽全日本プロレスに初参戦することになった。


どのくらい急遽だったかと言うと、会場の後楽園ホールに到着して20分後には第一試合で石狩太一とシングルをしてたくらいのバタバタっぷり。


でもその日から数シリーズの間、全日本プロレスの巡業にも帯同させてもらって、石狩選手をはじめ渕正信さんやグラン浜田さんらと毎日のようにシングルで対戦させてもらった。

当時は一杯一杯であまり理解してなかったけど、今思えばめちゃくちゃ貴重な経験をさせてもらったなぁ。




ちなみにこの頃、1番苦しかったのは、『筑前りょう太監修のもと、隔月で行われていた体重測定』。


ルールはシンプルで

「前回の測定日から、プラス2キロ体重を増やさなければならない」

ってだけ。


これ、最初の数ヶ月は頑張ってチャンコさえ食べてれば何とか増えるのよ。

でもすぐに頭打ちになってさ。


3回目くらいからは全く目標値に届かなくて、測定日になると水を4リットルくらいがぶ飲みして何とかクリアするみたいなことを繰り返してたね。


練習がキツくて辞めたいと思ったことはなかったけど、食事のノルマ(毎食丼ぶり飯5)がキツすぎて辞めようかと思ったことは何度かあった。




ちなみにこの体重測定。

同期のうち誰か1人でも目標体重に届かないと、ペナルティで連帯責任として同期全員がスクワット2000回をやらなればならなくて。


ある時の測定日に、安澤が目標体重に数キロ足りなくて水をがぶ飲みしてたんだけど、とうとう「もう1滴も飲めない」って言って泣き出してさ。


それを見たHCK狐次郎が慰めるのかと思いきや

「せっかく水飲んで体重増やしてるのに、泣いたら水分が出て勿体無いだろ!!」

つって怒鳴りつけたシーンは今でも忘れられない。


あの頃、僕らは間違いなく非日常の世界に住んでいた。




続きはまた後日。




では、ごきげんよう。