完訳 日月神示 上巻 岡本天明・書 中矢伸一・校訂
第二巻 下つ巻
第二十一帖(63)
ゝばかりでもならぬ、○ばかりでもならぬ。⑧がまことの⑧の元の国の姿ぞ。元の⑧の国の臣民は⑧でありたが、ゝが⑧の国に残り、○が外国で栄えて、どちらも片輪となったのぞ。ゝもかたわ、○もかたわ、ゝと○と合わせてまことの⑧の世に致すぞ。今の戦はゝと○との戦ぞ、⑧の最後の仕組と申すのは、○にゝ入れることぞ。○も五ざ、ゝも五ぞ、どちらもこのままでは立ちて行かんのざ。一厘の仕組とは○に⑧の国のゝを入れることぞ、よく心にたたみておいてくれよ。⑧は十柱、五十九柱のからだ待ちているぞ。五十と九柱のみたまの⑧⑧様お待ちかねであるから、早う参りてくれよ。今度の御役大層であるが、末代残る結構なお役であるぞ。七月二十四日、一二のか三。
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記号表現の不足で分かり難いと思いますが、⑧は〇の中にゝを書いたものです。スキャナで読み取った時に⑧に変換されるためそのまま使っています。
〇は西洋の理知のみ
ゝは日本人感性のみ
が、今の日本は〇感性の人が高い位置に多い。その(高い位置の)殆どと言っていい。
つまりは、〇にゝを入れるのが、日本(内)だけで単独に完結する状況にもある。
今上に立っている人に、目覚めて貰わなければ‥
〇にゝを入れはするが、ゝが〇を纏う必要もある。
〇の特性とは何か‥
卑劣な行い、考え方‥
それを卑劣と言わず、一つの考え方として取り込む‥
例えば、人口削減‥
これは私が若い頃、それなりの状況を見聞きした(学んだ)時、それなりの手法や導きによって(人類には)必要なことだろうと思った。
が、口に出すことは憚られる‥
もっと行って(進んで)、卑劣とか歪とか、やましいとか‥
それらも全て取り込んで、(その機能は)生かすべきではないのか‥
例えば、東北震災の時に、どこかの政党の女性が支援物資の分配の際に卑劣極まりない行為(&態度)をしており、そこにブチ切れた分配担当の男性がいた。
私もそれを読んで腸が煮えくり返った思いがした。ヤクザが向き合う時のような思いと言うのだろうか‥
これは、この感情は自然に起こるし、そういうものがあってこそ前に進むというのもある。
霊の世界にも通じるものがある
通り一遍の "決まり" というものなどない
因みに、〇が西洋の理知と言っても、学としての識や優劣を言っているのではないだろう
概ねは心根としての性向を言っているのだと思う
西洋人は、『これはいけない、あれはいけない』等と言う自己縛りはほっ放り出している(最初から存在しない?)だろう
日本で岩戸が何度も閉まったらしいが、その最後は仏教が伝来した時‥と日月にはある。
(その教えは結局)あれはいけない、これはいけない‥
確かに、『〇にゝを入れるのが一厘の仕組』とは言っているがその逆は言ってない‥
が、〇にゝを入れて貰えるよう働きかけるには、〇をも(身内として)俯瞰できる能力があってこその‥と思える‥
確かに、ゝには〇の能力も備わっているのかも知れない
泥棒や空き巣の手口は、教われば理解出来る‥ 同じ考え方が出来るから‥
DSの蛮行も、知らされればその卑劣さがよく分かる‥
が、逆はどうなんだろう‥
日本人の感性や成り立ちを聞いても、『なるほどなあ』となるのか、ならないのか‥ 知識でなく共感として‥
(根拠のない感想で)全く理解できないような気がする‥
だからこそ、バカにしているし皆殺しにしようとしている‥
日月の神が、コテンパンにやっつけて、『もう参りました』と未来永劫ひれ伏すような状態に持って行くとまで言っているが、
そこまでの手順を踏まないと、理解には至らないという(ことか‥
〇にゝを入れるとは、どういうことか‥
否、(最後に残った)一厘の仕組であるから、それは神が行う‥
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最近は文字面しか見ない
深さとか言外とか、匂わせとか‥
文言以外に何か言っていることがあるだろう、と受け取りを保留にすることをしない
ただひたすら、文字通りに受け取って行く
何度も何度も(似たような言い回しを答を探しながら)読んでいる内に、そう思うようになった。そしてその読み方で新たに気付くことがある。
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『〇にゝを入れる』は、DSの本体には神でなければ通用しないのかも知れないが
日本の上位には〇とゝがまがうことが通用するのかも‥
だからこその一応の⑧国が出来上がるのか?‥
(そして世界中から総攻撃を受ける)