以前にも書いたけど、改めて(๑・̑◡・̑๑)

でも、前もって断っておくけど、特定の宗教名を挙げて説明するとは言え、どれも原則的に否定しているわけではない。ここ大事!(^^)

まず、宗教と政治は繋がってはいけない。

世界をみると、イスラム教の国は政治が宗教に支配されている。勿論、強度の違いはあって、どっぷり使ってる国と、そうでもない国がある。でも、どうだろう?いつも紛争やテロで世の中を騒がしている国は宗教の名の下に政治を動かしている国が多い。本来、イスラム教には政治を牛耳りこくみんは元より世界に影響を与える様な教義は存在しないはずである。宗教とは本来、神仏(何を信仰の対象にするかはそれぞれ異なるけど)に祈りを通して感謝し、平穏な生活を願うものであって、生活そのものを縛る目的はないものである、

イスラム教にある意味対峙しているキリスト教は

どうだろうか。

テロによる強行的な行動は伴わないにしても、信仰心を利用した政治活動は存在する。

ただ、日常の生活の行動まで大きく抑制していないのがキリスト教かなぁ。だから、自由主義、民主主義国家の主な宗教になっているかと。

キリスト教は、カトリックとプロテスタントに大きく二分されるけど、大きな違いは生活に多少なり制約を求めるという点かな。例えば、安易に男女の繋がりをしないとか、安易に離婚しないとか

中絶しないからどうかなどなど。神様との契約の下に結婚する訳だから、こういう所は一定の制約が生まれる土壌がある宗教。神様への信仰を大事にするなら、神様との誓いを安易に破るのは気が引けるのは当然と言う所かな。

仏教はどうだろう?

大きく分けて大乗仏教、小乗仏教という括りがあるようだけど、これは教義が細分化され、その結果を求める過程方法が異なる事から、別れていったというところかと。結局、仏教も生活する人がより幸せな生活が出来れば良いという事で発展して来ているが、実は、元々は生活の状態の改善ではなく、もっと哲学的な思考思索の中で生まれてきた宗教。この点は若干、他の宗教と異なる。

人間は何故生まれ、何故死ぬのかなどという究極的な意味を追求する過程で生まれた宗教。だから、仏教は他の宗教とはちょっと立ち位置が異なるのかと。日本にはこれがさらに細分化され宗派として様々な流れがあり、その教義にも様々な違いがある。人間の存在の意味を問うと結局のところ生活そのものにも影響を及ぼすから、仏教と言えども政治なら繋がっていく部分は昔から存在する。政治とは生活わどうしていくかという事を太極的に纏めていくことだから関係するなと言っても何らかの形で繋がっているもの。

日本の神教はどうだろう。基本、ヤオロズの神を祀っているので、特定の信仰対象はない。まあ、神様と言っても上下関係のある組織の様なもので他の宗教のように一神教というわけではない。

この点では仏教も似た所はあるが、仏教やイスラム教やキリスト教には開祖と呼ばれる人が居るのに対して日本の神教は開祖がいない。

これは世界的に見ても珍しい宗教。

だから、こうしなさいとか、こうすれば良いということは言われない。おみくじでは言われるけど

別に特定の開祖の言葉というわけではない。だから、強制力は全くない。その為、日本の神教は祈りを通して感謝と繁栄と安寧を願う個人的満足感に支配されているだけの宗教とも言える。困った時の神頼みはどの宗教にもあるけど、神が命令する事はまずない。ただし、大戦前にはこれを利用して生活はおろか人生、生命まで左右するという事が政治を通して行われたことは忘れてはならない。幸い、今は、こうした事はなく、いつ発生したかその起源は定かではないけど、元々の目的に叶った宗教の形態を保っている。

現在の日本人の多くが攻撃的でないのは、敗戦によって宗教の利用方法を変えられた事もあるが、幸せになるためにこうせよという上からの命令は無く自らの心の内との対話でのみ生き方を決めて行くという事をやっているからなのかもしれない。圧倒的な存在である教祖の言葉だと言われ強要されるような宗教では個人の内なる対話は存在しなくなる。一見、個人の考えだと思ってもどこかで神なる存在に了解を求めて行動しているかもしれない。ここに、どの宗教を信仰の対象としているかという違いが生まれる。これは大きな違いである。つまり、アプローチの仕方が全く異なる。

一見、やってる事に方法こそ違っても大きな違いはないように思えるが、受動的か他動的かいう違いは大きい。

世界にはまだまだ多くの宗教があり、その派生とも言うべき宗派が存在するから、ここまでの話は大雑把にその特徴みたいなものについて触れた。

さて、昨今問題となっている統一教会問題。

はっきり言って立派なカルト集団。名前を変えたとは言え、似たように名前を変えて未だ存続している有名なカルト集団に似たところがある。

かのオウム真理教である。

実はどちらも似たような時期に日本国内で活動し始めている。その昔、街を歩いていたら、どちらからも声を掛けられた記憶があるからである。

勿論、無視した訳だけど、宗教の不特定勧誘ほどやって欲しくない、いや、やってはいけない行為だろう。まあ、そうやって広めていった宗教もあるのだけど、その際に起きた事は人間の価値観を変えるという事を通して支配するということにつながっている。

学生時代にJENNYはとある宗教団体の勧誘者と話をした事がある。相手は何としても私をさそいこもうといていたが、数時間の問答で論破してやったのは言うまでもない。気がついたら周りに4〜50人の見物人が居たのは笑っちゃう話はだけど。

最後に貴方は教祖になれると言ってたはずだけど、いやいや、私はそんな気は毛頭無くて(本当に今は頭髪が少ない\(//∇//)\)、今もそんな気持ちはない。ただ当時は知りうる限りの知識をもって矛盾を指摘し当たり前のことを言ったに過ぎない。

気がつかないようにマインドコントロールなどを使って相手をその宗教に傾倒させようとするのは、宗教の本来の目的から逸脱している。

これはやってはいけない。マインドコントロールされないためには確固たる信念を持って向き合わなくてはならないし、論破するだけの知識を持っていなければならない。これは宗教のみならず物理科学、哲学、心理学といった広い知識を持っていなければならない。論理的に考えれなければ誤った選択をしてしまうことになる。

一部の人は頭の良さそうな政治家でさえ、こういう思考ができないのだから、なかなか宗教問題は奥が深い、いや、根が深い問題ということになる。だからこそ、宗教と政治は繋がってはいけない。政治は生活を直接左右する。これが宗教と結ばさるとろくなことにはならないのである。

宗教はあくまで、結婚、出産、葬儀といったイベントや日々の安全を祈ること、先祖の霊を慰めることといった祈りにのみ使われる儀式としてのみ存在すべきである。

儀式が手段になってはいけないのである。ましてや、あの手この手で資金を集めるなどという事は

神仏への冒涜でしかない。

あくまで、儀式のための最低限の建造物(不必要に華美であってはいけない、これは難しいが相応の荘厳さを求める事は否定すべきではないだろう)の維持管理にのみ使われるべきであって、一部の先導者の贅沢に使われるべきではないし、暴力を伴うテロ、紛争の資金にしてはいけないのである。

くれぐれも宗教と政治は完全に分かれているべきである。