アルカサルの画商

アルカサルの画商

世界は預言者であり、旅人はシャーマンである。

どうでもいい一滴
一滴、また一滴
記録に値しない一滴
一滴、また一滴
その一滴に
無理やり意味を
夢を
欲望を
見出そうとして傷つき
また一滴

悲しまないでと言われても悲しみます

ネギ入れないでと言われても、ネギ入れます

笑わないでと言われても笑います

玉手箱開けないでといわれても玉手箱開けます。

行かないでといわれても行きます

自分のことばかり考えないでといわれても自分のことばかり考えます

廊下は走らないでと言われても廊下は走ります


言わないでといわれても言います


自分を責めないでと言われても自分を責めます


人類がいなくなり、世界は森におおわれました

花は咲き、鳥は歌い、獣は弱肉強食です


言葉はなくなり、世界は許容だけになりました


許して、と言われたら

許します。

あることわざは、その意味の両面の可能性があるのに


それが絶対真実のような使われ方をする


デリカシーのない


先も考えない人々がそのことわざを振りかざして


いろいろなことを


台無しにする


例えば


雨降って、地固まる


そういう場合もあるが


雨降って地流れることもあるし


ひどい場合は


雨降って、地滑り

鶴を見た気がした。


夢と朝の間、霧がかった湿地帯の影。


鶴を見た気がした。


第二章の最中、うたた寝の思い出。


鶴を見た気がした。


だれも僕を面と向かって批判していないのに、批判の心の残滓。「頑張れ」と自分で自分に言う。


鶴を見た気がした。


枯れた郊外の散歩、追い詰められた季節の先、


サギだった。 


鶴だと思っていたけど


サギでもいい、


否、


サギがいい。


眠りと厳しい現実の狭間、


それは美しく、白く、立つ。




「猿」という名前の伝説の役者がいた。
 彼は主演、監督、脚本、裏方の仕事まですべて一人でこなし、週に1日だけ西東京のある町の劇場で公演を行っていた。
 一人芝居ではなく、猿は知り合いの劇団から何人か役者を借りて、彼自身が演技指導を行い、劇を成立させていったが、猿の指導を受けた役者たちは、猿の劇では輝くが、他の劇ではぱっとしない、猿はそういうあまり役者向きではない素人に近い役者を使うことを好んだ。
 猿の劇は、喜劇であり、悲劇であり、史劇であり、歌劇であった。独特でどのジャンルに当てはまるか、猿の劇の観客は答えることができない。しかし観客は毎回感動と幸福感を猿の劇で得ていた。
 猿の劇の観客は、ほとんど固定の観客で、猿が講演を行っていた20年近く、ほとんど同じ顔ぶれだった。彼らの中で観劇の時間は至福の時間で、人生の意義ですらあった。
この素晴らしいエンターテイメントが、西東京のこの町から外に広まることはなく、固定の観客以外、猿という役者については演劇界で知られることもなかった。猿の劇に係った役者も大成することはなく、まだ猿自身も有名になりたい、テレビや映画で活躍したいという望みを持っていなかったので、ある日猿が突然公演をやめてからは、あっという間に世間から消えてしまった。

 地球から7万光年ほど離れたビビイック星系のインテンソーガモルンモルン星にも「猿」という名前の伝説の役者がいた。
 彼は17歳でモデルとしてスカウトされ、アイドルとして芸能界でのスタートを切ってから、トレンディドラマ、コメディ、刑事ドラマ、社会派ドラマ、大河ドラマ、ありとあらゆるドラマ、そして彼自身が主宰を務める劇団「餅つき嘘つき狐憑き」のワ―ガリアンドーム公演(200万人収容)の成功と彼の345年間の役者人生を通じて、インテンソーガモルンモルン星の人々に感動を与え続けてきた。
 インテンソーガモルンモルン星では、「猿」と言えば彼のことであり、あらゆる役者の頂点に立つ存在であり、英雄ですらあった。

 しかし西東京のあの町では役者「猿」といえば、あの「猿」のことであり、インテンソーガモルンモルン星のことなど存在すらも知らない。

 ここで僕は考える。間違えて、甘くしてしまった大盛アイスコーヒーを飲みながら、考える。

 比べてみればどちらの猿も、観客に与えた感動は同じくらいなのかもしれない。

 確かにインテンソーガモルンモルン星の猿はすごいが、この広い宇宙には、もっとすごい役者はいるだろう。
そして、役者にこだわらなくても、この広い宇宙には、もっとすごい、人に感動を与えた存在はいるだろう。

 あとは、感動なのか、恐怖なのか、喚起なのか、無の無限のエネルギーなのか、救済なのか、自己満足なのか、いろいろなジャンルを入れてしまえば、何がすごくて、何が大したことないか、価値を比べることは大小ではなく、結局はその場、その場の状況によるのだということがわかる。

 僕も今は少し鬱気味で、これから先、人生にはたいしていいこともないし、苦しいことや悲しいことばかりだという状況ではあるけれども、これまで参加した飲み会の多数で、皆と楽しく飲んだし、これからもその楽しく飲んだ思い出を語りながら、楽しく飲めるだろうと思う。この楽しさは、「猿」の観劇客の感動とも近いものがあり、僕と猿の間には大小の差別はあったとしても、本質的なところで同じなのではないかと思う。

 これからの多様化、個人化の時代の中で、逆に情報化により個性が失われていくような流れではあるけれども、個性という一種の嘘を大事に守りながら、僕は僕で猿のように小さな感動を求めて生きていこうと思った。

 そう思うと鬱も少し晴れるし、もてあましたビッグサイズの甘いアイスコーヒーも許せる気がする。

 ちなみに、僕にとって、「猿」と言えば、プロゴルファーです。

泣きたい気持ちはあるが、涙は出ない

吐きたい気持ちはあるが、※△Xは出ない

意味の無い景色をさまよい

味の無い肉をかじる


楽しそうにしている人たちが

嘘みたいだ


いや、

嘘だ


この世界は

壮大な嘘だ


「すいません、全部嘘でした」


僕は謝罪してみる


嘘に対して

謝罪してみる


でも気分は晴れない

なぜなら、謝罪したところで

その謝罪も嘘なのだから


ていうか


嘘って何?


事実と異なること?


事実がわからないから、事実がいくらでも作れるから


嘘になるの?


じゃあ謝らなくてよくない?


泣かなくて、吐かなくてよくない?


ちょっとくらいなら、迷惑かけてもよくない?


こっちはこっちで多少のことは許すんだから


よくない?



どうせ枯れるのに、草はまた芽吹く

太陽も燃え尽き、黒い鉄の塊になる

時間は過ぎて戻らず

思い出のなかの美しさ、優しさ、愚かさがいまのこの身を焼く


寒い

冬だ。


歩みを止めた瞬間から

地平線は固定され

重く冷たい地球


赤く鮮烈に枯れてゆく山

また芽吹き、また枯れてゆく


どうせ死ぬのに

今日もまたいつもの新しいことが

始まる



断ることを恐れて


その恐れが巨龍になるくらい膨れて


ドラゴンブレスに心を焼かれる


断れない


断れない


やめたい


やめたい


頼んだ方もイライラしてるだろうし


こちらもそのイライラに苦しんでいる


悪意のない言葉が


悪意に聞こえる


よく考えてみれば


相手が馬鹿なだけではと


自分の我儘を棚にあげ、考えてみる


では断ればと


自分に語りかけ



またドラゴンブレス

無色の世界

無臭で痛みも無い


いや、痛みはある


よく匂えば、臭い


たまに震えが来る


不安と恐怖の震え



貧乏は僕にぴったりの服で


清潔だけを、誇る日々



それとなく電車の椅子取りゲーム


座って得られる、一瞬で絶対の


安らぎ

下り坂の景色は


胸踊るものはないものの


静かで、悲しくて、美しい



これを見ないで消えていった人たちは


幸せなのか、不幸なのか



秋の小径


思い出はよそよそしく


吹く風はかさかさゆく



ため息が高く青い空に



吸い込まれる。

人間になろう

人間になろう

週5日毎日8時間働き

たまに10時間働き

嫌な毎日の中に

楽しいことを見つけ


責任ありそうな顔をして

ほどほどに責任をしょいこみ


限界が来たら、般若心経をとなえたり、十字を切って左の頬を差し出したり


ゆっくり死に近づき

ゆっくり死に近づき


最後は眠るように死んでゆく


おやすみ

おやすみ


人間になろう

人間に