現在、京都嵐山の福田美術館では、
初公開となる絵巻も話題の伊藤若冲展が開催されていますが。
同じく京都の京都文化博物館では、
「若沖を超えろ!絢爛の花鳥画」をキャッチコピーに、
“生誕140年記念 石崎光瑤”が開催されています。
会場入り口前に、パネルが設置されているのが、
本展の主役である石崎光瑤(1884~1947)その人です。
なお、パネルは等身大で、その身長は176㎝。
見た目は画家というよりも、スポーツマンのような印象です。
などと思っていたら、実は光瑤は、登山家としても名が知られているようで。
国内最難関の山とされる剱岳に、民間人としては初めて登頂に成功したそうです。
こちらは日本近代登山史的にも重要なその登頂時の写真↓
石崎光瑤撮影「剱岳の絶巓」
原板:剱岳初登頂の記念写真(石崎光瑤撮影)/杉本誠収集作品 安曇野市蔵
光瑤が撮影したため、彼自身はこの写真には写っていないのだとか。
こんな貴重な場面で、カメラマンを買って出るなんて。
きっと光瑤は“いい人”だったに違いありません。
また、登山と言えば、光瑤は日本人登山家として初めて、
ヒマラヤのマハデュム峰(3966m)の登頂に成功したのだそう。
展覧会ではその際に描かれたスケッチや、撮影された写真も紹介されていました。
さて、登山家としても一流なら、
画家としても一流だった石崎光瑤。
その才能は若い頃より発揮されており、
故郷である富山湾をモチーフに描いた屏風絵は、
とても14歳の頃に描いたとは思えないほどの出来映えでした。
さて、19歳で京都に出て、竹内栖鳳に入門した光瑤。
28歳で文展に初めて入選すると、
以後、文展や官展で入選を重ねました。
30歳の時に文展に出品したこちらの《筧》という作品にいたっては・・・・・
褒状を受けた上に、宮内省の買い上げとなったそう。
画家として、順調にキャリアの階段を駆け上がっています。
さらに、ヒマラヤから帰国した後は、絵画もスケールアップ!
熱気や湿気のようなものが画面に充満しており、
作品に近づくと、その熱や湿度が実際に感じられるようでした。
とりわけ素晴らしかったのは、第1回帝展で特選を獲った《燦雨》です。
石崎光瑤《燦雨》 大正8年(1919) 南砺市立福光美術館蔵
描かれているのは、突然のスコールに驚くインコや孔雀たち。
実際に現地でスコールを体験したからこそ、
描けたのであろう圧倒的な説得力がありました。
なお、スコールは金泥で表現されており、
雨風の威力は、滲みを活かした描き方で表現されています。
日本美術の前例に、スコールを描いたものがないため、
おそらく、光瑤なりにさまざまな工夫を試みてみたのでしょう。
そのあくなき探求心みたいなものにも、心を打たれる作品でした。
なお、初の最大規模展となる今回の石崎光瑤展では、
《燦雨》だけでなく、光瑤の代表作の数々が紹介されています。
石崎光瑤《白孔雀》 大正11年(1922) 大阪中之島美術館蔵
中でも目玉と言えるのが、高野山金剛峯寺、
その奥殿のために描かれた襖絵20面の特別展示です。
金剛峯寺奥殿「雪嶺の間」※襖絵は石崎光瑤《雪嶺》 明治10(1935)年
通常非公開なうえ、そのうち8面の《雪嶺》は寺外初公開とのこと。
石崎光瑤 金剛峯寺奥殿襖絵《雪嶺》 明治10(1935)年 金剛峯寺蔵
描かれている山々は当然、高野山なのかと思いきや、
ダージリン地方を中心としたヒマラヤの山々なのだとか。
実は、「ダージリン」の漢字表記は、「金剛宝土」とのこと。
つまり、金剛峯寺とは「金剛」繫がり(?)なわけです。
・・・・・まぁ、関係あるっちゃあるけど、無いっちゃ無いような。
ちなみに。
細密な描写で画面全体を埋め尽くすような作風が特徴的な光瑤。
その作風は、どこか若冲と通ずるものを感じます。
それもそのはずで、光瑤は若冲を明治末期から評価し、研究していたそうです。
しかも、大阪の西福寺が所蔵する若冲の代表作の一つ、
重要文化財の《仙人掌群鶏図襖》を発見し、世に紹介したのが光瑤なのだとか!
本展では、その模写作品《鶏之図》も出展されていました。
「若沖を超えろ!」というコピーを目にした時は、
正直なところ、“若冲人気に乗っかった?”と少しは思ってしまいましたが(笑)
いやいや、光瑤は、まさに正真正銘、
若冲を超えようと画業に邁進した画家でした。
《燦雨》をはじめ渾身の大作の数々は、
実際に、若冲を超えていたように思えます。
まだ知られざるこんなスゴい日本画家がいたとは!
この展覧会を機に、石崎光瑤の評価が高まることは間違いなし。
伝説のはじまりを目にした気がしました。