・澁澤栄一翁の復習・・・(16) | 日本哭檄節

日本哭檄節

還暦を過ぎた人生の落ち零れ爺々の孤独の逃げ場所は、唯一冊の本の中だけ・・・。
そんな読書遍歴の中での感懐を呟く場所にさせて貰って、此処を心友に今日を生きるか・・・⁈

 結果的に、澁澤翁の人生の最大イベントとなった

『渡仏御下命のお達し・・・』

までに、15編も要して居るとは、まったく以って情けないが、こうなれば、半ばヤケクソで先を続ける・・・(汗)

 

『1867[慶應3]年にフランスで開かれる万国博覧会に招待されたから、その使節として、民部公子(=慶喜の弟=徳川昭武)を派遣することになったから、これに随行せよ・・・!』

との命で、その人選を行ったのが、誰有ろう

『将軍(=慶喜公)直々の御指名・・・』

と聴けば、それは、またと無い栄誉である・・・(笑)

 

 この時の感動を、澁澤翁は、『雨夜譚』で、

 

『自分 が その とき の 嬉し さは じつに 何とも 譬 うる に 物 が なかっ た。

  自分 が 心 で 思っ た には、 人 という もの は 不意 に 僥倖 が 来る もの だ と。 速やか に お 受け を 致し ます から ぜひ お 遣わし を 願い ます、 ド ノ よう な 艱苦 も 決して厭(いと)い ませ ぬ・・・!』

(渋沢栄一・自伝 雨夜譚; 東林出版・Kindle版) 

 

と即答したと述べて居るが、将軍家家来の詰め部屋で、

『いっそ出奔しようか・・・』

と想いながら燻って居た澁澤翁には、当に

『渡りに船の僥倖・・・』

に映ったのだろう・・・。

 

 ただ、この僥倖は、澁澤翁一人へ降って来た幸運で有って、

『死生を共に・・・!』

と誓い合って来た喜作のことが案じられたので、彼には、

『不本意だろうが、このまま将軍家の家来として働き、相応の地位を築け・・・!』

と云い含めて、二人は、一旦別れることになるのだが、喜作の身から視れば、最早、武州を出た時の

『討幕攘夷の志・・・』

からは、完全に外れたレールに乗って走って居るのだから、さぞや複雑な心境で有っただろうし、澁澤翁も、その複雑は、十分に察しては居ただろうが、自分が、洋行して

『新しい世界を観れる経験・・・』

への興奮の方が、遥かに勝ったのは、想像に難くない・・・。

 

 澁澤翁たちが、横浜から、フランス郵船『アルへー号』に乗船して出航したのは、

『慶応3年1月11日・・・』

となって居るが、面白いのは、その前まで、外国や外国人を

『外国 は すべて 夷狄 禽獣 で ある・・・!』

と想い込んで来た澁澤翁が、既に、西欧列強の威力を悟らされ、

『その語学や知識を吸収しなければならない・・・!』

と豹変して居ることである・・・(笑)

 

 水戸藩主だった民部公子(=昭武公)に付き添う水戸藩氏たちは、元々が、先代の烈公(=斉昭ら)から繋がる

『開国論藩・・・』

だから、然程の抵抗は無かっただろうが、それまで、

『夷敵攘夷・・・』

から発して居る澁澤翁のメンタリティーが、こうも容易に切り替えられたのは、やはり、その出自が農家で有って、我が家の家業が、商いも営んで居たことで、極自然に身に着けて居た柔軟性に有ったからなのだろうか・・・?

 

 まあ、全体に、物事に拘泥しない

『アッサリ型・・・』

だったように視えるな・・・。

 

 約二ヶ月(=59日目)の長旅を終えて、フランスのマルセーユに到着し、先ずは、当時の皇帝である

『ナポレオン三世・・・』

に、この博覧会への招請へのお礼の親書を奉呈したり、返書を受け取ったりと云う儀式を済ませた後は、所謂

『雑用掛・・・』

のような役目を担って、書記や会計に務める訳だが、日頃は、到って閑暢な日々だったようで、早速、この閑散とした時間を利用して、一緒に来た二人を誘い、

『仏語の勉強・・・』

をするために、教授を雇ったりして居るから、抜け目は無いわなあ・・・(笑)

 

 常に、

『次に、何が必要か・・・?』

を思案し、それが浮かべば、迷わず、それを実践して行く・・・。

 

 その

『決断力と行動力・・・』

に、少しの逡巡も無い辺りは、後々の事業実践でも、大いに発揮される才覚のような気がするな・・・。

 

(つづく・・・)