でも、そもそも「父性」とは一体どんなものなのだろうか・・・?

 

その疑問について、著者は、

<以下引用>

母性すなわち母であることは遺伝的本能的な基盤を持っているのに対して、父性すなわち父であることは後天的で文化的な産物だというのが、これまでの定説であった。(中略)父性は本能的な基盤のない単なる文化的な発明品であり、だから脆弱な基盤の上にしか立っていない、あやふやなものだということになる。(後略)

<以上引用>

と著しているが、その後で、これを「これまでの通説だった」と断り、

「しかしそれは間違った認識だったと言わざるをえない。」

とも謳っている。

 

この際、一時代を終えた凡夫の爺々には、そんな高尚な学説や通説は今更どうでも善いが、それでも、

「父性は本能的な基盤のない単なる文化的な発明品」

だという学説は、その当事者だった「元父親」として、「なるほど・・・」と頷かされる説得力がある。

ただ、その後ろにある

「あやふやなもの・・・」

という響きにそこはかとない切なさを伴う感懐を禁じ得ないが、確かに自分が経験した「父親」という立場と存在は、どこか確固とした確証のないままに求められる「あやふやなもの・・・」の中で終わったと云えなくも無い気がする。

 

著書は、この引用文の前段で、父性の対極である「母性」の存在を、

「母子のつながりは哺乳類の昔からの、いや大げさに言うと生物が生まれたときからの、揺るぎないきずなで結ばれている」

のだとも定義付けてくれているが、なるほど、云われてみれば当にその通りで、我々「男(父親)」の側には、母性が子供の誕生(受胎)と同時に授かる確固たる「揺るぎないきずな」を実感する術は、残念ながら持ち合わせない。

下世話な云い方をすれば、妻(母親)から、

「あなたの子供よ・・・!」

と云われるから、

「はあ、そうなのだな・・・」

と納得して子育てに加わるだけで、そこに絶対的確証は持たないままに、父子の間には「黙契」が結ばれているに過ぎない関係だと云えなくもないのだ。

当に、「あやふやなもの・・・」そのものである。

近年、科学の目覚ましい進化の中で、遺伝子解析の高度化によって「DNA」なる便利でほぼ完璧に近い遺伝的確証を確かめる術を得るには至ったが、普通の父子関係に於いて、そこまで遡って「我が子」の正否を確かめる事など、一般には「必要無い・・・」と了解している男(父親)が、ほとんどのはずである。

 

話が、あらぬ脇道へそれてしまった・・・。

こんな下世話を語るためにこの記事を起こしたのではない。

我々日本人(否、人類そのものだが・・・)が遍く持ち合わせていた「父性」が衰えたことで、昨今のこの世の中が狂い、無責任な為政者や影響力の大きい教育者などのリーダーが跋扈して憚らない社会になってしまったことを嘆き、その改善の手立てを何とか見出せないか(少々構え過ぎか・・・?)と想って書き始めたのだ。

 

その為には、最初に「父性」そのものの何たるかを識る必要があると想ったのだが、著者は、「父性」の発生は、これまでの通説である

「父性は本能的な基盤のない単なる文化的な発明品」

などでは無く、もっと遥か太古の類人猿時代に遡って、その要素は備わっていたのだと説いている。

 

即ち、我々人類の持ち合わせて来た「父性」は、祖先とするチンパンジーやボノボ(ピグミー-チンパンジー)或いはゴリラの生態に於いて、既に似た習性を備えているらしい。

つまり、我々の持つ「父性」は体内に備わった「遺伝的習性」であって、脆弱な基盤の上に創られた「文化的発明」などでは無いという説は、心強いし誠に有難い。

それが「文化的な発明」などであったら、一度壊れたらなかなか元には戻せないし、戻そうとしたところで、それは大きく捻じ曲がった「紛い物」になってしまう危険性があるが、それが、生まれ持った「遺伝子」のレベルで既に備わった「習性」であるなら、今一刻、その発露を忘れた日本人の男たちも、何れやがてそれをまた想い出し、また発現させて、大いなる父性の発揮によって、この世の中を「改善」できる可能性が大いにあるのだから・・・。

 

何か、話が、更にまた脇道に迷い込みそうになってしまった。

次の項で、この「父性」の遺伝的考察の面白さをお伝え出来れば善いが、果たして、この浅学非才にその文力のあるや否や・・・。

 

(つづく)