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 戦後の経済復興を成し遂げてきた国の舵取りは今、岐路に立たされている。

 あらゆる分野において構造改革は避けて通れない問題だろう。

 痛みは人間になくてはならないものだ。急性痛も慢性痛も、どちらも存在する意義がある。

 前者は命を守るため、後者は心の痛みを肩代わりするために存在している。人間は痛みと共存して生きている。

 社会もまた同じだ。改革に伴う痛みを国民が共有してこそ、そしてそれを乗り越えてこそ、我々の子孫に確固たる未来を残すことができる。

 

 実は、ぼく自身に原因があって、ぼくたち夫婦には子供ができない。
 ぼくは自分の子孫を残すことができないが、思想は残すことができる。
 だから、ぼくはものかきを目指したいと思った。
 この時代に生きた証しを活字にして残したいと考えた。


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 資格の壁を密かに封印し、回答用紙を提出してしまったあとの虚無感に打ちひしがれ、保険制度の矛盾を憂い、自らの心性がぶれてゆくなか、ぼくは取り返しのつかないミスをした。

 

 二十代前半の女性の患者さんだった。左手の薬指の骨折で来院した。
 とても難しい骨折だった。整形外科の手専門医(医学は分業化が進んでいる)による「石黒法」という簡便な手術がもっとも理想的な治療法であることは分かっていた。

 しかしぼくは自分の能力を過信した。何かが麻痺していた。できると思い込んだ。

 ぼくが治療した結果、完全な状態に復すかどうか微妙な骨のつき方になった。予断を許さない状況だった。

 指先が曲がって治る可能性があった。患者さんの前では平静を装っていたがぼくはひどく狼狽した。あと一週間経っても関節の状態が改善しないようなら、専門医に紹介しなければと考えていた矢先、彼女は姿を見せなくなった。


 ぼくは彼女の自宅に電話して「その後の指の具合」を聞きたかった。聞くべきだった。
 でも電話する勇気がなかった。いつのまにかぼくは煩雑な日常の片隅にその記憶を埋没させていた。

 

 それから一ヶ月後、骨折の治療データを整理している時、ぼくは彼女のカルテと再び対峙した。
 その刹那ぼくの脳裏によぎったのは、近い将来に彼女が結婚式で曲がった薬指を新郎の前に差し出している姿だった。
 全身から力が抜けてゆくのを感じた。何かが身内から消えてゆくような喪失感に襲われた。

 もちろん現実は分からない。あの後、彼女が転医して、専門家による適切な治療を受けた可能性もある。願わくはそうであって欲しいと思う。

 でもやはりその可能性は低い気がする…。いずれにせよ、ぼくは彼女に対して最後まで責任を果たさなかった。その頃のぼくは、診察室で泣き叫ぶ子供の姿を見ても、既に何も感じなくなっていた。かつて彼らの涙に切なさと共感を抱き、「助けてあげたい」という心の震えを感じていたぼくは、もうそこにいなかった。

 

 数年前から自律神経が正常に機能しなくなっており、胃痛、胸痛、耳鳴りに苦しんだ。免疫力が低下して、頻繁に風邪をひくようになり、風邪薬、胃薬等を飲まない日はなかった。

 副院長として過した三年間は、ほとんど薬漬けの日々だった。


 ぼくは医療から撤退する決意を固めた。
 長野オリンピックを間近にひかえた平成十年の冬のことである。


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 医療を長く続けてゆくには、強い心がなければならない。それを手に入れる過程では知らず知らずのうちに感性が削られていることが多い。

 たとえば、看護婦さんが担当した患者さんの死に対し、毎回のように悲しみに沈んでいたら、身も心もずたずたになってしまう。

 精神がもたない。だからどこかでスイッチを入れ替えて距離を置く必要がある。

 それができなければ自分が病気になってしまうだろう。

 医療人はある意味では、感じる力を少しずつ麻痺させてゆく過程がどうしても必要になる。

 「強く」なるためには避けて通れない道なのかも知れない。

 

 けれども、ぼくは感性を麻痺させてまで強くなりたいとは思わない。
 はじめて医療の世界に飛び込んだときの、あの「誓い」に背を向けたくはない。
 人としての心を麻痺させずに、強くなるにはどうしたらいいのか。
 その答えをぼくは死ぬまで探し続けるだろう。たとえそれがパラドックスだったとしても、ぼくは自分と戦い続けなけれなならない。ぼくがぼくであるために。


         ◆

 

 白衣を脱いだ後、ぼくは軽井沢に転居した。

 生まれて初めて都会以外での生活を経験した。ここは四季の移ろいが紡ぎ出す豊かな表情にあふれていた。

 

 峠の山脈を彩る曙色の夜明け。
 キャベツ畑に舞うダイヤモンドダスト。
 浅みどりが広がる木々の芽吹き。
 松葉色の林と濡れた苔の海。
 別荘地に響き渡るヒグラシの調べ。 
 裏葉色の下を流れる湯川のせせらぎ。
 野生のサルやニホンカモシカのつぶらな瞳。
 牧場を埋め尽くすコスモス畑。
 琥珀色に輝く晩秋のカラマツ林。
 湖面にゆれる落葉樹の紅葉。
 太陽が地平線に沈む直前、数分だけ放ったエメラルドグリーンの光。

 

そういった自然に身を浸した日の夜は、ベッドで目を閉じる度、その世界が眼前に広がった。
 この眠りにつく直前の、網膜に投射された情景を見る時間がたまらなく好きになった。大自然に抱かれた幸福なひとときだった。
 

 四季とともに変化する山々の装いは、遠景には色彩のみの変化として映るけれども、間近に見れば、木々をはじめとした生き物たちの生死そのものだ。
 芽吹きから紅葉そして落ち葉へと姿を変えてゆく葉の一生も、森林の遷移を手助けしている野鳥や動物たちの一生も、すべては四季が司っていた。

 四季とはつまり動物や植物の生死の変遷、すなわち自然に宿る命の連鎖だった。

 自然を感じ、地球を感じ、宇宙を感じる時、ぼくの五感は透明な泡沫となって外界に投げ出され、やがて神気と戯れ、ぼくの心に帰ってきた。

 そしてぼくという一個の存在も、地球が連綿と創造する自然の営みの一部であると覚ったとき、ふっと心が軽くなった。

 

 人間もまた自然と四季の循環のなかにいるのだ。
 そう感じたとき、死もまた生であると思えるようになった。
 反意語であるはずの生と死の関係が、ぼくのなかで同義語に変った瞬間だった。

 空を泳ぐ雲の連なり、威風堂々と聳える浅間山、夜空に瞬く天の川、何気ない日常に垣間見るこれらの一つ一つが、ぼくを救ってくれた。

 ぼくは自然に癒された。


 軽井沢での3年間、薬を飲むことは一度もなかった。自律神経失調症もすっかり影を潜めた。

 ぼくの肉体は、恢復した。

         

          ◆

 

 四月からは、再び白衣を着ることになる。
 軽井沢が心身の疲れを癒してはくれたが、ぼくは完全に吹っ切れていない。

 再び医療現場で戦う心の準備が必ずしも整っているとは言えない。

 けれども、今の社会の枠組みに生きている以上、経済という基本は欠かせない。

 自分の領分をわきまえ、地に足を着けた生活を取り戻すところからはじめなければならない、たぶんそういうことだと思う。

 それは理屈として分かる。でもそういう動機から医療に携わりたくはない。そんなものは、ぼくにとっては何の原動力にもならない。

 

 サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」の一節に次のようなものがある。  
 「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」         
 たしかにその通りだと思う。このままではぼくは死んでしまうかも知れない。
 しかしその境界線上に踏みとどまって、ぼくは戦い続けたい。

 いつの日か

 「理想のために高貴な生をまっとうする成熟の人間」

 になることを夢見て。 

          

          ◆

 

 ぼくの妻は七歳年上である。日本人の平均寿命は男七七歳、女八四歳、ちょうど七歳の差。

 つまりぼくらが順調に生きてお互いに平均寿命を同じレベルで超えて旅立てば、いっしょに行ける。どちらか残された方が寂しい思いをしなくてすむ。

 昨今の老年社会を眺めていると、ぼくらの年齢差はとても塩梅の良いものだと思う。 

          

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《今回をもって「避暑地の猫」を終了します。最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

                                   平成十三年二月 吉日 》




                         

                      「避暑地の猫」-目次-



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