本稿はずいぶん以前に書いたものだが、私のブログにしてはじゃっかんのアクセスがあり、捨てるのはもったいないので、ポイントと補足を入れて更新しておく。24/05/13。

 

 

 


ポイント

魔女裁判・魔女狩りが始まったのは確かに中世。だが一番激しかったのは近代になってから。補足。「近世」という時代区分は外しておく。

カトリックよりもプロテスタントの方が激しかった。

一部の異常な人間が推進したのではなく、当時の公権力が組織的に行ったものである。ここが非常に重要。

 

 

 

 


補足

魔女とは言っても男性もいた。だが女性の犠牲者が多い。

プロテスタント地域で激しかったのは、スコットランド、ドイツなど。

イングランドでは拷問が禁止されており、比較的少なかった。スウェーデンでは、クリスティーナ女王が宗教裁判自体を禁止したので、ほとんど発生していない。

 

 

 

 



これ以下が以前に書いていたたもの。訂正したい部分もあるが、そのままにしておく。

 

 

 


 


理不尽な仕打ちを受けたときなど「中世の魔女裁判」というが、実は魔女裁判が行われたのは中世ではないのである。魔女裁判や魔女狩りについての書籍は多いが、今回は、次の二つを主に参考にする。

「魔女狩り」 岩波書店
「魔女狩り」 教育社

書名が同じなので引用するときは出版社名で行う。なお、本稿では「魔女」という現象については扱わない。

最初に主題とは関係ないが「魔女」とは言っても対象となったのは女性だけではない。しかし女性が多いのは事実。「教育社」のp202のデータを参考にすると、女性が四倍程度のようだ。

魔女裁判や魔女狩りが始まったのは、たしかに中世である。魔女裁判(魔女狩り)は十三世紀のフランスで始まり、なんと十八世紀の後半まで続く。その範囲はヨーロッパ諸国とアメリカ。宗教的にはキリスト教に限定される。もっとも激しかったのは1600年を中心とする100年間。

異端審問制が制定されたのが1233年グレゴリオ教皇の教書。もちろん異端審問制自体は魔女裁判ではない。またすぐさま魔女裁判/魔女狩りが吹き荒れるわけではない。「岩波」では、この時期以降しばらくは教会は異端審問官が暴走するのをむしろ押さえるような立場を取っていたとしている。

魔女裁判の発端は明らかではないが、教会が明確に魔女裁判を認めたのは、ヨハネス22世の1318年の教書。そして悪名高い「魔女の鉄槌」(「岩波」では「魔女の槌」となっている)が1485年。これは二人の異端審問官の共著。ちなみにジャンヌ・ダルクが魔女として処刑されたは1431年。

「岩波」では個別事例がかなり取り上げられているが「教育社」では、貴重なデータが紹介されている。「教育社」p31に西南ドイツの魔女裁判の件数を十年ごとに提示している。1610年代、1620年代が大きなピークとなっており、いったん減少して、1660年代に再度多くなっている。

「教育社」p77、ルクセンブルグの魔女裁判。1580年から1606年、1606年から1636年の件数がその前後を大きく圧倒している。

フランスにおいては、1604年から1610年が魔女裁判の第一波、1640年から1660年が第二波の魔女裁判、1670年代が第三波の葉所裁判と三回のピークがある。「教育社」p96-p106。

スコットランドで、魔女取締法が制定されたのが1563年。そして1590年から1597年、1640年から1650年、1660年から1663年とこちらも三度の魔女裁判のピークがある。なお二番目のピークはピューリタン革命の時期と一致する。

イングランドでは最初の魔女が処刑されたのが、1566年(注、魔女裁判の最初とは異なる)。「教育社」p158のグラフによると、1580年頃、1650年頃に魔女裁判のピークがある。なお後述するようにイングランドでは他の地域に比較して魔女裁判は少なかった。

魔女裁判はアメリカでも行われた。有名なセイラムの魔女裁判は1692年、200名が逮捕され、20名が処刑された大規模なものであった。

「岩波」p201に魔女裁判が終了した年が記述されている。イングランド1717年、スコットランド1722年、フランス1745年、ドイツ1775年、スペイン1781年、スイス1782年、イタリア1791年、ポーランド1793年。

簡単に見たが、明らかに魔女裁判/魔女狩りのピークは近代に踏み込んでいると言えよう。ちなみにルター「95個条の提題」が1517年。カルヴァンがカトリック教会と決別したのが1534年。コペルニクスの「天球の回転について」の出版が1543年。ダ・ヴィンチの死亡が1519年。

さて本稿の主旨が単に魔女裁判/魔女狩りが中世なのか否かを論じるためではないことは、すでにお分かりだろう。

カトリックとプロテスタントについて。魔女裁判というと、「権力を失っていく教会の最後のあがき」のような印象をもたれるかもしれないが、ご覧のようにプロテスタント諸国でも魔女裁判が行われている。むしろ魔女裁判が激しかったのはプロテスタントのほうであり、特に激しかったのはドイツである。もちろんプロテスタントの仕業である。スコットランドでは宗教改革以前では一件の魔女裁判もなく、またピークを迎えるのはピューリタン革命の最中である。

例外を挙げておくと、イングランドでは法的に拷問が禁止されていたので、魔女裁判は少なかった。またスウェーデンでは女王クリスティーヌが1647年に魔女裁判を禁止した。ちなみに彼女は後に王位を捨ててカトリックに改宗してローマに移り住んでいる。またデカルトを呼び寄せた人物でもある。アイルランド (カトリック)では魔女裁判/魔女狩りはほとんどなかったという。

宗教改革の立役者の二人、ルターとカルヴァンは魔女裁判/魔女狩りという点から見ると大罪人である。コペルニクスを批判したルターが魔女裁判を強く支持したのはよく知られるところ。「私はこのような魔女には、何の同情も持たない。私は彼らを皆殺しにしたいと思う」(「岩波」p175)。

またカルヴァンは俗世的な権力も握っており、その罪は大きい。「加えてジュネーヴにはあのカルヴァンがいて、世に神聖政治と呼ばれる体制を確立していたのだから、スイス特にジュネーヴに魔女迫害の嵐を予想することはむしろ当然といえるだろう」(「教育社」p136)。注、しかしスイスでは死刑ではなく、追放刑が多かったとも指摘している。

魔女裁判/魔女狩りはカトリックよりもプロテスタントにおいて激しかったといえる。カトリックはキリスト教といいながら、むしろマリア教とも言うべき側面を持っており、奇跡的な事象を容認する。修道院においては、脈々と受け継がれてきた。

しかしプロテスタントでは、このような事象は一切否定される。この点においてプロテスタントの不寛容は強く指摘しておくべきである。その人自身が奇跡的な事象の存在を認めるか否かということと、そのような主張をする人の存在を否定するか否かということとは別なのだが、相手の存在を否定するような領域まで踏み込んでいるということができる。

付和雷同するものは、いつの世にもいるが、魔女裁判/魔女狩りは大衆運動としてよりも、公権力が組織的に行ったというのが特徴である。そして付け加えれば、狂った人間、理性を失った人間のヒステリックな行動ではなく、進歩的な人間、まじめな人間、知性のある人間が、消極的にではなく、積極的に関与したことが特徴である。これは、きちんと把握しておきたい。

「岩波」では、この事実を認めているのだが、どのように処理すべきか苦慮した様子が伺われる。

「近代的なルネサンス運動と宗教改革運動とは、その開始から終滅にいたるまで、中世的な魔女裁判とその時期を同じくした」(p172)。細かく言えば「近代的な」はルネサンス運動と、宗教改革運動の両方を修飾する。そして「中世の魔女裁判」ではなく「中世的な魔女裁判」と書いてあるのは、時期的には中世ではないけれど、そのレベルにおいて中世であると見ていることが分かる。

またp178から「ルネサンスの保守性」という節を設けて、知識人や科学者たちの「保守性」を描き出している。「ヒューマニズムと実証主義のルネサンス時代は、一方では残虐と迷信の時代であった。この逆説はルネサンス人自身が中世と近代とをその精神の中に同時に持っていたことに根ざす必然的な帰結である」 (p179)。あくまでも魔女裁判/魔女狩りを中世に帰属させたいようだ。

「岩波」は近代人の中に中世的な精神が残っており、この非合理的・非理性的なものに原因を求めるという立場で書かれている。「岩波」の出版年は1970年であり、また岩波のセンスであれば、このような限界は仕方がないとも言える。注、ここでは言及しないが、ヨーロッパ中世が「暗黒時代」というのは近代・現代からの誤解であって、近代・現代とは地平が異なる文化・文明を持っていたのを近代・現代の視点から批判しているのである。ここにおいても「岩波」は常識的な視点、ステレオタイプな視点を抜けていない。

我々はルネサンス時代を「宗教と科学の対立」、「理性と非理性的なものの対立」において科学的な立場・理性的な立場が強くなってきた時代と見る傾向がある。ルネサンスにおいては錬金術や占星術も栄えた。これらももちろん魔女裁判/魔女狩りと同じようにルネサンス以前からあるのだが、ルネサンスにおいて花が開いた。ルネサンスとはこのような時代である。それを中世の延長、残骸と捉えてしまうのは間違いだと考える。むしろ中世にはない特徴であり、ルネサンス自身がこのような性質を持っているのである。

ルネサンスは、時代の変わり目であって、いろいろなものが花開いた。いろいろな可能性があった。混沌とした時代であって、次にはどのように展開するかは分からない面があった。

魔女裁判/魔女狩りとは、そのような時代の多様性を受け入れることができずに自らの思想宗教観念で他者を縛ろうとした人々が起こしたものである。そのように考えると異質なものにむしろ寛容であったカトリックよりも、不寛容であったプロテスタントにおいて魔女裁判/魔女狩りが激しかったということが納得できる。