展覧会に無駄はないものだなぁ、なにかしら血肉になり、充足感が得られるものね、

そう実感したアーティゾン美術館の「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」展。

過去にも触れた通り、2003年、東京都庭園美術館のローランサン展は秀逸でした。
初期から円熟期、ドイツ人男爵との結婚を機に暗転、パリに戻って離婚後、

輝きを取り戻す、、そんな人生を絵と共に辿ることがでるパノラミックな展覧会。

特に、結婚後の亡命期の黒っぽい彩色はまるで別人のよう。

荒れる心が如実に絵に現れていて、これぞ暗黒期の作品といった様子。

実は当時描いた絵は数少なかったと後で知り、貴重な機会だった模様です。


なので2023年、Bunkamuraミュージアムの「マリー・ローランサンとモード」展は

さほど期待せずに行きました。

しかしココ・シャネルに対する嫌悪感と尊敬が交錯する微妙な関係や、

離婚後のスプリングボードになった絵画作品(グールゴー男爵夫人の肖像画2点)という

大きな収穫がありました。
とにかくグールゴー男爵夫人の肖像画は輝くばかりの美しい絵で(画像=>美術展ナビサイトに)
この2点だけでも行った甲斐があったというもの。

ローランサンが描いたシャネルの肖像画はそれに比べて陰りがあって、

シャネルが受け取り拒否したというのも納得です。

「牡鹿」で舞台芸術にも携わったと知りました。


ということでローランサンはもうお腹いっぱいかな、と思ってそれでも

足を運んだアーティゾン。

先週も土曜日に行ったものの、日仏でプルーストの朗読があると直前に知り、

滞在時間30分ぐらいだったので、本日仕切り直しでした。

本展のオリジナリティは、ローランサンと、xxxという組み合わせで見せる点。

序 章:マリー・ローランサンと出会う
第1章:マリー・ローランサンとキュビスム
第2章:マリー・ローランサンと文学
第3章:マリー・ローランサンと人物画
第4章:マリー・ローランサンと舞台芸術
第5章:マリー・ローランサンと静物画
終 章:マリー・ローランサンと芸術

 

なかでもローランサンをキュビズムという視点で見せている章が新鮮でした。

あとは文学という切り口も。



下はローランサンによるピカソの肖像画と自画像。

ピカソに感化されていたことが一目でわかります。

目と体は正面向き、顔は横向き。キュビズム初期の香りが漂います。

 

ドランに連れられて行ったバトー・ラヴォワール(洗濯船)の影響は計り知れなかった

ということでしょう。(女性で洗濯船に出入りしていた画家はほかにいなかったのでは?)




 

画家仲間のメッツァンジェとグレーズ共著の「キュビズムについて」(Du Cubisme)という本にも、キュビズムの担い手としてローランサンの名前が。

 

さらに、ローランサンといえばアポリネール。

彼の著書「キュビストの画家たち」(右:Les Peintres Cubistes)でもローランサンを

キュビストとして扱っています。

 




 

 

傍らに、著者のグレーズとメッツァンジェ(右)の絵も参考展示されています。

 

 

 

ただし、ローランサンのキュビズムは、形態を分解するところまではいかず。

ストックホルムからきていた撮影禁止の群像若い「女たち」あたりが折り返しだったのでは?

それ以上つきつめることなく、独自の道を歩んだ印象です。

下の女性の「ブルドッグと女」はそのストックホルムの絵の少し後の作品。

キュビズム色がすでに薄れています。

 

 

 

ただし、会場最後の部屋にあるように、群像に対する愛着を見せ、

明らかにピカソの「アヴィニョンの娘たち」の影響は画業後半でも健在のよう。

 

 

 

上の最初の絵の左上に見えるミラボー橋は、アポリネールの詩のタイトルとして有名だけど、

彼は「マリー」という詩も作っています。

 

ローランサンの名前Marieというのは、聖母マリア(Marie)でもあり、

また、アナグラムで「愛する」という動詞にもなりますMarie => aimer(愛する)

そんな愛しさが伝わる詩です。

 

下の2つはアポリネールによる自作「ミラボー橋」と「マリー」の朗読です。