渋谷区代官山の旧山の手通りを挟む一帯には、ヒルサイドテラスと呼ばれる集合住宅・店舗が広がっています。

ただ、約30年かけて作られたため、それぞれの建物は違った個性を有し、統一感と変化が共存した洒落た雰囲気を醸しています。

 

これらを一手に引き受けたのが、先日触れた建築家の槇文彦氏。

 

なぜこんな一等地に広がる建築群をひとりで引き受けることになったのか、以前から不思議だったのですが、WIKIによると、地主が慶應義塾出身というよしみで任されたそうです。

(槇氏は幼稚舎から慶應だったものの、大学は工学部を一旦退学し、東大に入りなおしています。)

 


そのヒルサイドテラスの話に入る前に先日の講演会で、こんなこぼれ話を聞きました。

 

 

槇氏はそもそも慶應出身とはいえ、母校の建築を手がけようといった野心は持ち合わせていませんでした。

ところが、三田キャンパスの新図書館を建てるにあたり、黒川紀章さんが名乗りを上げていることを聞きつけます。

 

慶應にゆかりのない黒川氏が参画するぐらいなら自分が、、、とばかり、俄然意欲がふつふつと沸き上がり、ロビー活動を開始。

当時の石川塾長に掛けあうなどして、三田新図書館の設計をめでたく任されることになったそうです。

 

 

慶應三田図書館

 

 

御年90歳の槇文彦さん。

 

 

その4年後には日吉の図書館↓も設計。

三田とは雰囲気が全く異なることに気づきます。

 

三田の方は旧図書館の赤いレンガ色のイメージを温存させたのかもしれません。

 

 

 

さて、ここから代官山のお話に。

 

こちらのボードに、ヒルサイドテラスの各棟の分布図が載っています。

 

 

 

それに沿って、見て行くと、

 

第一期ともいえる1969年に建ったのは以下の2棟。

 

ヒルサイドテラスA棟とB棟(アネックスA,Bは槇文彦氏のものではないので略)

 

ヒルサイドテラスC棟(1973年)とD棟(77年)


ヒルサイドテラスE棟(77年)とH棟(92年)

 


ところでE棟までは、軒線がすべて10mでそろえられていたそうですが、第6期になると、”用途地域が変わったため”、”10m以上の部分をセットバック”してある、とWIKIに書かれていました。

 

 
平たく言うと、10m以上建てていいよ、となったけれど、他のA-E棟とF棟以降の軒線が劇的に変わると統一感が失われるので、それに配慮し、第6期の建物は10m以上の部分は少し後退させることで、軒線の乱れを最小限に抑えている、と理解しました。
 
 
具体的にはー

これが、セットバックが施されたヒルサイドテラスF棟。これでは少しわかりづらいのですがー
 
 
 
横から見るとわかります。
 
後退していない部分の軒線は10mラインになっているということでしょうね。
 
 
 
同じくヒルサイドテラスF棟も、上部のセットバックにより、軒下の統一が図られています。
 

 

   

でも、こうした一連のヒルサイドテラス以外にも、旧山の手通り沿いには槇文彦氏の建築群が続きます。

 

隣接する在日デンマーク大使館しかり。

 

 

 

さらに、店舗用のオフィスとして、ヒルサイドウェスト(下左)とセダストーンヴィラA棟も。

 

ヒルサイドウェストには槇氏のオフィスが入っているという情報です(WIKI情報)が、この写真はそうとは知らずに偶然以前撮影していただけなので、テナントまではチェックしていません。

このビル変わっているなぁ、と思ってさっとカメラを向けたのでした。

 



代官山の地主だったのは朝倉家ということで、ヒルサイドテラスA棟のお隣にある旧朝倉邸の主と思われます。
 
たまたまこの邸宅が事前の仮公開になったときに遭遇し、ちらっと内部を見物したことがあります。
そのときは無料でしたが、いまは有料、とはいえ入場料わずか100円で見ることができます。
 
邸宅の方は旧岩崎邸などに比べると比較的こじんまりしているな、といった印象でした。
でもまさかその隣に広がる広大な土地がこの家の持ち物だったとは思いもよりませんでした。
 
さらに代官山のみならず、当初朝倉家はさらにその先にまでわたる広大な土地を所有し、戦後にそれらを手放した後、”わずかに残った”代官山の地の不動産開発を決心したとのことですので、往時の敷地はいかばかりか・・・。
 
 
ちなみにD棟そばには、5mほどの盛り土があり、なんでも5-6世紀の古墳だそうです。↓