先日22日、姫路で行われた鈴木明子さん講演会に行ってきました。
いやー、良かった

席の場所は先着順だったのでちょっと早めに並んでたら、ほぼ正面の演者の方と同じ目線くらいの席に座れたので1時間以上喋るあっこちゃんを凝視できました(嗚呼、かわいかったさ)。
私は頻繁になんやかんやのセミナーに出ていてその度に「話の内容は全部書く」くらいのテンションでものすごい勢いでノート取ってるんですが、日頃培ったノート取りの技術で今回もばっちり取って来たので自分用の記録も兼ねてまとめてみました。
姫路市文化国際課国際交流センターというところが主催なので、明子さんご自身の国際交流体験や外国に行ってみて感じたことのお話が多かったんですが、普通にスケオタ垂涎のお話もたくさんして下さっていました。
フィギュアお好きな方もそうでもない方も良かったら読んでみてください。
過去最長に死ぬほど長いけどな。愛ゆえに。
明子さんご本人は、流れるように、というか普通に世間話するように気さくに楽しくお話してくれましたが(そりゃあもうかわいかったさ)、どうしても箇条書きっぽくなるのはご了承くださいねw
(文中の『私』は全部明子さんご自身のことです)
・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:
実は10年ほど前、仙台のリンクが一時的に無くなった時に、まだ9歳だった本郷理華ちゃんと長久保コーチと3人で姫路に来て、一週間ほどホテルに泊まり込んで姫路のリンクで練習した事がある。久しぶりに来ました。
私は何か出来るようになるのがとても遅く、人よりも時間がかかる。
でも、ゆっくりひとつひとつやってきたから、現役生活も長く続けられた。
フィギュアスケートは選手としてのピークがすごく早く来るスポーツ。
他のスポーツなら20代はまだまだ若手だが、フィギュアだとベテランになってくる年代。
テレビに映ると名前の後に必ず年齢が出るので、自分の名前の後に(26)とか出てるとああ・・・^^;と思っていた。
でも、若くして成功していたらこんなに長くは現役を続けていなかったと思うので、自分はこれで良かったと思う。
フィギュアは華麗だけどスポーツ。
私は、その選手とはいえ子供のころからジャンプが全然ダメで苦手だった。
というか運動そのものが苦手で、走っても遅いし垂直飛びなども全然だった。
でも子供のころからずっとずっとフィギュアが本当に好きで、どんなことがあってもいつも好きだったしもちろん今も大好き。
これからも自分の理想を追っていきたいし、いつかスケート靴を脱ぐ日が来ても理想のスケートを追求していくつもり。
今は自分のスケートだけではなく、振付師としても理想のスケートを考えている。
私の振付師として仕事は、本郷理華選手が第一号。
ずっと連絡を取っているし、外国で試合がある時は結果を追って夜も眠れない。
昨日も起きて連絡を取っていた。
(注:この前日の夜中に行われたフィギュアスケートグランプリシリーズ ロシア大会に、本郷選手が出場されていました)
私が尊敬していて、すごくお世話になった振付師の宮本賢二先生は姫路市のご出身。
振り付けは外国の先生にお願いするのが当たり前だった中、日本から世界的な振付師として活躍し、外国の一流選手の振付も多数手がける宮本先生の姿を見たことで、「日本人でも振り付けで成功できる」というビジョンを持てた。
現役の時に「宮本先生の様な振付師になりたい」と言ったら、「俺の仕事が減るからアカンww」と冗談を言って笑われたが、今年の振付師デビューを「おめでとう!」といってくれた。
私はジャンプは苦手だった半面、表現することは子供のころから大好きで得意だった。
家が漫画もゲームも禁止だったので、本を読んで情景を想像していた。
フィギュアはスポーツだけど、表現力も求められる競技。
振り付けや演技指導をしてもらう時も、例えば「ここで腕を上げて」と言われると、
スッと軽やかに上げたり、ふわっと柔らかく上げてみたり、子供ながらに自分からいろいろやって試してみる子だった。
今、表現について子供たちや若い選手に教えてあげてほしいと長久保先生に言われるが、教わってやっていたのではなく完全に自分の感覚でやっていたから人に伝えるのが難しい。
今、教えることを勉強している。
私の演技は、全て自分のハートから湧きあがってくるものを表現していた。
自信がない時や不安な気持ちの時は、どんなに表面で「平気、大丈夫」と取り繕っても必ず演技に表れた。演技では自分に嘘がつけなかったので、それならもう、ひたすら練習するしかないと思った。
子供の頃、ジャンプを練習し始めた時に一人だけシングルアクセルが跳べず、悔しくて家で泣いた。
するとお母さんが、「あなたは出来ないんじゃなくて人よりゆっくりできるようになるだけだから、他の子の倍練習したら必ずできる」と言ってくれた。
今だったらきっと「人の倍かあ・・・」とうんざりしそうだけど、その時は「そうなんだ!」と素直に受け入れた。
他の子よりゆっくりだったけど出来るようになって、時間はかかったけどその分喜びも大きかった。
簡単に出来たら、あんなに嬉しくなかったかもしれない。
大人になったらもう少し人並みのスピードで出来るようになるかも、と思ってたけど、実は今もあまり変わらない。でも、自分は時間さえかければ絶対に出来ると信じているから、特に不安も感じない。
子供のころから、大きな夢や目標が言えなかった。
「オリンピックに出る、金メダルをとる」なんて絶対言わない子だった。
怖さとか、失敗への不安の方が大きすぎて一歩がなかなか踏み出せない子供だった。
世界なんか全く目指してないけど、目の前の試合をひとつひとつ目標を決めて取り組んでいたら、5年生の時に全日本に出られた。
当時、中部大会では大体表彰台に上がれていたのに、初の全日本は緊張で最初の一歩から右足と左足を間違えてしまって大失敗、21位だった。
全日本へ向けての練習の日々で、先生たちが「全国にはもっとうまい子が沢山いるんだから、もっと練習しないと上には行けないよ」とよく言われていたけどピンと来ず、全日本に実際に出てみて初めて「中部地方の中だけで勝って満足していても通用しない」と体感として理解した。
その時の全日本で、3位までの子が世界選手権に出るためにJAPANと入ったかっこいいジャージをもらっているのを見て、初めて「私も世界に行きたい」とイメージできた。
その後、後にずっとお世話になる長久保裕コーチと出会った。
当時は長野オリンピックの頃で、荒川静香さんや本田武史さんのコーチも務めている長久保先生は雲の上の存在だった。
100人くらいの子供が集まる合同合宿で初めは名前なども覚えてもらっていなくて、初めて長久保先生に声をかけられた時は「そこの赤い手袋の、目のきょろっとした子」と呼ばれた。
それまでは、コーチの先生と自分は常に一対一で、手取り足取り教えてもらえるのが普通のことだと思っていたのでどこか受け身だった。でも、この時の合宿は一人の先生に対したくさんの生徒がいたので「自分からがんばって積極的にやらないと目にも止めてもらえない」と思い、そこから練習への取り組み方が大きく変わった。
翌年の6年生の時の全日本は7位、その次の中学一年の全日本は3位で、遂に日本代表になれた。
ジャパンジャージが家に届いた時は本当に嬉しくて、ずっと家で着てお母さんに「見て見て!」と言っていた。
その年の世界選手権はクロアチア。
内戦の後だったので建物が崩れていたり、地雷が埋まっている区域があったりした。
世界には本当にこんなことがあるのかとショックだった。
その大会で優勝はしたけど、表現力は海外のもっと小さな選手たちの方が上だと感じた。
日本人選手の方がジャンプなどの技術はあるので点数的には勝つんだけど、海外の選手の方が小さな子でも「これを見せたい」という意図を明確に持って演技している感じ。
練習なども、海外では子供の主体性に任せるけど日本では師匠と弟子みたいな感じ。
練習を「今日は気分が乗らないから休みにする」などという風に海外では生徒が自分で決めているけど、日本だとコーチの言う事は絶対。先生が練習しなさいと言ったらするしかない。
こつこつがんばった人の方が伸びる競技ではあるので、今は日本人以外でもアジア系の選手の方が強い傾向にはある。
ただ、表現力の点ではやはり海外の選手の方が優れていた。
自分のいいところ、自分の売りは表現力だと思っていたので、世界大会に出たことで「この部分も『日本の中では上手い』で終わらせずにもっと頑張らないと」と思えた。
バンクーバーオリンピックの年のプログラム「ウエストサイドストーリー」は、初めて外国人の先生に振付をお願いした(シェイリーン・ボーン先生)。
曲の希望などは特に自分から出さず、先生にお任せしてたらこの曲を持ってきてくれた。
それまで、自分に合っているのは民族舞踊の様な強い印象の曲だと思っていたので、まさかこんなハッピーな感じの曲を勧められるとは思っていなくて驚いた。
でも、シェイリーン先生は「明子なら、この曲を滑れば人生の苦しみも喜びも表現できて、みんなをハッピーに出来る」と言ってくれた。
この曲がオリンピック開催地である北米で人気があり、手拍子も起こりやすくてきっと盛り上がるだろうという戦略もあった。
その時点でオリンピックに出場出来るかは全く決まってなかったけど、シェイリーン先生が「この曲でオリンピックを目指す意義はある」と言ってくれたので挑戦してみた。
やってみたらものすごくいいものが出来て、「ウエストサイドストーリーが一番好き」と今でもファンの方に言ってもらえるプログラムになった。
(参考:鈴木明子「ウエストサイドストーリー」)
その時につくづく、「自分の魅力って自分ではわかっていないものだ」と思った。
シェイリーン先生とはそれまでお付き合いはなく、振付を依頼してから(おそらく)それまでの演技の映像をいくつか見て、「明子はこういうのをやると映える」と、自分の新しい魅力を見つけ出してくれた。
そんなシェイリーン先生は、私の振り付け師への憧れを持たせてくれた存在の一人。
自分も、スケーターの新しい魅力を引き出すような振付をしたいと思っている。
ちなみに、日本で振りつけてもらうと、最初はちょっとやりにくい振りも「1週間くらいがんばればできるので」と言ってそのまま練習していたけど、シェイリーンは私がやりにくそうにしていると「やりにくいならその振りはやめましょう」と言って次々変えていった。
「私は出来るようになるまで時間がかかるだけ、練習すればできる」と言っても、「アイディアはいくらでもあるからあえてやりにくいことをしなくてもいい」と言われてどんどん変えていった。
こんなところも新鮮で面白かった。
今の自分の方針としては、若い選手には「ちょっと今は難しいかな・・・」という振り付けも、成長する中で出来るようになるのを見越してあえて入れている。
逆に年齢がある程度以上でもう完成してきている選手には、やりにくい事は避けてできるだけ本人の持ち味を生かす振付を心がけている。
その次にお世話になった外国の振付師の先生は、パスカーレ・カメレンゴさん。
パスカーレ先生はアメリカのデトロイトに住んでいるので、デトロイトまで行った。
ただでさえ初めてのところは苦手なのに、当時はデトロイトをものすごく怖いところだと思い込んでいたので、とてつもなく不安だった。
行ってみたらデトロイトは完全に車社会で、ちょっとスーパーに行くのにも車がないと行けない。
パスカーレ先生は振付だけでなく、リンク
いやー、良かった


席の場所は先着順だったのでちょっと早めに並んでたら、ほぼ正面の演者の方と同じ目線くらいの席に座れたので1時間以上喋るあっこちゃんを凝視できました(嗚呼、かわいかったさ)。
私は頻繁になんやかんやのセミナーに出ていてその度に「話の内容は全部書く」くらいのテンションでものすごい勢いでノート取ってるんですが、日頃培ったノート取りの技術で今回もばっちり取って来たので自分用の記録も兼ねてまとめてみました。
姫路市文化国際課国際交流センターというところが主催なので、明子さんご自身の国際交流体験や外国に行ってみて感じたことのお話が多かったんですが、普通にスケオタ垂涎のお話もたくさんして下さっていました。
フィギュアお好きな方もそうでもない方も良かったら読んでみてください。
過去最長に死ぬほど長いけどな。愛ゆえに。
明子さんご本人は、流れるように、というか普通に世間話するように気さくに楽しくお話してくれましたが(そりゃあもうかわいかったさ)、どうしても箇条書きっぽくなるのはご了承くださいねw
(文中の『私』は全部明子さんご自身のことです)
・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:・*・:・:
実は10年ほど前、仙台のリンクが一時的に無くなった時に、まだ9歳だった本郷理華ちゃんと長久保コーチと3人で姫路に来て、一週間ほどホテルに泊まり込んで姫路のリンクで練習した事がある。久しぶりに来ました。
私は何か出来るようになるのがとても遅く、人よりも時間がかかる。
でも、ゆっくりひとつひとつやってきたから、現役生活も長く続けられた。
フィギュアスケートは選手としてのピークがすごく早く来るスポーツ。
他のスポーツなら20代はまだまだ若手だが、フィギュアだとベテランになってくる年代。
テレビに映ると名前の後に必ず年齢が出るので、自分の名前の後に(26)とか出てるとああ・・・^^;と思っていた。
でも、若くして成功していたらこんなに長くは現役を続けていなかったと思うので、自分はこれで良かったと思う。
フィギュアは華麗だけどスポーツ。
私は、その選手とはいえ子供のころからジャンプが全然ダメで苦手だった。
というか運動そのものが苦手で、走っても遅いし垂直飛びなども全然だった。
でも子供のころからずっとずっとフィギュアが本当に好きで、どんなことがあってもいつも好きだったしもちろん今も大好き。
これからも自分の理想を追っていきたいし、いつかスケート靴を脱ぐ日が来ても理想のスケートを追求していくつもり。
今は自分のスケートだけではなく、振付師としても理想のスケートを考えている。
私の振付師として仕事は、本郷理華選手が第一号。
ずっと連絡を取っているし、外国で試合がある時は結果を追って夜も眠れない。
昨日も起きて連絡を取っていた。
(注:この前日の夜中に行われたフィギュアスケートグランプリシリーズ ロシア大会に、本郷選手が出場されていました)
私が尊敬していて、すごくお世話になった振付師の宮本賢二先生は姫路市のご出身。
振り付けは外国の先生にお願いするのが当たり前だった中、日本から世界的な振付師として活躍し、外国の一流選手の振付も多数手がける宮本先生の姿を見たことで、「日本人でも振り付けで成功できる」というビジョンを持てた。
現役の時に「宮本先生の様な振付師になりたい」と言ったら、「俺の仕事が減るからアカンww」と冗談を言って笑われたが、今年の振付師デビューを「おめでとう!」といってくれた。
私はジャンプは苦手だった半面、表現することは子供のころから大好きで得意だった。
家が漫画もゲームも禁止だったので、本を読んで情景を想像していた。
フィギュアはスポーツだけど、表現力も求められる競技。
振り付けや演技指導をしてもらう時も、例えば「ここで腕を上げて」と言われると、
スッと軽やかに上げたり、ふわっと柔らかく上げてみたり、子供ながらに自分からいろいろやって試してみる子だった。
今、表現について子供たちや若い選手に教えてあげてほしいと長久保先生に言われるが、教わってやっていたのではなく完全に自分の感覚でやっていたから人に伝えるのが難しい。
今、教えることを勉強している。
私の演技は、全て自分のハートから湧きあがってくるものを表現していた。
自信がない時や不安な気持ちの時は、どんなに表面で「平気、大丈夫」と取り繕っても必ず演技に表れた。演技では自分に嘘がつけなかったので、それならもう、ひたすら練習するしかないと思った。
子供の頃、ジャンプを練習し始めた時に一人だけシングルアクセルが跳べず、悔しくて家で泣いた。
するとお母さんが、「あなたは出来ないんじゃなくて人よりゆっくりできるようになるだけだから、他の子の倍練習したら必ずできる」と言ってくれた。
今だったらきっと「人の倍かあ・・・」とうんざりしそうだけど、その時は「そうなんだ!」と素直に受け入れた。
他の子よりゆっくりだったけど出来るようになって、時間はかかったけどその分喜びも大きかった。
簡単に出来たら、あんなに嬉しくなかったかもしれない。
大人になったらもう少し人並みのスピードで出来るようになるかも、と思ってたけど、実は今もあまり変わらない。でも、自分は時間さえかければ絶対に出来ると信じているから、特に不安も感じない。
子供のころから、大きな夢や目標が言えなかった。
「オリンピックに出る、金メダルをとる」なんて絶対言わない子だった。
怖さとか、失敗への不安の方が大きすぎて一歩がなかなか踏み出せない子供だった。
世界なんか全く目指してないけど、目の前の試合をひとつひとつ目標を決めて取り組んでいたら、5年生の時に全日本に出られた。
当時、中部大会では大体表彰台に上がれていたのに、初の全日本は緊張で最初の一歩から右足と左足を間違えてしまって大失敗、21位だった。
全日本へ向けての練習の日々で、先生たちが「全国にはもっとうまい子が沢山いるんだから、もっと練習しないと上には行けないよ」とよく言われていたけどピンと来ず、全日本に実際に出てみて初めて「中部地方の中だけで勝って満足していても通用しない」と体感として理解した。
その時の全日本で、3位までの子が世界選手権に出るためにJAPANと入ったかっこいいジャージをもらっているのを見て、初めて「私も世界に行きたい」とイメージできた。
その後、後にずっとお世話になる長久保裕コーチと出会った。
当時は長野オリンピックの頃で、荒川静香さんや本田武史さんのコーチも務めている長久保先生は雲の上の存在だった。
100人くらいの子供が集まる合同合宿で初めは名前なども覚えてもらっていなくて、初めて長久保先生に声をかけられた時は「そこの赤い手袋の、目のきょろっとした子」と呼ばれた。
それまでは、コーチの先生と自分は常に一対一で、手取り足取り教えてもらえるのが普通のことだと思っていたのでどこか受け身だった。でも、この時の合宿は一人の先生に対したくさんの生徒がいたので「自分からがんばって積極的にやらないと目にも止めてもらえない」と思い、そこから練習への取り組み方が大きく変わった。
翌年の6年生の時の全日本は7位、その次の中学一年の全日本は3位で、遂に日本代表になれた。
ジャパンジャージが家に届いた時は本当に嬉しくて、ずっと家で着てお母さんに「見て見て!」と言っていた。
その年の世界選手権はクロアチア。
内戦の後だったので建物が崩れていたり、地雷が埋まっている区域があったりした。
世界には本当にこんなことがあるのかとショックだった。
その大会で優勝はしたけど、表現力は海外のもっと小さな選手たちの方が上だと感じた。
日本人選手の方がジャンプなどの技術はあるので点数的には勝つんだけど、海外の選手の方が小さな子でも「これを見せたい」という意図を明確に持って演技している感じ。
練習なども、海外では子供の主体性に任せるけど日本では師匠と弟子みたいな感じ。
練習を「今日は気分が乗らないから休みにする」などという風に海外では生徒が自分で決めているけど、日本だとコーチの言う事は絶対。先生が練習しなさいと言ったらするしかない。
こつこつがんばった人の方が伸びる競技ではあるので、今は日本人以外でもアジア系の選手の方が強い傾向にはある。
ただ、表現力の点ではやはり海外の選手の方が優れていた。
自分のいいところ、自分の売りは表現力だと思っていたので、世界大会に出たことで「この部分も『日本の中では上手い』で終わらせずにもっと頑張らないと」と思えた。
バンクーバーオリンピックの年のプログラム「ウエストサイドストーリー」は、初めて外国人の先生に振付をお願いした(シェイリーン・ボーン先生)。
曲の希望などは特に自分から出さず、先生にお任せしてたらこの曲を持ってきてくれた。
それまで、自分に合っているのは民族舞踊の様な強い印象の曲だと思っていたので、まさかこんなハッピーな感じの曲を勧められるとは思っていなくて驚いた。
でも、シェイリーン先生は「明子なら、この曲を滑れば人生の苦しみも喜びも表現できて、みんなをハッピーに出来る」と言ってくれた。
この曲がオリンピック開催地である北米で人気があり、手拍子も起こりやすくてきっと盛り上がるだろうという戦略もあった。
その時点でオリンピックに出場出来るかは全く決まってなかったけど、シェイリーン先生が「この曲でオリンピックを目指す意義はある」と言ってくれたので挑戦してみた。
やってみたらものすごくいいものが出来て、「ウエストサイドストーリーが一番好き」と今でもファンの方に言ってもらえるプログラムになった。
(参考:鈴木明子「ウエストサイドストーリー」)
その時につくづく、「自分の魅力って自分ではわかっていないものだ」と思った。
シェイリーン先生とはそれまでお付き合いはなく、振付を依頼してから(おそらく)それまでの演技の映像をいくつか見て、「明子はこういうのをやると映える」と、自分の新しい魅力を見つけ出してくれた。
そんなシェイリーン先生は、私の振り付け師への憧れを持たせてくれた存在の一人。
自分も、スケーターの新しい魅力を引き出すような振付をしたいと思っている。
ちなみに、日本で振りつけてもらうと、最初はちょっとやりにくい振りも「1週間くらいがんばればできるので」と言ってそのまま練習していたけど、シェイリーンは私がやりにくそうにしていると「やりにくいならその振りはやめましょう」と言って次々変えていった。
「私は出来るようになるまで時間がかかるだけ、練習すればできる」と言っても、「アイディアはいくらでもあるからあえてやりにくいことをしなくてもいい」と言われてどんどん変えていった。
こんなところも新鮮で面白かった。
今の自分の方針としては、若い選手には「ちょっと今は難しいかな・・・」という振り付けも、成長する中で出来るようになるのを見越してあえて入れている。
逆に年齢がある程度以上でもう完成してきている選手には、やりにくい事は避けてできるだけ本人の持ち味を生かす振付を心がけている。
その次にお世話になった外国の振付師の先生は、パスカーレ・カメレンゴさん。
パスカーレ先生はアメリカのデトロイトに住んでいるので、デトロイトまで行った。
ただでさえ初めてのところは苦手なのに、当時はデトロイトをものすごく怖いところだと思い込んでいたので、とてつもなく不安だった。
行ってみたらデトロイトは完全に車社会で、ちょっとスーパーに行くのにも車がないと行けない。
パスカーレ先生は振付だけでなく、リンク
への送り迎えなどもいろいろ親切にサポートしてくれた。
でも、次の年にデトロイトに行った時は自分で車を借りて、移動も買い物も全部自分でするようにした。運転も、アメリカの交通ルールやマナーがわからず相当いろいろ失敗したけど、自分から行動した事で少しずついろんなところに出かけてみるようになり劇的に世界が広がった。
自分で動かなければ、きっとホテルとリンクの往復だけで終わっていたと思う。
最初は振付のために1週間だけの滞在だったけど、それからも毎年行くようになってもう6年になる。今はコンドミニアムタイプのホテルを取って、毎年2~3週間から1カ月ほどデトロイトで生活して練習している。1年をそこでリフレッシュする感じで、毎年とても楽しみ。
あちらには、日本では考えられないような立派な練習施設(リンクが3面、専用のジムや整体院などが併設)があるので、世界中から選手が練習に来ている。
みんなフレンドリーに誘ってくれるので、スケーター同士でよくホームパーティーのような事をしている。最初は気おくれしたけどすごく楽しかった。
(小倉注:絵は私の想像です)
車の運転もだけど、デトロイトに来た事を含め、自分でやろうと思わなければきっと何も世界が広がらなかった。不安もあったけど、いつも周りの人みんなに助けてもらった。
特にパスカーレ先生はいつも本当に家族のように優しくしてくれて、自分も振り付け師としてああいう風に選手に接してあげていきたいと思っている。
フィギュアの試合は点数が出るけど、点数だけを気にしていると自分の演技がわからなくなってしまう。ジャンプは大きな得点源だけどジャンプだけがフィギュアではない。
ただただ、自分のベストを尽くすしかない。
それをみんなわかっているから、フィギュア選手はみんな仲がいい。
ただ、ベタベタしているわけではなく選手同士ほどよい距離感はある。
特に試合の前は、調子の良し悪しとか自信のあるなしとか、そんな話は誰も一切しない。
一緒にいても絶対にお互い踏みこまない領域がある。
ソチオリンピックの女子フリーが終わった後、一緒に出場していた浅田真央選手と村上佳菜子選手と最初に顔を合わせた時、会った瞬間に3人とも涙がだーーーっと出て大号泣してしまった。
ずっと一緒にいたけどそれぞれが不安や緊張を抱えて孤独だった。
特に真央の演技は自分の演技もあって直接は見られず後から映像で見たんだけど、どんなに大きなものを背負って、どんな気持ちで臨んでいたのかを思うと胸が痛いほどだった。
私の母は、昔から「人を蹴落としてまで上に行かなくていい。選手としての期間が短い競技なんだから、引退した後も人に愛される人でありなさい」と言ってくれていた。
(ただ、そのせいなのか家にあるメダルや賞状は2位や3位、表彰台に乗れない4位5位・・・がものすごく多くて、お母さんは『選手としてのあなたを伸ばしてあげることを言えなくてゴメンね; ;』と言ってきますが・・・^^;)
長久保先生にも、
「お前は選手として才能があるとは思えなかった。でも、一生懸命コツコツやる才能はあった」
と言って貰えた。それは私には最高の誉め言葉。
がんばって続ければお前はできると認めてもらえたことが嬉しかった。
デトロイトに行くのも初めは怖かったけど、心を開いてニコッと笑えば言葉がわからなくてもコミュニケーションが取れた。
自分を受け入れてもらおうとするより、相手を受け入れて寄り添うことの方が大切だと思う。
「あなたのコレは受け入れられないけど、私のコレは認めて下さい」と言うと争いが起こる。
いろんな国の選手と一緒にいると、日本では考えられないようなことが当たり前に習慣になっていたりもするけど、相手から見れば私にもそういうところはきっとあると思う。
日本人同士でもそれは同じで、気持ちに寄り添うことが大切。
とにかく、相手に嫌な思いをさせない方が自分の思いや頼みたい事も伝わる。
口角を上げてにっこり生きていきましょう!
それと、日本のいいところを知らないと海外に行った時恥ずかしい。
海外のスケーターはショーや試合で日本に来るのをみんなとても楽しみにしている。
食べ物がおいしくて、買い物も楽しめるので。
ショーで海外のスケーターと一緒に全国を回るけど、「この街は何がおすすめ?観光するならどこ?」と聞かれるととっさに答えられないことが多い。
今は意識して、日本各地のいいところやオススメを自分も知るようにしている。
これからもいろいろな事を吸収して、スケートに還元していきたいと思っています。
・質疑・
Q:演技中にプログラムが頭から飛んだ事は?
A:現役の時はなかった。
アイスショーでは、練習時間が短いのでオープニングやエンディングの集団でのダンスを覚え切れてないことがある。そういう時は止まるとお客さんにばれるのでアドリブで切り抜ける。
今年出たショーで、練習時間が本当に取れなくてほとんど覚えていない状態で集団でのダンスを踊った。
本番は前の人を見て合わせようと思っていたら、途中からリンクサイドに沿って広がり、それぞれが最前列のお客さんの本当にすぐ目の前で踊る配置になってしまった。
ぜんぜん振付がわからなくて苦笑いしながら踊っていたら目の前のお客さんにばれてしまい、小さな声で「ドンマイ」と言われた。
あのドンマイはちょっと忘れられないです・・・^^;
Q:娘がスケートをしていて、昔野辺山合宿(注:スケート連盟主催の有望新人発掘合宿。小中学生くらいの選手が全国から集まる)で本郷理華選手と一緒になり、仲良しだった。
今の理華ちゃんはどんな感じですか?と娘からの質問を預かってきました。
A:私は6歳くらいから知っている。
とても素直で面白い子。
子供の頃は「さぼりかちゃん」と言われるほどよく練習をさぼっていたけど、最近は結果が出始めて本人の取り組み方も大きく変わってきている。
放っておくとお笑いのネタのマネとかを一人でよくやってるけど、こっちから「あれやって」と言うとモジモジして出来ないような子。
でも、ふっきれるとマイケルジャクソンのスリラーでゾンビのメイクをして滑ったり、思い切った事が出来る子でもある。(参考:本郷理華「スリラー」)
手足の長さを生かしたダイナミックな振り付けをしてみたけど、ダイナミックさは下手すると雑にも見えてしまうので繊細な振り付けも加えている。
昨日のロシア杯ではミスが出たけど、やはりミス以降は表情が変わってしまっていた。
このあたりは経験を積むことで変っていくと思う。
これから、下から追い上げられたり調子の波が来たりいろんなことがあると思うけど、理華が一生懸命やる限り私はずっとサポートし続けるつもり。
Q:好きなフィニッシュのポーズは?できれば実演して頂ければ。
A:・・・・では、ソチオリンピックの年にパスカーレ・カメレンゴさんに振りつけてもらって、去年織田信成くんがさんざん流行らせてくれた「オペラ座の怪人」のフィニッシュを・・・(笑)
せっかくなのでみんなでやって終わりにしましょう笑
ちなみにパスカーレは、これが去年流行ったのを「なんでオリンピック終わってから流行ったの??」と不思議がっていました(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後がオペラ座のフィニッシュポーズを実演だったので(ああ、そりゃあきれいだったさ)(聴衆には右手と首の角度だけレクチャー)、大盛り上がりの中お開きになりました。
最後の質問したおじいちゃんGJ
(市の広報に載ってた催しなので、いろんな層の方が来られてました)
貴重な講演会に行けてほんとにラッキーでした^^
もともとファンでしたが、ますますあっこちゃんのファンになりました
・おしらせ・
うちに来て下さるお客様で、書道家の上田理恵さんが、
京都の清水寺で開催される書画展に参加されます。
清水寺~古と優艶の書画展~
12月4日(金)~12月9日(水)
11時~16時
音羽山清水寺 圓通殿
入場無料(清水寺の参拝料のみ)
理恵さんはまだお若くてキュートなお嬢さんなんですが、
書は実力派のホンモノです。
展示自体は入場無料だそうなので、
京都にお出かけの際は、ぜひ足をお運びくださいね
理恵さんのブログ
書の迫力と、若い女の子感満載のキラキラした本文の落差がすごい(笑)
でも、次の年にデトロイトに行った時は自分で車を借りて、移動も買い物も全部自分でするようにした。運転も、アメリカの交通ルールやマナーがわからず相当いろいろ失敗したけど、自分から行動した事で少しずついろんなところに出かけてみるようになり劇的に世界が広がった。
自分で動かなければ、きっとホテルとリンクの往復だけで終わっていたと思う。
最初は振付のために1週間だけの滞在だったけど、それからも毎年行くようになってもう6年になる。今はコンドミニアムタイプのホテルを取って、毎年2~3週間から1カ月ほどデトロイトで生活して練習している。1年をそこでリフレッシュする感じで、毎年とても楽しみ。
あちらには、日本では考えられないような立派な練習施設(リンクが3面、専用のジムや整体院などが併設)があるので、世界中から選手が練習に来ている。
みんなフレンドリーに誘ってくれるので、スケーター同士でよくホームパーティーのような事をしている。最初は気おくれしたけどすごく楽しかった。
(小倉注:絵は私の想像です)
車の運転もだけど、デトロイトに来た事を含め、自分でやろうと思わなければきっと何も世界が広がらなかった。不安もあったけど、いつも周りの人みんなに助けてもらった。
特にパスカーレ先生はいつも本当に家族のように優しくしてくれて、自分も振り付け師としてああいう風に選手に接してあげていきたいと思っている。
フィギュアの試合は点数が出るけど、点数だけを気にしていると自分の演技がわからなくなってしまう。ジャンプは大きな得点源だけどジャンプだけがフィギュアではない。
ただただ、自分のベストを尽くすしかない。
それをみんなわかっているから、フィギュア選手はみんな仲がいい。
ただ、ベタベタしているわけではなく選手同士ほどよい距離感はある。
特に試合の前は、調子の良し悪しとか自信のあるなしとか、そんな話は誰も一切しない。
一緒にいても絶対にお互い踏みこまない領域がある。
ソチオリンピックの女子フリーが終わった後、一緒に出場していた浅田真央選手と村上佳菜子選手と最初に顔を合わせた時、会った瞬間に3人とも涙がだーーーっと出て大号泣してしまった。
ずっと一緒にいたけどそれぞれが不安や緊張を抱えて孤独だった。
特に真央の演技は自分の演技もあって直接は見られず後から映像で見たんだけど、どんなに大きなものを背負って、どんな気持ちで臨んでいたのかを思うと胸が痛いほどだった。
私の母は、昔から「人を蹴落としてまで上に行かなくていい。選手としての期間が短い競技なんだから、引退した後も人に愛される人でありなさい」と言ってくれていた。
(ただ、そのせいなのか家にあるメダルや賞状は2位や3位、表彰台に乗れない4位5位・・・がものすごく多くて、お母さんは『選手としてのあなたを伸ばしてあげることを言えなくてゴメンね; ;』と言ってきますが・・・^^;)
長久保先生にも、
「お前は選手として才能があるとは思えなかった。でも、一生懸命コツコツやる才能はあった」
と言って貰えた。それは私には最高の誉め言葉。
がんばって続ければお前はできると認めてもらえたことが嬉しかった。
デトロイトに行くのも初めは怖かったけど、心を開いてニコッと笑えば言葉がわからなくてもコミュニケーションが取れた。
自分を受け入れてもらおうとするより、相手を受け入れて寄り添うことの方が大切だと思う。
「あなたのコレは受け入れられないけど、私のコレは認めて下さい」と言うと争いが起こる。
いろんな国の選手と一緒にいると、日本では考えられないようなことが当たり前に習慣になっていたりもするけど、相手から見れば私にもそういうところはきっとあると思う。
日本人同士でもそれは同じで、気持ちに寄り添うことが大切。
とにかく、相手に嫌な思いをさせない方が自分の思いや頼みたい事も伝わる。
口角を上げてにっこり生きていきましょう!
それと、日本のいいところを知らないと海外に行った時恥ずかしい。
海外のスケーターはショーや試合で日本に来るのをみんなとても楽しみにしている。
食べ物がおいしくて、買い物も楽しめるので。
ショーで海外のスケーターと一緒に全国を回るけど、「この街は何がおすすめ?観光するならどこ?」と聞かれるととっさに答えられないことが多い。
今は意識して、日本各地のいいところやオススメを自分も知るようにしている。
これからもいろいろな事を吸収して、スケートに還元していきたいと思っています。
・質疑・
Q:演技中にプログラムが頭から飛んだ事は?
A:現役の時はなかった。
アイスショーでは、練習時間が短いのでオープニングやエンディングの集団でのダンスを覚え切れてないことがある。そういう時は止まるとお客さんにばれるのでアドリブで切り抜ける。
今年出たショーで、練習時間が本当に取れなくてほとんど覚えていない状態で集団でのダンスを踊った。
本番は前の人を見て合わせようと思っていたら、途中からリンクサイドに沿って広がり、それぞれが最前列のお客さんの本当にすぐ目の前で踊る配置になってしまった。
ぜんぜん振付がわからなくて苦笑いしながら踊っていたら目の前のお客さんにばれてしまい、小さな声で「ドンマイ」と言われた。
あのドンマイはちょっと忘れられないです・・・^^;
Q:娘がスケートをしていて、昔野辺山合宿(注:スケート連盟主催の有望新人発掘合宿。小中学生くらいの選手が全国から集まる)で本郷理華選手と一緒になり、仲良しだった。
今の理華ちゃんはどんな感じですか?と娘からの質問を預かってきました。
A:私は6歳くらいから知っている。
とても素直で面白い子。
子供の頃は「さぼりかちゃん」と言われるほどよく練習をさぼっていたけど、最近は結果が出始めて本人の取り組み方も大きく変わってきている。
放っておくとお笑いのネタのマネとかを一人でよくやってるけど、こっちから「あれやって」と言うとモジモジして出来ないような子。
でも、ふっきれるとマイケルジャクソンのスリラーでゾンビのメイクをして滑ったり、思い切った事が出来る子でもある。(参考:本郷理華「スリラー」)
手足の長さを生かしたダイナミックな振り付けをしてみたけど、ダイナミックさは下手すると雑にも見えてしまうので繊細な振り付けも加えている。
昨日のロシア杯ではミスが出たけど、やはりミス以降は表情が変わってしまっていた。
このあたりは経験を積むことで変っていくと思う。
これから、下から追い上げられたり調子の波が来たりいろんなことがあると思うけど、理華が一生懸命やる限り私はずっとサポートし続けるつもり。
Q:好きなフィニッシュのポーズは?できれば実演して頂ければ。
A:・・・・では、ソチオリンピックの年にパスカーレ・カメレンゴさんに振りつけてもらって、去年織田信成くんがさんざん流行らせてくれた「オペラ座の怪人」のフィニッシュを・・・(笑)
せっかくなのでみんなでやって終わりにしましょう笑
ちなみにパスカーレは、これが去年流行ったのを「なんでオリンピック終わってから流行ったの??」と不思議がっていました(笑)
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最後がオペラ座のフィニッシュポーズを実演だったので(ああ、そりゃあきれいだったさ)(聴衆には右手と首の角度だけレクチャー)、大盛り上がりの中お開きになりました。
最後の質問したおじいちゃんGJ
(市の広報に載ってた催しなので、いろんな層の方が来られてました)
貴重な講演会に行けてほんとにラッキーでした^^
もともとファンでしたが、ますますあっこちゃんのファンになりました

・おしらせ・
うちに来て下さるお客様で、書道家の上田理恵さんが、
京都の清水寺で開催される書画展に参加されます。
清水寺~古と優艶の書画展~
12月4日(金)~12月9日(水)
11時~16時
音羽山清水寺 圓通殿
入場無料(清水寺の参拝料のみ)
理恵さんはまだお若くてキュートなお嬢さんなんですが、
書は実力派のホンモノです。
展示自体は入場無料だそうなので、
京都にお出かけの際は、ぜひ足をお運びくださいね

理恵さんのブログ
書の迫力と、若い女の子感満載のキラキラした本文の落差がすごい(笑)