「維摩経」というお経をご存知でしょうか?
仏教の経典で、「維摩経」が成立したのは紀元前後の頃です。
(仏陀(お釈迦様)は紀元前500年頃に生まれておられます)
聖徳太子の三経義疏の中の1つでもありますが、この経典は仏陀や高僧が書いたものではありません。
出家者でもない在家の居士、維摩が書いたものです。
支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳
※玄奘とは、日本では西遊記の三蔵法師で有名なお方
大正大学(東京都豊島区)、チベット・ポタラ宮(ダライ・ラマ故宮)で完本『維摩経』発見
維摩(ヴィマラキールティ)は、とても頭が良く、大金持ちで、見目麗しい男性だったそうで、仏弟子や菩薩が束になって知恵比べしようとしても、ことごとく論破されたそうです。
先日、東京での研究から戻られた小林先生の授業を、私の頭の中の維摩経の内容をアップデートするため大学へ行ってきました。
タイトルの、花がめりこむ・・・のお話しですが
『天女散花』といいます。
「維摩経」の「観衆生品」の物語の中にあります。
百花仙子という天女が散花して菩薩や声聞弟子の道行を試すと、花は菩薩の体からは離れたが、舎利弗の体についた花は、どうあがいてもくっついて離れなかった、取ろうとすればするほど、めりこんで取れない というものです。
天女と舎利仏のお話しです
※舎利弗は仏陀の1番弟子と言われるほど優秀な人。
舎利弗は、
天女の蒔いた花びらが自分に貼りついて取れないので、「出家の身を花で飾ることは相応しくないことです。早く花びらを取りたいのです。どうしてこんなことをするのですか?」
というのです
天女は、
「煩悩を離れていないから花が身に付くのですよ。
煩悩を離れれば、花は体につかない」。
「煩悩があるのだなぁと自分を受け入れると、欲望は欲望で無くなるのですよ」
長尾雅人先生の訳によると
愛欲と怒りと愚かさとを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたのです。
慢心のない者においては、愛欲と怒りと愚かさとの本性がそのまま解脱なのです。
欲望=煩悩
は誰にでもあるのです。
我が身を清浄にしようと、荒行や苦行ばかりしても、自分の煩悩を認めないでは、ないものには出来ない。
あるものは、あると認め、さて自分は今どうすべきかを考えましょうということなのでしょうかね?
執着を捨ててしまえば、「あら、こんなところに花が・・・」で終わることであるのに、「なぜ、私に!」「こんな時に!」と執着すると、いつまでも花びら(煩悩)はついてきます。
欲望・執着(煩悩)は、誰にでもあります。
煩悩があることを、まずは認めて、自分はどう生きるか?
どう修行しようか?
ということですね。
深いですね。
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