作曲家有木竜郎のブログ

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ガーナとの親善試合からセネガル戦に至るまで、川島選手のあれっと思うようなプレーが連続していた。

 

そんな川島をボロクソに叩く日本人に対し、吉田麻也がツイッターで放った言葉が素敵ですね。

 

仲間が苦しんでる時いかに助け合えるかがチームスポーツだと。

批判から逃げず立ち向かう姿勢こそ子供達に見て欲しいと。

 

良くぞ言ってくれたと思います。

 

 

 

ミスした人間を叩きのめす風潮を見直すためには、同時に、結果が出た時に特定の個人をヒーロー扱いするのも見直した方が良いように感じます。

 

メディアの報道って、得点決めた選手への賞賛が大半じゃないですか。

 

確かに大会直前のパラグアイ戦の乾にはわくわくしたし、本大会で点を決めた大迫や本田は素晴らしい。

 

でも、戦ったのはチーム全員だ。

全員で掴んだ決勝トーナメントなわけで。

 

そう考えると、ヒーローなんてそもそもいないんじゃないか(特に日本においては)って気もするけど、国民もメディアもヒーローを待ち望んでいるような印象を受けます。

まあかっこいいもんね、ヒーローがいると。

 

 

 

でも上手くいった時には必ずヒーローがいるという見方は、上手くいかなかった時には必ず犯人がいるという見方と表裏一体だと思うわけです。

 

川島バッシングもそうだし、遡れば監督交代事件も元凶が誰か特定することに執念を燃やしてたよね。

 

 

 

確かに、うまくいった時もいかなかった時も原因がわからない状態というのは、気持ち悪いし落ち着かないし、ちょっとしたストレスであることは理解できます。

 

その宙ぶらりんな気持ちから抜け出す一番手軽な方法が、あいつがヒーローだ、あいつが犯人だと、とりあえずわかりやすい因果関係に結びつけることで議論を落ち着かせることなんでしょう。

 

 

 

でも、世の中って、そんなに単純なものなんでしょうか。

 

関わっている人間の数だけ、ものごとは複雑になります。

 

極論を言えば、ネットが繋がっている以上誰しもが何かしらで関わり合ってるわけで、我々は今、誰もが風が吹けば桶屋が儲かる的な世の中を生きてることになるわけです。

 

さらに、世の中でなされている判断の大半は、見切り発車状態でされていることも考慮しないといけません。

 

判断材料が出揃う前に判断しなければいけない状況がほとんどじゃないでしょうか。

世界は日に日にスピードを増しています。

 

 

 

となると、この複雑な世の中で、時間制限のある中ものごとを判断するってことは、多かれ少なかれ運任せな状況になってしまうのはやむを得ない気がしています。

 

そしてサッカーこそ、そんな世の中の仕組みがもろに反映されてるスポーツだなーと見てて思うわけです。

 

だから僕はポーランド戦で運任せな戦術が取られたのも、妥当なことだと思ってます。

 

 

 

一方で、運任せにしたことで怒る人の気持ちも理解はできます。

 

それはサッカーをスポーツというよりエンターテインメントとして見ているからこそ、怒りたくなっちゃうんだなって気がします。

 

 

 

僕が考えるエンターテインメントの定義とは、人々を楽しませることを最優先しているかどうか。

 

個人的に日本で一番のエンターテインメントはディズニーランドだと思っています。

 

ディズニーランドではミッキーはどんな時もミッキーでいてくれる。

期待を絶対裏切らない。

 

 

 

そんなディズニーランドは“夢の国”と呼ばれてますが、一方の日本代表も“夢を力に”とか言われています。

この夢という単語をメディアが使うと、一層エンターテインメント色の強い響きを帯びてきますね。

 

もしディスニーランド的な“裏切らない夢”を日本代表からも見たいと望むとしたら、それはナンセンスだという気もします。

 

なぜなら、スポーツで最優先されるのは結果を出すことで、人々を楽しませることではない。

 

本来サッカーは夢を与えるエンターテインメントである以前に、スポーツなのだ。

結果にこだわるためなら、夢や期待からかけ離れた選択をしなきゃいけない時だってあるのでしょう。

 

ポーランド戦は、単にそのことが浮き彫りになった試合だなと振り返ることもできますね。。

 

 

 

だから個人的には、スポーツと夢という言葉をがっちり結びつけないで欲しいな、、とは思うよね。

 

もし、裏切らない夢を信じ続けたいのであれば、サッカー見るよりディズニーランドに行くべきかもしれません。

もし、心からスポーツを楽しみたいのであれば、裏切られる夢もあることを理解した上で声援を送るべきなのかもしれません。

 

 

 

 

 

もう一つ、ポーランド戦バッシングの背景には、運で勝敗が決まっちゃうことを簡単に受け入れたくない心情もあるのかなーって。

 

だってもし運も勝因敗因になり得ると言うのなら、ものごとを頑張る意味は一体どこにあるのか、と。

運で左右される余地が残っているということは、努力が報われない可能性を暗に認めちゃうことだから。

 

 

 

でも、そもそも人生ってそう言うもんでしょ?と最初に感じたのは、僕の場合早稲田大学の日本史の過去問を解いてる時でした。

 

早稲田の日本史って、教科書にも参考書にも載ってない問題を平気で出題してくる。

 

18XX年江戸で〇〇という事件を起こしたのは誰か。次の4人の中から選べ、的な。

いや全然習ってねーし。しかも選択肢の中に見たことない奴いるし、みたいな。

 

そういう問題は、この年代だと選択肢に出てくるこいつはまだ江戸に来てないはずだとか、こいつは幕府側だから事件を起こす可能性は低いだろうとか、仮説を立てていくしかないわけです。

すると、うまくいくと最後は候補を2人ぐらいに絞り込めます。

 

まあ、結局最後は運なのです。

努力だけではどうにもならない領域が残されてるのは確かです。

 

でも、知らない問題だからと諦めた人は勝率25%止まりだけど、仮説を有効に立てていくことで勝率50%まで上げられるチャンスは残されていたわけです。

 

この差はでかいですよ。

最後は運だとしても、ギリギリまでロジカルに考える努力をし続けた方に勝機があるのは確かです。

 

 

 

そういえば、西野監督も早稲田出身だそうですね。

 

彼が日本史の入試を受けたかどうか知りませんが、ポーランド戦少しでも勝算を上げるために、コロンビアはセネガルに勝つだろうという仮説を引っ張り出した彼の采配は素晴らしいと感じてます。

 

試合自体はクソつまんなかったけど。笑

ロシアまで見に行った人にはちょっと同情しちゃいます。

 

まあでもそれで良いんです、結果出すことを貫いたわけだからね、筋は通してくれたと思う。

 

 

 

 

最後に、川島擁護の吉田にせよ、メディアのスタメン漏洩を注意する本田や長友にせよ、ずれてるサポーターに対して自分の意見をしっかり発言できる人はプロだなーと思いました。

 

そしてやっぱり彼らの発言に説得力あるのは、彼らが日本トップレベルでサッカーが上手いからなんだろうなー。

 

自分の発言をきちんと伝えるためにも、自己の技術を高める努力って大切なんだなと感じました。

 

 

 

 

 

“風が吹けば桶屋が儲かる”“早稲田大学日本史”的な世の中で、これからもずっと生き抜いていかなければなりません。

 

そのことについて、多かれ少なかれ誰もが何かしら問題を抱えてるわけですが、そんな中でもタフに走り続け考え抜き、壁を乗り越えていく姿勢の大切さと楽しさを、サッカーを見るたび選手から教わっている気がしますね。

 

そのためだったら、多少の徹夜も全然大丈夫ですよー。


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子供の頃祖父母に連れられ美術館に行ったことを、時々思い出します。

 

土日で混んでるしなにせ身長が足りないので、人混みを掻き分け掻き分け絵の前に躍り出なきゃいけない。

一つの絵を見るたびにそんな調子だから、すぐ疲れて早く帰りたいと思ってた記憶があります。

 

それでも、画家が一枚の絵に込めたエネルギーと、それを見たいと思う人々とが交差する美術館という空間に対して、なんかすげえなあという感情を抱いたのを覚えています。

 

 

 

ここ数年は、思い立ったら美術館に行くようにしています。

特に一人の画家にスポットをあて、作品が年代順に並べられてるタイプの展覧会が好きです。

 

どうしてこういうタイプの展覧会に惹かれるのか、最近わかりました。

 

美術の教科書には画家の代表作が載ってるけど、どんな画家もほぼ例外なくその代表作を生み出すまでに、少なくとも一度は大規模な作風の変貌を遂げています。

 

例えば、カラフルな水玉模様のイメージが強い草間彌生さんですが、若い頃は黒基調のダークな絵を描いていました。

 

 

では、何故作風は変貌するのか。

 

そのきっかけは前向きなものというよりも、時代の変遷や身内の不幸など、不可抗力の前に変貌を余儀なくされた、という印象を受けます。

 

例えば、カメラが発明された時代に生きた画家は、見たものをありのままに描いている以上カメラには敵わないという事実にぶち当たっていました。

 

なかなか酷な事実だったと思いますよ。

カメラの登場は、何のために絵を描くかという意味を根本から揺るがす衝撃はあったかと思われます。

 

 

それでも、彼らは描き続けたわけです。

 

描く意味が揺らぐような事実は、おそらく彼らの望んだことではないし、簡単に受け入れられる話でもなかったはずだ。

 

だとしても、それを克服し、もう一度絵を描くことの意味を与え直すために、彼らは作品を産み出さないわけにはいかなかった。

 

このダイナミズムが、作品にエネルギーを与えているように感じます。

そのようにして生まれた作品が後世に残され、今を生きる僕たちはそれを美術の教科書越しに見ているわけです。

 

 

 

ただ、教科書を見ているだけでは、その変貌がどれだけ大きいものだったか、ピンとこないじゃないですか。

 

でも人気の美術展に行けば、ほとんどが、

変貌を遂げる前の作品→変貌のきっかけに至った出来事の解説→変貌後の作品

という時系列を踏まえ展示されています。

 

変貌のきっかけになった出来事との葛藤。

その後生まれた作品へ向けられたエネルギー。

 

それらを疑似体験できるという点で、美術館には美術の教科書を眺める以上の魅力があるのかな、と思います。

 

 

 

作風を変貌させるというのは、今まで自分のやってきたことにNGを突きつけることをも意味します。

 

それはなかなか残酷なことです。

 

僕も作風を変貌させないといけないのはわかっていても、今まで積み上げてきたものを否定したくなくて、なかなか踏み切れない時があります。

 

例えば、ひと昔前は一曲作るにも大勢のミュージシャンをスタジオに呼んでレコーディングしていました。

でも今は基本的にそんな予算がありません(僕が売れてないだけかもしれませんが)。

 

そんな状況下、昔の大勢でレコーディングした音像をシンセ音源で代替した所で、結局廉価な代替物でしかないわけです。

それよりも、一人で家で作ることでしか生まれない音楽を(一人で家で作ることへの意味を与え直された音楽を)作り出す必要があるわけです。

 

 

とはいえそれは、昔のサウンドをモデルにしてきた今までの自分のやり方にNGを突きつける行為でもあります。

わかっていても、簡単に受け入れられる話ではありません。

 

そんな時、これからどうすれば良いか、この状況をどう捉えれば良いのか、何かヒントはないか。

それを探しに美術館に行くのです。

昔のアーティストならどうしてたかな、、って。

 

ものを作る以上、歴史的に見ればこういう問題に誰もが直面していたこと(時代はいつだって絶え間なく変遷しているし、どう足掻いた所で悲しいできごとは起こり得る。自分だけが特別な状況にいるわけではないこと)を、美術館はいつだって教えてくれます。

 

そして帰る頃には毎回、こう言われてるような気持ちになります。

 

いいから作れ。と。

 

 

 

これが自分の思う美術館の魅力です。

 

クリエイターにとっては、自分の作風の見直しや再確認ができるし、自信やモチベーションが得られることもあるかと思います。

 

クリエイターでなくても、普段接することのない視点が得られて良いリフレッシュになるかもしれません。

 

ぜひ行ってみてはいかがでしょうか。

(別に美術関係者でもなんでもないんですけどね。)


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こんにちは。

 

このブログは元はと言えば、ホームページ作るのがかったるくて、でもせめて真面目に活動してる音楽家なんだよってことを世の中に知ってもらう必要があると思い、それは僕の場合自分の人となりを文章にすることで伝えられるんじゃないかという発想から始まったものでした。

 

なので、経歴を羅列したりリア充っぷりをアピールするためのツールではなくて、日々の明暗どちらもフラットに公開することが一番の目的だということをまず、お伝えしなければなりません。

 

という前置きから始まりますが、最近離婚いたしました。

 

離婚に至った理由を一言で説明するのはとても難しいですが、良い家庭を作ることや良い夫でいることを中心にして日々の生活を送ることが、僕にとっては思っていた以上に難しかったということです。

 

あとは、子供の頃から今に至るまで、何をすれば良く何をしたら悪いかという物差し、何をしたら喜び何をしたら悲しむかという感覚を独自に作り上げてしまったがため、それを人と共有することが人一倍難しいというのもあると思います。

 

独自の物差しと感覚を捨て、例えば常識とか世間体とか一般的なものに置き換えることも頑張ればできたはずだし、それがいわゆる大人になるってことだとも理解はしてるんですが、そこに対して頑張ることと自分の人生を悔いなく生きることが上手くリンクできなかったんだとも思います。

(それが上手くリンクできる性格なら、そもそもサラリーマンか公務員目指してただろうし、ここまで音楽に熱中することもなかったと思います。)

 

その独自の物差しと感覚こそが僕にとっては日々を生きるエンジンであり、それに磨きをかけ音楽を作り、その方法で今まで食べてきたわけです。それらを封印したとしたら、そもそもこれからどうやって暮らしていけばいいか良くわからなくなってしまうわけです。

他人と価値観や感情の共有ができないことと引き換えに、僕の生活が成り立っているという面も少なからずあったことを、今更ながら痛感しています。

(それをもっと早くに気づいていれば、、とも思うけど、気づくのがもっと若い頃だったらそれを受け入れるメンタルはできてなかったはずだから、このタイミングで良かったと思うしかなさそうです。)

 

それを黙認し今後二人生きていくには人生は長すぎるし、だったら子供のいない今のうちにそれぞれが理想とする生き方に向かって再スタートした方が、お互いにとって良いんじゃないかと。

 

なので、もう顔も見たくないという別れではなく、どちらかというと、お互いの将来を願っての離婚だと思ってます。

その方が僕の音楽にとってプラスになるということも良く理解してもらっているので、むしろ今となっては別れも一つの愛情の形だとも感じています。

さすがに決断した時はこたえましたが。

 

だから離婚したとはいえ今も妻は僕の良き理解者であり、そんな妻と式を挙げ、期間は短かったものの一緒に暮らせたということは、本当に幸せだと思ってます。

 

ただ、お祝いして頂いた方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

綺麗事でだいぶ遠回りではありますが、周りのみんなが幸せな時は温かく見守るような、悲しい時は励ましを与えるような音楽を作れるようになることで、なんとか埋め合わせができればなと思ってます。

 

今回のことを前向きに捉えようと努めるならば、失って困るものがなくなったということです。

それは考えようによっては、とてつもない自由を得たことになるとも思うわけです。

 

この自由を色々なパワーに変えて、これからも元気にマイペースに生きていこうと思ってますので、夫婦共々、今後とも応援の方どうぞよろしくお願いいたします。

 

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